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泳げない海亀 #87(Music to his ears)

 昇太は黙ったままだった。

 だが、しばらくすると微笑んで柊を見た。
「やることは全てやったんですよ」
表現者として生きるのならば全てを出し尽くす事はありえない。日々破壊と再生を繰り返し、新しい何かを創造する。それは命ある限り使命であり、そうあるべきだと昇太も思っていた。
 だが、自分は違った。
 あのステージで変わった。


「ワクさんにはまだまだやれる事があります」
 柊は身を乗り出した。渋るアーティストを説得するのも自分の役目だと思っている。しかし、それ以上に目の前にいる「ワク」という人柄に惹かれていた。この人を世に知らしめるべきだと切実に思っていた。

「勘違いしないでもらいたいのですが、僕は音楽を見限ったわけではないんです。可能性は無限大ですよ」
 昇太はそう言って窓の外を眺める。日差しの中を子供達が走っていくのが見えた。再び柊を見ると、真剣な眼差しを送ってきている。昇太は意を決して口を開いた。
「だけどね、物事には様々な形があると思うんです。音楽はやもすれば地位や名声、何よりお金に変わる。でもそれだけじゃない気がするんです。こんな考え、今時陳腐かもしれませんが」昇太はまた微笑む。

「生活は大事ですけど、それと同じくらい音楽が大切なんですよ」

 柊はその言葉を聞いて大きく息を吐いた。
 この人はきっと世に出るアーティストではない。悪い意味ではなく、今の音楽シーンや商業ベースの音楽を必要としない人ということだ。 
 それに伴って享受し得る富や名声も彼にとっては取るに足りない事なのかもしれない。
 そんな人物に浅薄な考えで説得を試みた自分がひどく矮小に感じた。
「あの素晴らしいステージへと誘ってくれたこと、そしてそれを評価してくれたことは本当にありがたいと思っているんです。でもね、やっぱり自分の気持ちを曲げられない。だから音楽業界に残る事は出来ないんです。最後のわがままとしてどうか理解して下さい」
 昇太は終始柔和な表情で言った。

「分かりました」
 柊は立ち上がると右手を差し出した。
「本当にあなたの音楽は素晴らしいです。いや、それだけじゃなく、生き方や人柄、考え方も」
 握手されたその手は繊細だが、力強い。その瞬間、やはり目の前の男がロガーヘッドのショウではないかと思ったが、口にするのをやめた。それが誰であろうともはやどうでもよかった。
「君の立場もあるだろうけど、分かってくれて良かった」昇太は顔を綻ばせた。
「これからどうするのですか?」
 野暮な事とは分かっていたが、聞かずにはいられなかった。
「まあ、ぼちぼち生きていきます」
 遠い目をしてそうはにかんで微笑む男を見て柊もつられて微笑んだ。


続く

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