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小説「愛おしい」(上)

ご注意;本作には浮気といった描写が含まれます。苦手な方はご覧になりませんよう、よろしくお願い申し上げます。

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 クリスマスを目前に控えた季節である。イルミネーションに彩られた、夜の池袋駅周辺を歩いていると、猥雑な歓楽街の匂いに混じって、つんと冬の香りが鼻をついた。

 そのなんともいえないセンチメンタリズムをくすぐる馨香は、心にぽっかりと空いた穴をより広げるような気がして、畔上露樹(あぜがみつゆき)はナルシズムにも似た感傷に身を委ねたくなった。何処からか聞こえる楽しげなクリスマスソングが、自分の置かれた境遇とは対照的に思え、それも彼の孤独な哀しみに拍車をかける効果を上げた。

 「露樹、早く早く」

 先に先にと進んでいた南坂樹里(みなみさかじゅり)が声を上げ、手を振っている。

 露樹はふと我に返り、彼女のもとへと小走りで向かった。顔に当たる、しんとした空気が、容赦なく肌の痛覚を刺激した。これから待ち受ける本格的な寒さが思いやられた。

 「ごめん、ちょっとぼーっとしてて」

 「大丈夫? 研究のしすぎじゃない?」

 「いや、平気だよ。ここしばらくは実験も落ち着き気味だし。とはいえ、しばらく自宅と研究室しか往復してなかったから、街の雰囲気にあてられちゃってさ」

 「ふうん、学生とは言っても、院生も大変だね」

 「社会人に言われちゃ、立つ瀬がないな」

 「あはは、それは言えてるかも」と笑うと、樹里は踵を返してまた、露樹の前をひらひらと歩いた。露木もそれに従って、歩を進めた。

 劇場通りを北上すると、歓楽街からは少し外れ、落ち着いた雰囲気が出てくる。しかし眼前に立ち並ぶのはビル、またビルなので、無機質で冷たい印象を感じた。コンクリートで出来た様相を見ていると、その表面はひんやりとしているように見え、ビルそのものがうっすらと冷気を放っているようにも感じられ、底冷えが増したようにも思えた。

 ここまで来ると人もまばらで、あたりも薄暗くなってきているように思われた。駅からは確実に遠ざかっている。

 しかし、露樹は先を行く樹里に対して、何かを言うことはなかった。あたかもお互いが了解済みであるかのように、歩みを進めていく。二人の向かう先にあるものは、ラブホテル街だった。

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 値段の割に清潔感の感じられる部屋に入ると、樹里はコートを脱ぎ、入口近くのハンガーにかけた。露樹もそれに倣った。

 黄色い間接照明がそれらしい雰囲気を醸し出している室内の中央にはテーブルがあり、ソファが隣接していた。そして部屋の奥側には大きなサイズのベッドが横たわっている。

 「やっぱりラブホテルは広くていいね。お得感があるよね」

 樹里はそう言いながら奥へと歩いていき、バッグを置いてソファに腰掛けた。露樹はソファの前にあるテーブルのルームサービス一覧の冊子をパラパラとめくった。

 「ここ、ドリンクが1杯無料みたいだけど、樹里は何か飲む?」

 「あ、そうなんだ。露樹は何を飲む?」

 「俺はホットレモンティーにしようかな」

 「じゃあ、私もそれで。悪いけど、コールしてくれる?」

 わかった、と露樹は言い、ベッドの枕元にある受話器からフロントへコールした。数コールのうちにやる気のない声で「へい」と返事があり、オーダーを済ませる。受話器を置くと、露樹はどうしてよいものかわからず、所在なげに突っ立っているしかなかった。

