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ベルクソンの無と死の第三の道



0. はじめに

 本論では、アンリ・ベルクソンによる『創造的進化』第四章思考の映画的メカニズムと機械論の錯覚の「存在と無」の節を手掛かりとして、ベルクソンが思案した無の像を探り、そこから論理的に導かれる死の可能性についての思索を試みる。
 なお、本論の引用はすべて、合田正人・松井久訳『創造的進化』ちくま学芸文庫のものである。引用箇所は「」でくくり()内にそのページ数を記した。

1. 第二の錯覚

「存在と無」の前提となる第二の錯覚

 「存在と無」は、第二の錯覚についての論証の一部として費やされている。そのため、まずこの第二の錯覚の概要を確認したい。

第二の錯覚とは

 第二の錯覚は、実践(行動)に関する人間の錯覚である。ベルクソンは、「自分の欠けていると感じる対象を獲得すること、あるいはまだ存在していない何かを創造すること」(346)をあらゆる行動の目的とし、行動は「空虚から充満へ、不在から現前へ、非実在的なものから実在的なものへ進む」(346,347)と述べる。しかし、ここに表される「非実在性」とは、「探していた実在の不在」(347)に過ぎず、「われわれの注意が向けられた方向と相対的」(347)であって、真に実在しないものではない。人間は、しかしこれを真に実在しないものだと見まがい、これによって、第二の錯覚が生じるのである。

第二の錯覚と無

 では、なぜわれわれは、実在をときに非実在と見誤り、第二の錯覚を起こすのであろうか。それはまさに、実践・行動するためである。ベルクソンは、「消失の感情」(378)、すなわち、ある事物が自分に欠けていると感じることが、それらを探し求める実践・行動の「生の必然」(378)的な源となり、「「無」から「何か」へ進む」(377)契機と考える。このとき、われわれ人間は、実践や行動へ向かうには、無の観念を持っていなければならない。無が「すべてのものに先立っている」(378)という錯覚を消し去ろうとし、実在によって空虚を埋めようとするとき、われわれは行動を起こすのである。

2. ベルクソンの無

相対的なものとしての無

 「「無」の表象の方が「何か」の表象より、そこに含まれているものが少ない(・・・)」(350)と表現するように、ベルクソンは、「無」が全体としてまったく何もない状態であること、すなわち、絶対的な「無」があることを否定する。よって、「無」は「永遠に何かに先立っていなければならない」(350)ものでも、「まずあって、存在がそこに付け加わ」(350)るものでもない。ベルクソンに則せば、時間的・空間的にどこまでも永遠に広がっている、絶対的な「無」というものは、形而上学的次元においてもあり得ず、それは、「多い・少ない」で表されるような部分的にある、あくまで相対的なものなのである。

無について人が語るとき

 ベルクソンは、無が絶対的なものではないことを論証するにあたって、外的世界を一つずつ消去していく場合を考える。こうして、外的世界の実在を一つずつ消し、最終的にそこには何も残らなくなるように思われるが、それでもなお、身体への意識や感覚、記憶、無に対する印象などは残り続ける。さらに進んで、これら自己に属する内的なものを一つずつ消滅されていくことを考える。しかし、この消滅もまた、想像上知覚される対象として存在していることに気付く。これの消滅のイメージを消滅させようとしても、再度消滅のイメージが意識に現れるという往復がなされるだけで、永遠に絶対的な無に到達することはない。このように、人が無について語るときにはつねに、われわれは無のイメージや概念を持っているのであり、イメージや概念が有る以上、絶対的な無には至れないのである。

絶対的な無は、自己破壊的な観念、疑似概念、単なる言葉

 ベルクソンは、さらに削除についての分析を行う。「実際、人間が削除する対象は、内的なものか外的なものである。つまり、事物か意識状態である。(中略)私は思考によってある外的対象を消去する。それがあった場所には、「もう何もない」。」(356)仮に、その場所には、内的なものも含めて「何もない」ものとする。しかし、それでも、そこは「ある場所、つまり正確な輪郭によって限定される空虚、つまり、ある種の事物」(356)なのである。絶対的な無は、どこまでも無限定に無でなければならない。ゆえに、少なからず何か外的なものであれ、内的なものであれ、それがただの一つでも存在してしまえば、絶対的な無など存在しないことが反証されるのである。よって、「絶対的な無の観念は、自己破壊的な観念、疑似観念、単なる言葉だということが帰結する。」(359)

無を論駁する論理

 論理的なあり方、たとえば、「円の定義や、A=Aの公理のあり方」などは、「永遠のうちに自己措定する」(351)。これによって、「無が永遠に何かに先立っている」という考えは論駁される。

3. 死の第三の道としての停止

人は死んだらどうなるのか?

