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【読書】 痴呆を生きる 小澤勲

痴呆を生きる者も、その家族も、逃れることのできない現在と、時間の彼方に霞んで見える過去とを、いつも往復している。今を過去が照らし、過去を今が彩る。

 65歳以上の高齢者のうち、5人に1人が認知症に罹患する。厚生労働省の統計です。21歳のぼくは、介護実習に望む前にこの本に出会いました。恥ずかしい話、ぼくは「認知症」や「痴呆症」についてまったくの無知だったのです。自分にとっては関係のない出来事としてとらえていたことが、実際に実習に行くと恐ろしいまでの現実として確かに存在していたのです。

 本書は、認知症患者のケアに長年従事してきた、お医者さんの書いた本です。介護や福祉を専攻しない学生が読めるほど、広く一般の読者に向かれて書かていました。なにより、本書の一番のメッセージ「認知症になったら人生が終わるのではない」は、現在、病気と戦っている方や共に戦うご家族の方だけでなく、「生きる」ことに関して、誰もが読んで考えることのできる話だなと思いました。自身が患者さんと触れ合った経験も踏まえながら、思ったこと、感じたことについて書いてゆきたいと思います。

【概要】認知症・痴呆症の真実

痴呆は脳の病気である。 

1、大半の痴呆は医学的治療が難しい。

 認知症の7割以上を占める現病はアルツハイマー病脳血管性痴呆である。

アルツハイマー病

不明の原因によって神経細胞が脱落し、痴呆に至る疾患で、もともと神経疾患であるということができる。

脳血管性痴呆

脳の血管が詰まったり(梗塞)、破れたり(出血)して、その結果、脳に損傷が生じ、痴呆に至る疾患で、本来は血管の病であると考えてよい。しかし、いったん損傷された脳細胞は再生しないので、脳血管性痴呆の人を完全に治癒させる技をまだ医学は手にしていない。

2、中核症状と周辺症状

痴呆という病を得た人はだれにでも現れる中核症状と、人によって現れ方がまったく異なる周辺症状とに分ける。

3、もしあなたが認知症になったら

周辺症状の成り立ちは、中核症状によって抱えることになった不自由、その不自由を生きる一人ひとりの生き方、そして、彼らが置かれた状況、これら三者が絡み合って生じる複雑な過程 

 つまり、状況を変えることで、認知症の人が抱える苦しみや、悲しみが変わってくるということです。間違いを起こすたびに𠮟られ怒鳴られ、殴られたりする周囲と、間違えても変わらず優しく接してくれる周囲では、病息の症状に天と地ほどの差が生まれるということです。 

 この文を見た時、おやっと疑問を感じました。「当たり前」のことじゃないかと思ったのです。優しく接するなんて、どんな人間関係にも当てはめられる共通項じゃないの?それでも言っていることとやっていることが違う人間なんだと思い直しました。介護の疲れの中で、心身を崩してゆく人々がいること。人を道具としか考えていない会社システム。そして、頼れるの家族だけだという現状があることに…。


2、記憶の累積

痴呆を病む人たちは、一つ一つのエピソードは記憶に残っていないらしいのに、、そのエピソードにまつわる感情は累積されていくように思える。𠮟責され続けると、そのこと自体は忘れているようでも、自分がどのような立場にあるのか、どのように周囲に扱われているのか、という漠然とした感買は確実に彼らのものになる。

 夏目漱石『硝子戸の中』で「名も顔も思い出せぬその人にの、覚えているの親切だけである」を思い浮かべました。どうやら記憶は曖昧な感情部分しかその人に残さないらしいのです。詳細な部分がまるでろ過されていくように何層にも渡って削られてゆき、感情だけが残る。

 認知症に人に限った話ではないないのだと思います。この記憶という不思議な装置だけが、死ぬ前まで残るのだとしたら。それを思いやりや笑顔に溢れたものにしたいと感じたのです。親切やら、思いやりなどで記憶を満たしたい。自分にも相手にも。そう思いました。

彼らい関わる私たちは、同じ時間を共有することなどできそうにない。それでも、彼らには彼らの歴史があり、時間の重みがあることだけはわすれてはいけない。

 歴史と時間の重み。アンモロウの「目の前の個という奇跡」にもありました。生命は奇跡であること。なんだか、そういった概念が極めて薄いのだと感じます。親の介護をするのが、個の定めとは言いすぎですが、夫婦の場合、片方の親の介護が必要になった場合。快く引き受けられない。そういった話を実習先のホームで聞きました。お子さんがいたり、仕事や家事でいっぱいいっぱいな現状もあります。