 「何してるの? まあ、座りなよ」

 樹里がソファの空いているところをポンポンとたたく。

 「あ、ああ、うん」

 露樹はぎこちなく歩き、樹里の横に座った。なんとなく樹里の方を向くのがはばかられ、前を向いたまま話を続ける。

 「今日はどうしたの? 急に呼び出したりして」

 「ちょっと話がしたくてさ。世間話でもしようよ」

 思わず顔がほころんでしまいそうになるのを、露樹はぐっとこらえた。

 「ああ、そうなんだ。あー、仕事はどんな感じ? まだ忙しいの?」

 「まあね。メディア系の会社なんて、悪い意味で業務量に波があってないようなもんだし。けっこうてんてこまいの毎日ですよ。露樹は博士課程に進むんだっけ?」

 「うん、でも試験は来年の8月とかだから、あんまり実感ないよ。俺が危機感ないだけなのかもしれないけど」

 「8月かあ。去年の8月といえばあれだ」

 「北海道に行った頃でしょ」

 樹里はおもむろに立ち上がり、舞台役者のように喋りだした。

 「あれは面白かったね。電車に乗るとき、2駅の料金があまりに高くてさ。1,000円近くしたんだっけ? ローカル線にしても程があるだろって怒ってたじゃん」

 「ああ、あったね」

 暖房の効いた室温に慣れてきて、体温が上がってきたためか、樹里は上着を1枚脱いで、ハンガーにかけた。と、同時に、ドアがノックされ、二人の頼んだレモンティーが運ばれてきた。

 樹里はお盆に乗ったレモンティーをデスクへ運んでくると、立ったまま、カップを手にした。

 「東京だったら何駅先まで行けるんだよって怒って、それくらいだったら歩いていこうと思ったらさ、歩いても歩いても延々次の駅まで辿り着かなくてさ」

 「そうだった、そうだった」

 「夜だったから街灯とかもどんどん無くなっていって、荒涼とした原っぱみたいになっちゃって。偶然タクシーが通りかかったから助かったけど、結局電車に乗るより高くついちゃったんだよね」

 「がんがんメーターが上がっていくから不安でしようがなかったよ」

 その時のことを思い出し、露樹は苦笑する。樹里は猫舌だからか、ちびちびとレモンティーを飲みながら、しゃべった。

 「北海道の路線図の縮尺をわかってなかったんだね。土地の広さを計算していなかったんだよ」

 「初めての土地って距離感がつかめないからな。でも、楽しかった。また行きたいな」

 そう言って、自分の願望がふと漏れ出てしまったことに、露樹はハッとした。思わず樹里の顔を見上げるが、樹里はなんとも思ってもいないような表情で、カップを傾けている。

 「今となってはフェリーで20時間もかけて北海道に行くなんて贅沢な時間の使い方、出来ないね。お給料突っ込んで、飛行機ですよ、飛行機」

 「俺はまだそんなにお金を自由に使える立場じゃないからあれだけど、確かに研究室に入ってからは時間が惜しくなったな。それも、時間の縮尺が変わったってことなのかな」

 「最近はフェリーもそんなに安くないみたいだけどね。飛行機と遜色ないらしいよ」

 「そうなの?」

 「聞いた話だけどね」

 樹里はいつの間にか飲み干したカップをお盆の上に戻し、ベッドの方へ歩いていった。露樹はその姿を、目で追う。

 「あのさ」

 ベッドに腰掛け、樹里が口を開く。

 「ちょっと聞きたいことが、あるんだけど」

 「何? 改まって」

 「まあ、こっちに来て座りなよ」

 そう言って、ベッドの空いている側をポンポンと叩く。露樹はごくりと唾を飲み下し、立ち上がって、樹里に言われるがままに従った。

 腰掛けると、弾力のあるベッドがわずかにきしんだ。樹里は露樹の顔を覗き込むようにして、「あの話は本当なの?」と、全体像の見えない質問を放った。

 「え? どの話?」

 「心当たり、あるんでしょう」

 「待って、そう言われてもなんのことだか見当もつかないよ」

 「じゃあ、率直に言うね。何人と心当たりがあるの?」

 「さっきから何の話を」

 露樹の右頬に、鋭い打音とともに、しびれるような衝撃が走った。驚きとともに身体がベッドの中央へ崩れ落ち、露樹は、ちかちかする頭をなんとか正常に戻そうとし、いま起こった出来事を客観的に把握しようと努めた。

