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家族は崩壊した。それでも私は家族写真を撮りたい

「家族写真を撮りたい」
そう、口にしてから7年の時がたった。

なぜ私が家族写真を撮りたいのか、家族が歩んできた軌跡と共に このnoteに 綴る。


物心の始まりは、空飛ぶミドリの掃除機


私の最も幼い頃の記憶は、「空飛ぶミドリの掃除機」

父と母が喧嘩してた。
内容はあんまり覚えてないけど、幼い私にも怒りの感情は伝わってきた。

父の感情がエスカレートして、当時使っていた緑色の掃除機が投げられた。プラスチック片が飛び散って、掃除機は壊れた。怖かった。

泣きながら叫んだのを覚えている。「な" が よ" ぐ じ で 〜〜〜」
姉は部屋にこもっていた。当時は 姉に対して、どうして 何もしないの?と思っていたけれど、姉も姉で直視するのが怖かったんだろうなと今では思う。

たぶん 小さい頃には何度も言ったであろう「な" が よ" ぐ じ で 〜〜〜」。
けれど、私の記憶はこれだけ。記憶がしっかりする頃には、私は両親に対し「仲良くして」というのを やめた。


嫌われないように必死だった


小学生になって私は、母の相談役になった。
いつの間にか、母は 父のことを”アイツ”と 呼ぶようになっていて、母の口から、父の悪口をたくさん聞いた。

「だらしない……」「無責任……」「父親失格……」「アリエナイ……」

まだ 判断力をもたない私は その言葉を鵜呑みにした。

父が悪いんだ。父は悪者なんだ。
無責任な人なんだ。だらしない人なんだ。

同時にこんなことも考えていた。

無責任だと嫌われるんだ。責任感を持たなくちゃ。
だらしないと嫌われるんだ。部屋片付けなさいとか、ハミガキしなさいとか、顔洗いなさいとか、いっぱい言われるから もう嫌われてるかもしれない

父を嫌うということは半分 血が入っている私のことも嫌いなのかも。

私たちを置いて家出しようとするのは、やっぱり"アイツ"の子だからかな

悪口というのは、たとえその矛先が自分に向いていなくても、段々と自分が言われているかのように脳が錯覚していく。母が 父のことを悪くいうたびに、私も否定されている気持ちになった。

悪口を言う母はいつもと違って怖かった。本当は、そんな母みたくなかったし、悪口をいうのではなく、もっと私の話を聞いてほしかった。だけど 嫌われないために、私は 必死にうなづいた。

「そんなことないよ」なんて言おうものなら、母は もう私と話してくれなくなる。「母も悪いよ」なんて言おうものなら、私も母に嫌われてしまう。



本当は、父と母には仲良くして欲しかった。
けれど、私は両親に「仲良くして」とは言えなかった。

聞き分けの良い子でいなきゃ。都合の良い子でいなきゃ。
そうしないと、私は必要としてもらえない。

あの環境は、そう思い込むには十分だった。
仲良くしてほしい気持ちは、心の中に閉じ込めた。

寂しかった。けれど、寂しいって言ったら子どもだと思われて迷惑かけそうで言えなかった。

寂しさを埋めるため、よく父の布団や、母の布団で眠った。ほんとは布団で眠るんじゃなくて、抱きしめてほしかった。

父を孤立させてしまった罪悪感


クラスでいじめられた子に優しくすると自分もいじめられるように、父と仲良くしようものなら 私も母に嫌われる。誰に教えられることなく、私は自分の取るべきスタンスを理解していた。

私は 父に冷たく接するようになった。
私は今でもこの時のことを後悔している。

母も姉も私も家にいるのに、誰も父と話さない。家族全員が 父を無視した。仕事終わり、家に帰っても居心地が悪かっただろう。父は 誰とも話さず 眠りについた。どんな気持ちで布団に入っていたのだろうか。

