【ユンゲ・フライハイト紙】ゲスト寄稿: もっと気骨をふるおう!①

【ユンゲ・フライハイト紙】ゲスト寄稿: もっと気骨をふるおう!
2019年12月19日 ヨルク・モイテン

自分の故郷の街の通りを歩いていると、私の目に映るのは、私の国が過去の数十年に被ることになった莫大な実質の喪失である。野卑なもの、汚らわしいもの、カオス的なもの、恥ずべきものが、大につけ小につけ、密接に結びつき合っている。社交の形式や美学などというものは、もはやどんな役割も果たしていない。デカダンスの現象と集団的な規律の堕落こそが、現代における道徳的な相対主義の帰結である。

このような道徳的な相対主義は、保守主義者にとって特に我慢のならないものである。というのも、保守主義者が誇りとするのは秩序と方向づけであり、彼らは明確な道徳上の羅針盤をもっているからである。保守主義者にとって、正しいことと間違っていること、正義と不正義が存在しているのである。そしてだからこそ彼は、思いあがりによる侵害と内的な堕落による、生と秩序の破壊への懸念から、不都合な事態を指摘する勇気を持つのである。

まさにこのことが、左翼の文化的ヘゲモニーに支配されてきた環境において、何十年も保守主義者をアウトサイダーにしてきたのである。というのも左翼によって聖体顕現台のごとく崇められている寛容は、自己言及的に、同じ心情の者に対してのみ有効であり、保守主義者には適用されないからである。左翼にとっては、すべての道徳は相対的である。正しいことと間違っていること、正義と不正義——こういったものは、左翼においては存在していない。すべてが可能であり、義務は何もない。何でもオッケーなのである。あらゆるものが相対的で、等しい正しさをもち、またなんの拘束力をもたない。あらゆるものが表向きは平等なのである。文明的な区別というものは拒否される。どんな未発達の生活様式であっても、当たり前のように、ヨーロッパの高度な文化と同じ段階にあることになるのだ。

固有の文化の喪失への不安
そこからの論理的な帰結として、固有のものを自らで軽蔑するということがある。固有のものをもはや誰もすすんで護ろうとしないのだ。そしてもう一つが異質なものの称揚であり、それは価値相対的な論理から、少なくともすべて同価値でならないとされる。ひとがこうして自分自身の価値を貶めているときに、彼はなおも、何のために闘ったりするというのだろうか。このような考え方は危険に対する免疫をなくしてしまう——内側から煮えたぎり、また外から脅かすような危険に対して。

このような状況のうちで、無条件の多文化主義が、華々しく咲き誇っている——そして、それはますます、保守主義者の念頭にあるような社会秩序を不可能なものにしているのである。保守主義者が懸念するのは、自らの文化の喪失であり、それは今日では以前よりもずっと正しいものとなっている。

文化というものは、いくつもの世代、神話、伝統、運命、自ら体験され伝承されたものを通して育ってくるものである。それが文化に対して、意味や秩序や方向性や必然的なアイデンティティを与えるのである。

イレネウス・アイブル=アイベスフェルトが正しくも注意を向けさせたのは、人間は、日常において協働したり、共生できるようになるためには、膨大な信頼の前貸しを必要とするということである。そして、このような信頼の前貸しは、ひとが自分になじんだ環境や習慣や伝統や習俗や慣習を信頼するときに、初めて存在するのである。それは、それを通じて普遍的で、しかもはっきりと言葉にはされないコンセンサスが成り立つところの規則や規範といってもよい。今日なおもそれは存在しているだろうか。それは一歩ずつ消滅していっているように思われる。そこに在るのは、ますます増大していく、支配的な多文化主義者によって体系的に昂進させられている完全なる社会の異質性であり、また卑屈なまでの文化への敏感さによって、固有のものを尺度に掲げることのできなくなった気骨の欠けた原住民なのである。

いまや文化は、倫理的-道徳的な根本原理のわずかなセットへと還元されてしまっている。そのうちではいくつか単純な行為の規則が担保されていて、どこでどのように社会化されようと、すべての人がそれに結びつけられるというわけだ。しかしながら実際には、これは広範に流布されているナイーヴな迷信である。文化というのは複雑なものである。この複雑性は、はっきり語られずとも普遍的に共有されており、しかも——左派の政治家であるAydan Ōzoğuzがまじめに要求しているように、毎日のように新たに討議される必要のないような規則や規範や直観のうちに姿を現すものである。それが際立たせているのは、信頼によって機能している社会なのである。

それに対して多文化主義的な社会において顕著なのは、より大きな不信である。というのも、人々は、自らの規則や規範や理解が他の人々にも共有されているかについて不確かになるからである。形式的にみれば、ハンブルクのブランケネゼ(※訳者注: 裕福な住宅街のある地域)においては、デュイスブルクのマルクスロ(※訳者注: No go areaとされる地域)と同じ規則が妥当しているが、非公式にはそれはまったく違ったものなのである。そして社会全体としてみれば、このような断裂は増大していっている。既存の秩序を揺るがすべく登場しつつある並列的社会が、それを証明している。

これこそが多文化主義の裏面なのであるが、それが意図的にトルコのケバブ屋、イタリアレストラン、アラビアの水パイプバー、インドのヨガスクール、ラテン系のダンスコース、アフリカ音楽、その他のエキゾチックな民俗習慣やとるに足らないものへと矮小化されてしまうのだ。仮にそれらがすべて実に素晴らしいものであるとしても、それは、多文化主義の社会がその核心において、そこで社会の複雑性が極度に酷使され、ソーシャル・キャピタルが消耗させられ、前もって紛争がプログラム化されるような不信による社会である、という事実を無視したロマン的な美化である。

社会の脱連帯化
多文化主義に陶酔しているエスタブリッシュメントの弁解的慰撫とは違って、ますます多くの人々が、この事実に気づいている。ベルリンはバグダッドになってはいけないのである、ただ残念ながら、時折すでにそうなっているが。状況はますますカオス的になってきている。そしてカオスのうちで人間は、秩序や方向づけ、よりどころやつながりを求めるのである。だが、ここで本来であれば弊害を除去するのに役立つべき典型的な制度は、機能を発揮していないか、体系的に時代遅れのものになってしまっている。たとえば教会は、政治の手先として、せいぜいのところ極めて限定的にその精神的使命を果たしているに過ぎない。あるいは本来であれば社会の基盤であるべき家族も、何にでも介入する国家によって、その機能を漸次的かつ徹底的に、意図的に空洞化されてしまっている。

権力国家があらゆるところに遍在するおかげで、家族や教会やさらには国家などの制度のあいだの均衡が、そのバランスを失ってしまっている。多くの保守主義者の間違いの本質は、国家のうちに問題の源泉ではなく、その解決を見出そうとすることである。

しかし大陸のヨーロッパで支配的となっている国家信仰は、結局のところは他でもない社会の脱連帯化、つまりは隣人愛などのキリスト教的、保守的価値の浸食や、価格メカニズムの排除による莫大のリソースの消滅と、家族の絆やその他の自然に生育する制度や関係の弱体化を引きおこすのである。これは、すべての人が国家のみにだけ信頼を寄せてしまうことによって、自分自身や隣人——したがって自らの本来の社会的なつながり——を信頼しなくなるということである。

https://jungefreiheit.de/debatte/forum/2019/mehr-mumm-wagen/

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