 樹里に、平手打ちを食らった。

 右頬をぶたれたら、左頬を差し出しなさい、なんていうのはぶたれたことのない人間の言うことだ、と露樹は思った。実際は平手打ちをくらった衝撃と驚き、痛みで、左頬を差し出すどころか起き上がることすらもままならない。ぶたれて喜ぶのは、芸人か、マゾヒストの、どちらかだ。

 樹里は倒れ込んで少し涙目になっている露樹に馬乗りになるように膝を付き身体を傾け、まるで女が男に迫っているような体勢になり、詰問を続けた。

 「私の知らないところで、何人とこういうことしてたのかって、聞いてるのよ」

 「ちょ、ちょっと待ってくれよ。いまなんで俺はビンタされなきゃならなかったんだよ?」

 「聞いちゃったから。露樹が私以外の女の人と、そういうことしてたっていう話。だからよ」

 ぐるぐるとしていた思考がなんとかまとまり、露樹はこれまで身体を重ねてきた女性たちのことを思い出した。そして、そのことが樹里にばれてしまっているようだという事実を、ひとまず受け入れた。しかし、どうして? 露樹は考える。いや、まずはとにかく、なんとかこの場をうまく収められないものだろうか?

 「それは、その…というより、なんでいまそういう話になるわけ?」

 そう答えて、心の中で、がっくりと項垂れる。駄目だ、混乱してまったくうまい返しが思いつかなかった。場を収めるどころか、火に油を注ぐだけのような気がした。

 「私のことを愛しているなら」

 獰猛に、樹里の目が光る。

 「私のことを愛しているなら、正直にイエスかノーで答えて。その話自体は、本当なの?」

 露樹は観念した。「私のことを愛しているなら」なんて言われて、嘘がつけるはずがなかった。何故なら彼は心の底から、樹里のことを愛しているからだ。

 少し逡巡したものの、露樹は「本当だよ」と素直に答えた。

 「そうなんだ」

 樹里はその体勢のままで少し長くため息を付き、言葉を続けた。

 「何人くらいと関係を持ったの」

 「勘弁しろよ」

 「答えなさいよ」

 樹里の迫真の眼差しに、正直に告白せざるを得なかった。しかし、この答えを口に出すのは、やはりはばかられた。はばかられたが、もうこうなった以上、言うしかない。

 「答えたくても、覚えていないんだよ。樹里と出会って3年だぜ。その間に行きずりで関係を持った女の数なんて、覚えてないよ」

 「いきなりぶっちゃけないでよ!」

 樹里の眉が困ったように八の字を描いた。流石に、彼女もそんな返答がかえってくるとは想像していなかったのだろう。でも、覚えていないものは仕方がなかった。

 露樹はいいかげん体を起こしたかったが、軽く力を込めた程度では樹里はどかなかった。立場が立場なだけに、力ずくで引き剥がすのも気がとがめた。物理的に覆いかぶさっている樹里を動かすことは諦め、露樹は質問を返すことにした。

 「そっちが聞いてきたんだろ。ていうかさ、一つ言わせてもらっていい?」

 「何よ」

 「なんで俺は、いま。それについて怒られているわけ?」

 「別に怒ってないでしょ!」

 「明らかに怒ってるじゃん!いや、それについて黙っていた俺も悪いとは思う。それは、純粋に申し訳ない。でもね、そのうえで一つ言わせてもらうとね」

 樹里は憮然として「何よ」と繰り返した。

 「俺たち、もう2ヶ月も前に別れてんだよ? 覚えてる?」

 そのとおりだった。

 すなわち、既に別れた二人が何故かラブホテルの一室で、片方がもう片方を押し倒すような格好になっており、しかもその会話の内実が、すでに赤の他人に成り果てた相手の浮気についての糾弾であるという、なんとも異様な光景が繰り広げられているというわけであった。

(続)

「愛おしい」(下)⇓




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