 それでも、こどもの頃、両親に育ててもらったのではないの?と疑問に思います。子育ては「義務」でもなければ「使命」でもない。「愛情」によって行われてきたはずなんです。なのに、「介護」を厄介なものだと感じる、心のありようにたまらなくなるのです。

 赤ちゃんの頃。うんちやおしっこの世話をしてくれたはずの人の死もの世話が嫌だ?そんな話に溢れているのがなんともいえない気持ちになります。

老いを生きる

老いるということは喪失体験を重ねることである。

 失い続けることが老いるということ。ならば、生きることも失い続けることだと感じます。得るものも、もちろんあるかもしれない。ただ先を生きる人は後を生きる人にとってより得ていて、より失っている存在だと、どうしてもぼくらは認識できないのです。

 なぜなら、「老い」は知り様がないから。自分が老いるまでは、それが一体何なのか分からないから。ようするに未知なんだと感じます。だから、想像にも限界がある。ひたすら目の前の人に接することでしか、知り様がないのだと感じます。

現代の介護意識

 現代の介護意識は自分の老後は子どもに依存できないが、自分の、あるいは配偶者の老親の介護にあたるのは致し方ないとするのが平均的である。つまり、わが国では介護に対する考え方が世代間でねじれを起こしている。

「頼れない」それはなんて悲しいことなんだろと感じるのです。「頼れる」のが家族の醍醐味であるはずなのに。こうした「ねじれ」が起きている。もっと「人」を大切にできるような世界を作りたい。「人」が損得抜きで大切にされるにはどうしたらいいのか。そんな「問」を投げかけられているような気がします。

モノ(物盗られ妄想)

「……がなくなって淋しい」という気分が「……がなくなった事実に気づく」ことにもなるのである。そして、寄る辺のなさと寂寥の「こころ」が「もの」盗られ妄想として表現されるのである。-老人にとって、物には人生が詰まっているのである。

 「モノへの執着」それは、ときに、卑しさを感じさせます。「お金」や「人間関係」への執着もまた同じです。

 それでも。「モノ」は、他人にはわからない、その人だけの「価値」に溢れている。大切なのは「モノ」を焦点に考えるのではなく、「モノ」を大切にする、その人に焦点を当てることだと思うのです。


徘徊の底に眠る感情

彼らは疲れたら帰ってきてくれるのではない。この人となら、今・ここで一緒に生きてもいい、そう思ってくれてはじめて彼らは今・ここに戻ってきてくれるのである。今・ここを生きと過ごせる場にすること、身の丈に合った生き方を発見する手助けをすること、これ以外にこのような行動に対処するすべはない。

 「なんで徘徊するんだろう」という謎がとけた一文です。実習先でも、よく徘徊しているお爺さんがいました。そして、家にいる奥さんにしきりに会いたがるのです。施設が悪いのではなく、お爺さんの心の寄る辺が、奥さんであること。奥さんがそばにいない結果「徘徊」という行動につながるのだと、理解しました。「安心できる場所」それは、老人だけでなく、すべての人にとって必要不可欠なのかもしれません。


時を重ねる

そもそも人は理解が届かなければ人と関係を結び、人を慈しむことができないわけではない。食べる、排泄する、衣服を替える、入浴する、そういった日常生活への援助を日々続ける。そこから「ただ、ともにあるという感覚が生まれる。ともに過ごしてきた時の重なりが理解をこえこえる。

 「ただ、ともにある」子どもの頃は簡単だったことが、年を重ねると難しくなってしまう。また、関係の最初のうちにはできても、どこかもの足りなさを感じてしまう。でも、本当に大切なことはこの「ただ、ともにいる」ことなのかもしれません。


まとめ

 もう何度読んだかわからない本書ですが、読むたびに思い知らされることに溢れています。小説ではない、論説文なのになんだか優しい気持ちになれるのです。

 著者は最後、命とは無限の海に浮かぶ灯だと表現しています。生まれた灯はやがて、蛍のように、命を紡いで海へと帰る。どの海からあらたな命が生まれてくる…「生命の海」。こんな感覚でいれば、自分という命の奇跡も他人という命の奇跡にも優しくあれそうな気がするのです。

 介護をしない人でも、医療関係者でなくても、患者さんやご家族の方でなくとも、本書は「生死」に関しての気づきに富んでいます。この本に巡り合えたことに感謝するとともに、多くの人の手に取ってもらえることをいのり、筆をおきます。



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