そんな ピリついた空気がしばらく続いた。どれくらいの期間だったかはもう覚えていないけれど、父は寂しそうだった。罪悪感がつのった。



私は 父を、無視し続けることはできなかった。

少し大きくなった私は 自分で判断できるようになっていた。たしかに父は100%善人ではないけれど、100%悪人でもない。

休みの日には、私のいきたいところに必ず連れて行ってくれた。学校終わりに、図書館へ行ったり、雑貨屋へ行ったり、ペットショップへ行ったり。「疲れてる」だとか「めんどくさい」だとか、そんな反応をされたことは一度もなかった。

私にとっては、いい父親だった。



私は、母が見ていないところで 父と会話を再開した。
姉は 断絶したままだった。


離婚の瞬間は、この目で見届けた


母は、幼い時から ことあるごとに「離婚」という単語を口にしていた。

小2の時の、友人との交換ノートの悩み事コーナーに「うちの親、リコンするかも」と書いたのを覚えているから、少なくとも 8歳の時には 離婚という単語を認知していたということになる。

それからの7年間、母の書斎には 年々 離婚に関する本が増えていった。
どんな反応が返ってくるのか、知るのが怖かったから、わざわざ話題に出したりはしなかったけれど、母の書斎に入っては、その冊数とタイトルを確認していた。1冊増えるごとに 嫌な予感は募って行った。けれど、それでも なぜか 本当には離婚しないと思っていた。

私が中学生のある日、母は 透明なケースから大切そうに紙を取り出して「離婚届もらってきちゃった♫」と、嬉しそうに言った。内心は、全然嬉しくないよ、やめてくれよ、と思っていたけれど、その時も 私は「そうなんだ!」と明るく取り繕ったのを覚えている。

思い返せば、この類の話を聞く役割はいつも私だった。姉は、家族の件には一切触れないし、母も なぜか姉に対しては 父の悪口をさほど言わなかった。私がいつも話を聞くから、母も話しやすかったんだと思う。

私が聞かなければ、母は話す相手がいなくなる。そして、私も母と話せなくなってしまう。だから私は自分の気持ちを押し殺し、自分の役割を全うすることに努めた。

あの時もまだ 本当に離婚するとは思っていなかった。
神社のお守りのように、離婚届が手元にあれば母も 落ち着くんだろう、ただの安心材料だろう、と思い込んでいた。というより、思いたかった。


しかし、2010年9月16日、両親はあっけなく離婚した。
離婚の決定は、喧嘩の最中で、売り言葉に 買い言葉だった。

母はたぶん 父の頭に血がのぼるタイミングを 今か今かと 待っていたんだと思う。父は怒ると なかなか制御がきかない。


怒りに任せて、父がサインをしてしまった。



驚いた。「父はサインをしない」心のどこかで そう信じていた。

でもまだ、書いただけ。
提出するまでなら なかったことにできる。


どうか、父が 考え直してくれますように。
どうか、2人が冷静に話すタイミングが訪れますように。


そう願っていた。

願っていたけれど 口には出せなかった。
もう どうしようもないことは、私が一番 わかっていた。

今さら言えない。何百回と押し殺してきた気持ちを、今になって表に出すなんて できない。わがままをいうにも、聞き分けの悪い子になるにも、遅すぎた。

大人になった今ならわかる。子どもがわがままを言えるというのは、素晴らしいことだと。親が不仲だとか、兄弟が大変だとか、そういうことがあると子どもは 自分の気持ちを押し殺してしまう。心配をかけまい、と振る舞ってしまう。その時は親は助かる。けれど、あとでどっと反動がくる。

どうか我が子には、わがままな子に育ってほしいと思う。というより、我が子が わがままを出しても良いと思える安心を作り続けられる親でいたい。


最後の1秒まで 諦められなくて、道中で気がかわることに一縷の望みをかけるため、深夜 市役所に向かう母に同行した。

しかし、願いは届かず、離婚届は 私の目の前で あっけなく受理されてしまった。可能性が途絶える瞬間を 直接 見届けてしまった。自分で見たのだから疑いの余地はない。「もしかしたら、まだ」と 期待を持つことは もうできなくなった。

