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にがうりの人 #38 (夜の呻吟)

 きりの良いところで仕事を終えて、私と高峰は夜の街へと繰り出した。高峰はただでさえ弱い酒を私が止めるのも聞かずに浴びるようにあおった。
「以前、私が君に言った事を覚えているかい?」
 私は頷きもせず、じっと高峰の目を見つめた。高峰の目は虚ろになっている。
「君が言うとおり、私は仕事に私情を挟んでいるかもしれないなあ」
 彼はそう言うと天を仰いだ。
「それでいいじゃないですか。先生は間違っていません」
「いいかい?私が蒲田の依頼を断ったところで彼は別の、しかももっと敏腕の弁護士に依頼するだろう。そうなったらどうなる?結果は変わらないんだ」
 私は唇を噛むしかない。私にもそのことは分かっていたからだ。しかしその非情な現実を受け止められず、もがいていた。
 暗澹たる私達を他所に安い居酒屋は盛況で、周りは笑い声に溢れている。その温度差に私の心も抉られるようだった。

 何のための法律家か。結局、強者が生き延びるように世界は出来ている。
「最初はね、受任しようと思っていたんだよ」
 そうして彼は自らなみなみと日本酒を猪口に注ぐとぐいっと飲み干した。
「私が受けていれば、なんとか被害者有利の方向で事を運べると思ってね」
 それは弁護士にとってやってはならない事だった。弁護士たるもの依頼人の利益を最優先にすべきである。高峰の瞼はすでにほとんど開いていない。
「被害者に会ってしまったんだよ。妊娠五ヶ月目だそうだ。おなかも目立ってきていた。でもね、何度か自殺未遂を起こしているらしい。私はそれを聞いた時、君のお母さんを思い出してしまってね」
 はっとした。私の母親も妊娠中に自ら命を絶っている。
「つらい事思い出させてしまって悪かったね。やはり、私は法律家失格だ」
 かける言葉が無かった。それと同時に怒りがこみ上げてくる。

「明日、正式に蒲田の依頼を断ろうと思う」

 そう言うと高峰は徳利を倒し、その場で眠ってしまった。高峰はおそらく被害女性の現状をまざまざと見せられたのだろう。だからと言って依頼人の利益と反する行為をとるなど言語道断である。そこに法律家の葛藤が生まれるのかもしれない。
 しかし、現実的に考えればそんな葛藤を持ち続けることはナンセンスであり、それは本来の弁護士の仕事とはかけ離れてしまう。だとしたら自分自身の正義感はどこへ向かうというのか。

✴︎

 高峰に肩を貸し、居酒屋を出ると雨がそぼ降っていた。蒸し暑い夜の雨は不快そのもので私は霧雨を避けるため、眉間にしわをよせる。大通りまで出ると交通量は多いもののタクシーはなかなかつかまらなかった。
 私の肩でつぶれている高峰は意識が定まらないまま、震える声で私に謝り続けていた。私もうんうんと頷き、それが雨なのか涙なのかわからないまま頬を拭った。

続く

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