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隠したくなる場所 〈私とお片付け 第1話〉

今年、地元紙の「暮らし特集」に我が家を掲載してもらう、ということがあった。それを見たお友達が「お家のお片付けを手伝って欲しい」「どうやったらあんな風になるの?」「お家に行ってみたい」と何とも嬉しい言葉をかけてくれるようになった。

そんな私と、お片付けのお話を、今日はしてみたいと思う。

もともと私は、学校のロッカーを開けると雪崩が起きて閉まらなくなるタイプの人間だった。母からは、片付けができない病気だと言われていた。社会人になってから一人暮らしをしても、部屋の中は散乱していて、彼氏が来るとまず彼が無言で掃除機をかける、といったような人間だった。だけど私は覚えている。たった1箇所だけ、私は自分のときめく空間だけは、大切に大切に整えていたことを。例えば、机の引き出しの1段目。大好きな文房具を飾るように並べ、少しでもズレると直して愛でていた。例えば、化粧台。木製のアクセサリーケースとお化粧ケースの中だけは、毎日ゴミ1つ入らないように大切にしていた。

そんな私が、自分の家を丸ごと「この世で1番の居心地の良い場所」にしたのは、4年前のことだ。専業主婦になって2人の小さな子どもたちと毎日家で過ごす日々。家の中は自分の物はほとんどなくて、子どものもので溢れていた。外では子育てを楽しむ幸せなママの顔だけど、家ではよく怒って、よく泣いていた。私は自分にそんな2つの顔があることを、誰にも言えない自分の“隠したい場所“だと思っていた。

そんな時に、私の人生を変える「お片付けの先生」に出会った。そこで私は、初めて本当のお片付けを知った。私は初めて、自分が2つの顔を持っているのではなくて、本当の自分と繋がれていなかっただけだと、知った。

お家の景色は、私の潜在意識の投影。自分に苦しくて嫌なところがあるのを隠していたから、家の中にも“隠したい部屋“があった。人が来るリビングはだいたい片付いているけれど、あとで何とかしよう、いつか使おう、と〈なんとなく〉私が家に入れた物が、別の部屋に重なり積まれていっていた。私は、この隠したい部屋を何とかしたかった。この隠したい自分を、何とかしたかった。隠したいものの正体が何なのか、1つずつ1つずつ向き合っていった。

私はそこに詰め込まれていた「物」を通して、「考え方」や「執着」を、その物と共に手放していった。そして手放したあと、そこに何を飾って愛でたいか、何を大事にして生きていきたいか、心に問いかけていったのだ。

その作業は、「整理収納」や「片付け」という言葉とは、とてもとても遠い。
潜在意識を掘り起こしていく、とてつもない心の作業だ。
1人ではとても心が折れそうで、先生や仲間が伴走してくれなかったらとてもたどり着けなかった。何度も放心状態になったり、何度も大きな気づきに出会って泣いた。何度もごまかしそうになった自分を、許し励ましていった。

そうして、私の家は、大好きな物で溢れた。全方位、私の心をほぐしてくれる心地の良い景色となった。私の心をチクリと刺すものはない。隠したくる場所は消えた。

家の中は、小さい頃、引き出しの1段目を開ける時のようなワクワクした気持ちでいっぱい。そして、隠したい場所がこの家から全て消えた時、私の中にいたもう1人の「いつも怒って、いつも泣いている私」は、いなくなった。消えたというよりは、そんな私を許して、慰めて、つながったというような感覚。泣いたり怒ったりするのではなくて、本当はどうしたかったか、その声を聞きにいけるようになった。

私は今、どんなカフェより、どんなホテルより、自分のお家の景色が好きだ。

それは、好きな「物」が置いてあるからではなくて。

自分の「好き」や「大切なもの」「要らないもの」を、誰より私がわかっている。

誰にも隠すところがない。

ここにいると、そんな私をしっかりと感じることができるから。

ここにいると、そんな自分でありたいと思うから。

この家は、私の生き方、そのものだ。


つづく


エッセイ【私とお片付け】
小さい頃から、片付けが苦手な自分を隠しながら生きてきました。結婚し子育てをする中で、物に溢れ、適当な服を着るようになった私。「好きなもの」「本当にやりたいこと」が分からなくなっていきました。そんな時、私は人生で初めて「お片付け」を習います。そこで、お家の中の景色は全て、自分の心の投影であることを、お家を丸ごと片付けて体感しました。「どんな所よりこの家にいる私が1番好き」と言えるようになった時、私は「自分のことがとても信頼できる大切な人」になりました。誰かに隠す部屋や扉がなくなった時、私は誰にも隠れることなく自由に生きることができるようになりました。そんな魔法みたいな私のお片付けが、誰かにそっと届きますように。

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