3週間後に 引っ越しをすることになった。
今まで当たり前に帰る場所だと思っていた家が、帰る場所ではなくなった。

階段だとか、2階の廊下だとか、なんでもない場所を見て、そこで過ごした時のことを思い出して泣いた。15年という歳月は 家の細部にまで思い出を染みつけるのに十分だった。

大切なものは失われると知った。
それからの私は その場所に 思い出が染みつきすぎる前に、引っ越しをするようになった。長く住めば住むだけ、手離すのが悲しくなる。



離婚して よかったこともある


離婚は悲しかった。けれど、よかったこともある。

何より、母の笑顔が増えた。
ある日、テレビを見て大笑いする母をみて、私は心底 驚いた。

母って、こんな大笑いするんだ。
てか、そもそも母って、テレビ見るんだ。

一緒に住んでいた頃は 父がリビングにいたから、母はいつも自分の書斎にこもって本を読んでいた。家の中の空気は 基本いつも ピリピリしてたから 母が屈託なく 笑うことなんて ほとんど見たことなかった。


そのほか、奨学金をもらえたとか、医療費無料のおかげで斜視の手術ができた、とか色々あるけど、母が楽しそうに毎日を送るようになったのは 私にとって革命だった。

「離婚って、いいもんだな」そう思うようになった。


「これでよかった」と言い聞かせていたけれど


けれど、やっぱり 揺り戻されることは度々ある。
特に 幸せな家庭を見た時の 感情の揺さぶられ方は ものすごい。


離婚して2年。
もう、気持ちの折り合いがついているはずだった。
「これが正解だったんだ」そう言えるようになっていた。


高校3年生の夏、当時付き合っていた恋人家族のBBQに呼んでもらった。

何を食べるか、皿は足りてるか、これうまいな、といった家族のやりとり。彼のお母さんが軽い怪我をした時の、彼のお父さんの機敏な動き、優しい声かけ。夫婦のいたわり、というのを目の当たりにした。

そもそもご飯を一緒に食べるだけですごいし、笑い合ってるのは私にとって奇跡。

帰り道、電車の中で壮大に泣いた。

こんな家族がほしかった。

ほんとは 喧嘩しないで欲しかった。仲良くありたかった。家族4人で笑いあいたかった。想い出をつくりたかった。

ご飯を食べながらお喋りしたかった。笑ってもっと私の話を聞いて欲しかった。楽しいね、って笑いたかった。
父を悪者にしないでほしかった。誰も悪者にしないで欲しかった。悲しかった。

どうして うちは 違うんだろう。
どこで間違えてしまったんだろう。

諦めずに「仲良くして」と 言い続けるべきだったのかな。
「それは違うと思う」って 勇気出して言うべきだったのかな。
自分の気持ちを押し殺さずに、立ち向かい続けるべきだったのかな。

一体、どうしたらよかったんだろう。
いつ、どんな行動をとったら、手遅れにならずに済んだんだろう。

そんなことを想っても、どうにかできるはずもなく。
両親にその想いを伝えることはしなかった。

塗り固められた嘘は、なかなか覆せない。素直な気持ちを表現するなんてできない。困らせる、迷惑かける、嫌われる。


父と関わることを嫌う母


離婚してからも、母の父に対する嫌悪が消えることはなかった。

姉は 母の姓にあわせて変えた。けれど 私は父の姓のままにした。
姉は 父と会うことも連絡を取ることもしなくなった。けれど、私は、父と会ったし、連絡もとった。だって、これまでもそうだったし。離婚しようが何しようが、父が私の親であることには変わりはない。

そんな私を、母は面白くなかったようだ。母は、私が父と関わるたびに八つ当たりをした。なびくのが許せなかったらしい。


父の存在を感じるたびに不機嫌になる母をみて、私は次第に 父との接触を隠すようになった。


父の話を会話に出さないように 努めた。
家に送ってもらっても、友達が送ってくれたことにした。
帰省のタイミングも1日ずらして報告して、前後に 父とあった。
母と会うときは メールやLINEの履歴を非表示にした。

