説法で良く聞く「ジャッジしない」はズルい言葉だ
私の妻は長年うつ病です。我々も例外なく
巷によくあるヨガ・瞑想会・仏教説法会
に参加し、うつ病改善を図ってきました。しかしどの会も
失望
しかありませんでした。
色々な方(ヨガ・仏教)の説法を拝聴しましたが、結局
という一言に集約されます。
といった旨になります。これを聞くたびに、うつ病の妻はいつも
と不満を漏らしていました。
生きていると誰でも嫌な経験をします。
「話しかけたが、わざと無視された」
「ホクロを笑いものにされた」
「血液型がB型だからということだけで、お前はろくでなしだ、となじられた」
「お客様から『お前の目が気に食わない!』と理不尽な理由で怒鳴られた」
「すれ違いの見知らぬ人に、訳も分からず睨まれた・くすくす笑われた・全速力で逃げられた」
といった嫌な体験に対して、我々は
「私は何もしていないのに悪者にされた」
という「強い想い」が刻み込まれます。この強い想いを抱いてしまっている人に対して、事実確認もろくにせずに
「思い込みや決めつけで、被害者意識を持たないで!」
と平然と説法ができるものなのでしょうか?
こういった状況の場合、私はいつも次のように対応します。先ずは、本当に
のかどうか、事実確認を進めます(思いっきりジャッジします)。そして、次が最も重要なのですが
「『私は何もしていないのに悪者にされた』と騒ぎ立てること自体が人様に迷惑だ」
と遠目で見ている傍観者は誰か?
を洞察します。そうすると、前述の
という説法が、実はイジメの傍観者になってしまっていることがお分かり頂けると思います。
何かしらの示唆を与えられれば幸いです。