 「人は死んだらどうなるのか?」という、永遠に解き明かされぬであろう、また、解き明かす動機もさしてなかろう、ある種不朽の論題については、一般的に2つの方向から回答が与えられてきた。すなわち、天国・地獄へ行くといった宗教的方面と、死んだらわれわれは無に帰るのだという現実的方面である。ここで、前者については非論理的な想像が多く含まれるために論じる猶予はないが、後者については、ベルクソンとの関連において、その論理的に帰結される可能性を探ってみたい。

死んでも無にはなりえない

 ここまでで繰り返し述べてきたように、ベルクソンは、絶対的な無は決して存在しえないのだと主張した。それは、死をもってなおのことである。というのも、まず、絶対的無が存在しないから。さらには、死によって、外的・内的なもの含め、その自己に関するすべてが消滅するとて、その無はその消滅の瞬間に生じるものであり、はじまりを持ち、永遠のものではないからである。または、死はかつて、大勢の人によって経験されたものであるために、仮に無に帰したとしても、有限の場所を持つ無に過ぎないから、という観点からも、ベルクソンに則れば言えるかもしれない。このように、人は死んでもなお、絶対的な無にはなりえない。

停止としての死の道

 言うまでもなく、死は生きている人間には経験しえない、また完全に個人的なものであるがゆえに、それが具体的にどのようなものかはわからない。ただ、少なからず自明だと思われることは、人は死んだその瞬間に、その客体を対象として知覚する作用を失うということだ。つまり、その瞬間に、あらゆる外的な事物は、彼の前から消滅する。彼は、外的に部分的な無の前に立たされることになる。しかし、依然として、それは内的に意識される相対的な無である。とはいえ、死してなお彼に物理法則(ベルクソン的には、永遠である論理的なもの)が適応されるのであれば、彼は時間という形式を失う。時間もまた、絶対的に流れ続けるものではなく、事物の背後にわれわれが観測する相対的ものにすぎない。

 さて、ここで、彼は時間という形式を失って、内的なもの、意識や思考などを働かせることができるであろうか。ここも議論の余地があるかもしれないが、おおむね予想される解答は、できない、であろうかと思われる。

 では、死は、絶対的な無になるのでもなければ、内的な意識や思考などの作用が残る(恣意に換言すれば、魂として生き続ける)のでもないのであれば、どのようなものであろうか。ここで、瑣末な可能性として考えられるのが、死を停止とする考えである。人は、死と同時に永遠に停止する。しかし、彼は何かしらの形で、内的なものとして存在を続けるのである。停止し続けるために、彼が何かを意識したり、思考したり、感性を働かせたり、まして、なんらかの行為を行うということはないが、死をこうした停止と考えるのである。

4. まとめ

 ベルクソンにとって、無の観念は、人を生の必然によって実践へと導くものであった。しかし、その無の観念とは、決して絶対的なものではありえず、あくまでも、疑似観念で、単なる言葉に過ぎないと考えた。また、このベルクソンの無の思案を出発点として、死が停止である可能性を考えた。
 当然、この死が停止であるという第三の道は、論理的に帰結させようと試みたとはいえ、たぶんに飛躍を孕んでいるものであろう。

(以上レポート)

〈感想〉

noteにレポートを投稿するシリーズの第3回です。
https://note.com/outi_ni_kaerou/n/nbb717b1790cc

ベルクソンの「無」の理論は非常に整然としていて、非常に興味深いものだった。その要約を行った1章2章は、まあ、及第点といったところか。
それにしても、3章がひどい。これを提出したあと、しばらくして読み返してみて羞恥心が湧いた。こんな理論もめちゃくちゃで自分勝手な考えを、僕のレポートとして読まれるところを想像すると、それだけで顔が熱くなる。

内容がひどいのは、書いているときの、なんとか字数を稼ごうという邪心に起因する。とりあえず、なんか書けばいい、とそれだけを考えて頭の中に浮かび上がったことをそのまま書き起こした。
死という大それたテーマを1000字で書こうなんて馬鹿げている。それどころか、哲学論文として不相応がすぎる。
書きながらそれを自分でも一部自覚していたのだろう。「瑣末」と書いて、これを結論に結んでいる。

まあ、大学のレポートなんて所詮こんなもんよね。と自分を慰めつつも、これからへの自分への戒めとしての投稿。


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