母が父の存在を感じることがないように、できることは徹底してやった。後から辻褄が合わなくならないように 最新の注意を払い続けた。



でも、途中で疲れた。
嘘をつくことも、話題に配慮することも、鉢合わせないように調整することも、エネルギーがいる。

もうやめたいと思っていた。


同時に、母も、父に対する嫌悪や憎悪の感情を手離せたらいいのにな、と思っていた。

誰かを恨むこと、憎むこと、というのは、とてもエネルギーがいる。
マイナスの方向に気持ちが持っていかれて、ちょっとその人と接触があろうものなら丸1日ダメージを食らってしまう。

負の感情に支配される母をこれ以上見たくなかった。
母には楽しく過ごしてほしいし、笑っていてほしい。


仲良くなってくれとは言わない。
どうか、他人になってほしい。

そう思うようになった。


成人式の前撮り


20歳。成人式が近づいていた。
「前撮りしないの?」と母に聞かれた。

正直、写真に映るのは好きじゃなかったし、自分の着物姿を納めたところで…… しかもピンでしょ? あんまり興味ないなぁと思っていた。

その時、私は ひらめいた。
「前撮りはいいから、家族写真を撮りたい」


勇気だった。
実現可能そうな範囲で、私の記憶では初めての 家族に対する わがまま。

何も復縁してくれ、と頼んでいるわけじゃない。
娘の成人という一生に一度しかない晴れ舞台。「一生に一度しかないんだよ?」と前撮りしないのかを煽るなら、そんな貴重な日の娘の頼みなんだからと、どうか願いを聞いてくれ。それなら 仕方ないと、うなづいてくれ。



しかし、返ってきた言葉は「ムリ」の2文字だった。



やっぱ無理だったか。

その頃はもう すっかり 父の話はでなくなって、ひょっとしたら もう嫌悪が消えているんじゃないかなんて淡い期待をしたけれど、全く そんなことはなかった。

家族写真を撮るということは、同じ空間にいるということ。
同じ場所にいて、同じ空気を吸って、同じ方向をみていた、その事実が 証拠として残るということ。その写真を見るたびに思い出すということ。

憎しみや恨みという感情が残ったままでは 叶わない。

「許せない」という憎悪の気持ちが抜けなければ 家族写真を撮ることはできない。逆をいうと 母が父を許せた日が、家族写真を撮れる日だということ。

私は、憎悪の感情を手離して、父と母に「他人」になってほしい。

普段関わることはないし、特段、恨みだとか、憎しみだとか、そういった感情を持つことのない距離感。電車で居合わせる人や、レジの前に並んでいる人のような 必要があれば話すけれど、そうじゃなければ 別に交わることのない、そんな距離感。

そんな「他人」になる記念として、家族 終了 の写真が撮りたいと思った。


そのために 切り込むことにした。
家族の問題に真剣に向き合うことにした。

母は、どうしたら父を許せるのか?


母は父に対して 頑なに「許せない」と口にしていた。
20歳になった私は 半年以上の歳月をかけて、なぜ許せないのか、どうしたら許せるか?を 母と話しあった。

言い出したらキリがないけれど、一番大きいのは 養育に対する姿勢だった。母の目には、父が子供に対して無責任に映っていた。

例えば、中学時代に父がリストラされた時。なかなか仕事が見つからない時期があった。このままで 姉の高校をどうするのかと 母が父に喧嘩ごしに聞いた。すると 父は「高校に行かなければいい」とか、そんなことを言ったらしい。「冗談じゃない」と母はブチギレた。文字通りブチギレた。

どういう真意で言ったのかはわからない。「そういうつもりじゃない」が口癖の父だから、本気で言ったわけではないのかもしれない。だとしても母の怒りの琴線にはビンビンに触れた。


子供の養育に、一切協力しない、無責任なヤツ!と軽蔑し憎んでいる。
ずっと貯めていたお年玉やお小遣いが、部活や学校や新生活用品に消えてしまったのに、親が全く何もしないのはおかしい。

