泳げない海亀 #83(Butterflies in the stomach)
いつしかステージの前は人だかりが増え、初めて聴くその演奏に身体を動かし、声を上げる。
それはまるで初期衝動、踊りたい者が踊り、歌いたい者が歌う純粋な欲望が溢れていた。
いつもの通り、何も変わらない。
昇太は淡々と演奏する。
だが、その得体の知れない男が放つグルーヴが人を集め、続けざまに三曲を終える頃には既に満杯の客に入場規制までが敷かれていた。
「ほら、僕の目に狂いはなかった」
ステージの袖で顔を紅潮させた柊が目を輝かせて呟いた。
✴︎
息を吐く。
とめどなく流れる汗が心地よい。
ざわつく観客をよそにチューニングを確認するとマイクに口を近づけた。
突然現れた名もなきミュージシャンに観衆は釘付けになり、一瞬辺りは静謐な空間となる。
「ありがとう」
一言だけだったが、再び大歓声が巻き起こった。
「じゃ、次」
ギターをパーカッションのように叩きカウントをとる。
爪弾くその曲はどこか土着的でありオリエンタルであり、懐かしさも感じる不思議な雰囲気を醸し出した。
台風のように場内は人の渦が出来上がり、興奮は高まる一方だった。
まるでダンスフロア。
笑顔が弾け、知らない者同士が音楽で繋がり、再び離れ、ぶつかり、踊る。
音楽など所詮平和の上に成り立つ、生きていく上では必要ないものと誰かが言った。
ノーミュージック、ノーライフなどただのくだらないキャッチコピーだと誰かが言った。
確かにそうかも知れない。
だが、今を生きるなら俺には音楽が必要だ。 昇太は盛り上がる観客を眺め、そう思った。
身体が勝手に動く。
自然と立ち上がり、ギターを抱えるように爪弾く。
生々しい音。それを構築するリズム。
そして昇太の声が会場に、聴く者の身体に響いて行く。
昇太の音とシンクロするように観客の踊るステップがまるで地鳴りのようにステージを揺らす。
昇太は肌でそれを感じ、目頭が熱くなった。
✴︎
「隼人さん、どうしたんですか?」
ステージ裏の楽屋でライブの汗も引かぬままビールに口をつけている光明が宙を見つめ眉間にシワを寄せている隼人を見た。忍やサクライは既に着替えて取り巻きのスタッフやファンと談笑している。
「この曲良いな」
バックステージから客がいる会場の様子は窺い知れなかったが、軽やかな曲とそれに伴う歓声が聞こえる。
「ああ、売れない連中がまたステージで」そこまで口にするが、光明も首をひねった。
「あれ?カッコいいじゃないですか」
気になった光明はサイドコアステージが見えるところまで走ってゆく。
その光景を見た瞬間、目を丸くし再び隼人の元へ戻ってきた。
「やばいです、隼人さん。とんでもないことが起きてますよ」
興奮した光明が隼人の腕を引っ張る。隼人はなすがままにされ、ステージを見た。そして目を疑った。
続く
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