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【コロナと私の日常】 Day83

83日目 7月28日(火)

今日も、怠惰な朝を迎える。異様に眠いのはなぜだろう。

今日は1日オフなので、大学と就活の課題に専念することにする。

Netflixを見つつヨーグルトを食べ、ランチにニラ玉を作り、午後から1コマ最後の授業を受け、Netflixを見る。あれ、ひとつも課題やってないやばい。そう思いつつNetflixを見る手を止められないプロクラスティネーター。先延ばし野郎。

そして、もう学生最後の春学期が終わりを迎えていることに驚く。早い。早すぎる。人生ってほんとにあっという間。3年前、ピチピチの姿で大学に入学したときのことを今でも鮮明に覚えている。あの頃は、3年生や4年生のことがとんでもなく大人に見えていた。今の私は、そう言う風に見えているのだろうか。全くもって自信がない。あの時の3,4年生もそんなことを思いながら、上級生を演じていたのかなあ。なんて。

ところでアニメBLEACHには、バウントと呼ばれる不死身な人たちが登場するのだけれど、彼らの時間に対する考え方が非常に興味深い。あるバウントは、短い命を燃やす人間たちを見て、限られた時間を生きているからこそ、懸命に生きれるのかもしれないと言うのだ。確かに私たちは、「いつか死ぬ」と思っているからこそ、今ある時間を一生懸命生きていかなきゃという気になっている。おそらく時間が有り余っていれば、後でいいやと今以上に今を大切にしなくなるだろう。

かくいう私も、大学4年生で授業もほとんどなく、圧倒的に時間があると言うのにこうして怠けている。それは、時間があるからこそ、後でできると思ってしまうからだ。人生も同じように、もし人間が100年以下の命ではなくて、何百年、何千年と生きれる命であったなら、どうなるのだろう。今まで私は時間があればあるほどいいと思っていたけれど、もしかしたらそれは違うのかもしれない。時間があればあるだけ、「生きる」ことへの絶望が生まれるかもしれない。途方もないくらいの時の流れを感じて、歴史の輪廻を思い、早く命を終わらせたいと思うかもしれない。そう考えると、人間として、大体の寿命が分かっていて、死を意識しながら生きていけると言うのは、とてもありがたいことなのだろうか。流石に私も常に「明日死ぬかもしれない」なんて思いながら生きてはいないけれど、そういう時間的な制約を感じた方が、今という一瞬一瞬に夢中になれるものなのかもしれない。

ああ。私が、いつも締め切りギリギリにならないと出来ないのは、こういうことなのかな。火事場の馬鹿力的な力が、いつも発揮できればいいのにね。そんなことを思う夕方。

ディナーに餃子を食べて、母とおしゃべりする。人生において大切なのは、「選ぶ」ことではなく「捨てる」ことだよね〜という話。何かを選ぶときには、何かを捨てる覚悟をしなければいけない。全部を選ぶことはできないのだから、何かを選ぶということは、何かを諦めて、捨てるということなのだ。何かを捨てれない人には、何も選ぶことは出来ない。なんか似たようなことを前にも書いたような気がするけれど、気にしない。何度でも書いてやる。そうやって自分の心にインプットする。

私は捨てることが出来ない人間だった。大学1年生のときにはあれもこれもとやりたいこと全部に手をつけて、死にかけた。その時、手放すことの大切さを学んだ。ときには諦めも肝心だなんていうけれど、「選ぶことを諦める」ということが大切だなと思う。私の母なんて、捨てられなくて苦労している人間の典型である。家はモノで溢れているし、やりたいことがたくさんありすぎて、色々なことに手を出し学んでは、次々と趣味を変えている。おかげで、歩くGoogleのような存在にはなったけれど、スペシャリストにはなれていないらしい。きっと母は、「選ぶことを諦める」という人生を「諦めた」のだろう。そういう人も全然いてもいいと思うけれど、生きていくって、やっぱり大変だなあ。

ああ。今日は、コバエが飛んでいた。

おやすみ。


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