これが最も許せない部分らしい。
確かに、お年玉で卒業アルバムを買ったし、お年玉で修学旅行に行った。部活の道具も自分のお小遣いで購入していた。



でも、過ぎ去ったことはどうしようもない。
考えるべきは どうしたら、今ここから 許せるようになるのか、だ。

どれだけの時間、話したか覚えていない。
直接と電話とCメールでのやりとりは 長いこと続いた。


ようやく結論が出た。
悩み考えた末、絞り出された母の答えは、

姉の奨学金を、父が全額返済する

だった。これが叶えば、父を許すことができる、と。


姉は 大学進学にあたり、日本学生支援機構から 多額の奨学金を借りた。(ちなみに 私は 給付奨学金のおかげで一切 借金を負わずに済んだ。なんて優秀)

母は、姉に借金を負わせたことを ずっと気にしていた。本当は本人の負担なく大学に行かせてあげたかった。社会人になってから長い時間をかけて返さねばならない重圧を背負わせてしまったことに 心苦しさを感じていた。

「精神的負担、15年も返済し続けなければならないという時間的呪縛から、早く解放してあげたい」

それが母の願いだった。
だから絞り出された答えが「姉の奨学金の返済」だったのだ。自分のことではなく子供のことを条件に出すのが母らしい。



さて、母に 要望を具体化してもらったはいいが、一体、総額いくらになるんだろう。父にも生活がある。正直、ハードルが高すぎて 父が承諾するイメージが全く持てなかった。


さて、どうやって、父に話すか。
どうしたら 父はこの提案をのんでくれるだろうか。

正直、自信がなかった。

裁判所の資料をあさり、養育費の相場と 離婚してからの年数をかけあわせて試算した。幸い、奨学金の総額と近しい数字になった。これを根拠に 父に要求をしよう。


父に直接あいに行く。

ドキドキしながら「姉の奨学金の返済をしてほしい」と父に打診した。渋られるかな、断られるかな、頭が真っ白だった。どんな順番で何を話したか、もう何も 覚えていない。とにかく必死だった。





「わかったよ」

予想外の返答が返ってきた。父は二つ返事で承諾をした。
聞けば、元からそのつもりだったらしい。

離婚した当時は 家のローンが残っていたから 養育費が払えなかった。けれど今は 家のローンの終わりも見えてきて、だからローンが終わり次第、姉の口座に毎月お金を振り込むよ、と。


驚いた。
母が「無責任」と言い続けてきたから 私も勘違いしていた。父は、ちゃんと父親だった。

電話で、要望が通ったことを母に伝える。


「こんなに上手くいくとは思ってなかった。本当にありがとう。貴女がいてくれて、本当によかった。ずっと調整役させて来ちゃったね。」

と母が言う。子はカスガイとはよく言ったもので。



計算したら、返済が完了するのは 7年後。
私が27歳になる時らしい。

父を許す条件として母の口から出てきた、姉の奨学金返済。
それが完了したら、すっぱり父を許すこと、そして 家族4人で写真を撮ることを母と約束した。


放置することもできた。見てみぬふりをすることもできた。
自分に利がない中で、こんなに家族のことを想って、こんなに動いて、なんていい娘なんだと我ながら思う。もっと褒めてほしい。

母は1つ心配が減るし、姉は数百万の借金が消えるし、父は養育の責任を果たせる。「私にも同額くれ」とねだっても おかしくない中で、私の要望は 家族写真を撮りたい。かわいいものだ。


あとは 遂行されることを定期的に見守るだけ。
7年あれば、きっと、時が解決してくれる。


姉と父との間の 国交復旧


母と父がひと段落しそうだったので、今度は 姉と父の国交復旧に取り掛かることにした。かれこれ10年、姉と父は 話していない。

姉がどう思っているかわからないけれど、このまま話をしないまま時が経って、いつか将来の父親の葬式のとき「もっと話しておけばよかった」と姉に後悔して欲しくない。

そして、家族写真のためには、姉の協力も必要不可欠。
姉と父親の関係が途絶えたまま、当日気まずく再会、なんてのは避けたい。



一人暮らしをする私の部屋に 姉が遊びにきた時に、それとなく、家族の話題を振ってみた。
大人になるまでずっと避けてきた家族の話題。

姉は、幼少期の喧嘩の時は 部屋にこもっていた。私のように両親のあいだを取り持つ調整役をやることもなかった。いさかいに関わることなく、自分のペースを保ってきた。父と話すことをやめ、母とだけ話し、母に従い、ずっと母側についていた、そんな姉。

家族のことには関心がないんだと思ってた。
父とはもう関わりたくないのだと思っていた。


でも、そんなことはなかった、姉もずっと気にしていた。

姉と話した結果、父と会おうと言うことになった。
あとは、タイミング。ちょうどいいタイミングはないだろうか? ないなら、どう作れば自然だろうか?


そう考えていたとき、父方の祖父が死んだ。
不謹慎ながら「なんて素晴らしいタイミングに亡くなってくれたのだろう」と私は感謝の気持ちでいっぱいだった。

もし、あと1ヶ月はやく亡くなっていたら、姉は祖父の葬式に行かない選択をして、父と再会するタイミングを失っていたかもしれない。


飛行機で、祖父母の家に向かう。
父と姉の、10年ぶりの再会。どうなるだろうか、不安だった。

けれど、その不安はすぐに吹き飛んだ。


10年話さなくても、親子は親子だった。
幼い頃、私よりも姉の方が 父と仲が良かったことを思い出した。休日に よく、2人きりで登山に出かけていた。


よかった。
それから父と姉の関係性は すっかり昔に戻った。

春と秋にタイヤ交換を頼むようになった。たとえ、タイヤ交換作業員として いいように使われたとしても、半年に1回 必ず会えるのは、とてもいい。その ちょうど良い距離感は数年続いた。今は 引っ越して 自分のマンションにタイヤを置けるようになったらしい。

でも、もう大丈夫。関係が途絶えることはない。


そういえば、父に母の要望を飲んでもらうだけだと不平等だな、と思い、逆に父に、母に対してなにか要望あるか聞いたことがあった。

すると、こう返ってきた。

まりは ずっとこうして連絡とってくれてたし、ゆりとも去年からこうして話すようになったし十分だよ。

家族が前を向いてきた。
あと少し。



履行完了、 時は満ちた


そして、2022年。私が27歳になる夏。
ついに姉の奨学金の返済が完了した。(厳密にいうと、最後繰り上げの繰り上げで、実は 半年以上前に終わっていたらしい。言ってよ。笑)


家族写真を撮るときが来た。

「約束のときがきたね」母に目線をむける。

母は 渋い顔をした。「約束は覚えている。だが気乗りはしない」という表情だ。ここでNOとは言わせないぞ? 私は 迎え撃つ心準備をした。

しかし、反論が出ることはなく、すんなりOKが出た。さらに驚くことに その場で日程まで決まっていった。まさか、まさかだった。

今更 頓挫することはないだろうと思いつつも、それでも実現できそうなことに私は感無量だった。7年間待った甲斐があった。いよいよフィナーレも近い。

育休中でいつでもいい私に対して、父と母と姉は、シフト制。そしてカメラマンの親友(東京在住)は土日休み。予定を合わせるのは至難の技だった。

最終的に 全員の予定が落ち着く、半年後の2023年3月2,3日に撮影をすることになった。親友よ、有給をとって北海道まで来てくれてありがとう。


その夜、姉と母と3人で話す中で、もう1つ驚くべきことが起きた。
会話の中で母が、父のことを 一度だけ「父ちゃん」と言ったのだ。

不仲になって以来、母は父のことを「アイツ」だとか「むこう」とか「あっち」だとか、名前を呼んではいけないヴォルデモートのごとく、ずっと指示後で呼んでいた。

嫌悪のニュアンスが含まれない「父ちゃん」という呼称に、私は心底 驚いた。すぐに気づいたものの その場で言及したら母が 嫌がると思って、そのまま触れないようにした。後から 姉も それに気づいて驚いていたと聞いた。

この話をしたら きっと母は嫌な顔をするかもしれないけれど、時が経って 憎しみが減ったのかもしれない。素直に 嬉しかった。


ゴールは近いはずだった


時が経って 約束の日の1ヶ月前、2月上旬。
姉、母、父に 念の為 シフト調整の最終確認の連絡をした。

「大丈夫だよー」と返信が来て、あとはその日を待つだけだと思い込んでいた。けれど違った。姉が、急に ゴネ始めた。

「5月以降じゃだめ?」
「予定入りそう」なんの予定「友達と会う」

いやいや、半年前に3月でいいってなったじゃん。姉のシフトを確認して その日が確実に休みだからって、その日に決まったじゃん。

しかも、友達?
なんで、友達の予定を優先しなければならないの?
しかも 前々から入っていたのではなく 後から入った予定。



家族写真を撮ることは、姉にとって 友達と会うことよりも優先順位が低いことのか、とやるせない気持ちになった。

こんな時くらい、家族を優先してほしかった。

このままの日程でやりたいと伝えたら、「わたし抜きでやってくれ」と返ってきた。思わず 私も感情的になってしまった。

「7年待っているのは あなたであって、こっちは別に待ってない」


私は 悲しくなった。

今まで費やしてきた時間とエネルギー、これまで歩んできた軌跡、人を許す壁を乗り越えた母、奨学金返済の対する父の想い、家族に対する私の気持ち、私が大切にしたかったもの、今までの全てを踏みにじられた気持ちになった。


家族写真を撮ることは 私だけが やりたいことで、私だけが楽しみにしていて、私だけが空回りしているように感じた。

知ってた。家族写真にこだわっているのは私だけだって。




でも、家族が家族でいるために、私は十分 頑張った。
母の相談役も、家族の調整役も、全うした。

家族に対する わがままは 最初で最後だから。
たった一度、どうか協力してくれよ……



そう願っていたら、姉から1通のLINEが届いた。



「いいよ、3/2,3で」


いいんかい。
聞けば その友達とは 距離は離れているが、3ヶ月後にも また 会う予定があるらしい。

人騒がせなやつめ……。笑
今度こそ、ゴールまで あと少し。



あらためて、なぜ 家族写真を撮りたいのか


「母が、父への恨みを手離せて、他人になれたら」
そんな思いから始まった 私の家族写真に対する夢。

家族写真を撮れたなら、憎しみを手離せたということ。その象徴が、家族写真。

「家族写真を撮ること」にこだわりすぎて、いつの間にか手段と目的が入れ替わっていた。

あらためて、なぜ家族写真を撮りたいのか、を書き残しておこうと思う。

1つは、やり残したことの回収。
私には家族4人で笑った記憶がない。私が小さい時には 家族4人で笑ったことはあったと思う。ビデオやアルバムを漁ればきっと出てくる。でも、私の記憶には存在しない。

にあっても、記にない。

それじゃダメなんだ。私は 4人で笑った経験を 自分の記憶の中に ほしい。そして その時のことを忘れないように、その瞬間を写真に残したい。いつでもあの時の感情を思い出せるように。


あとは、リスタートの意味をこめて。

私は結婚し、私にとっての家族は 父と母と姉だけではなくなった。4人の時代は終わりを迎えた。

そして さらに子が生まれ、新しい時代に突入した。
成長していく我が子におじいちゃんとおばあちゃんの複雑な関係に気を遣わせたくない。我が子が、私と同じ気持ちを味わうなんて、一度もあってほしくない。

結婚してから30年、私が知らないこともたくさんあるだろう。いろんなことを全部、水に流せとは言わない。

けど、今までの延長は もう終わりにしたい。

どうか、他人になってほしい。
この家族写真の日を、そのきっかけにしたい。

撮影の場所について


写真は、生まれ育った あの家で撮る。
一番の思い出の場所だから。


とはいえ、懸念もあった。
あの家は、私たちが住んでいた頃の家とは 変わってしまった。

父は掃除が苦手だった。床は スリッパなしでは歩けないし、部屋には タバコの匂いが染み付いている。衛生面を考えると、8ヶ月になる我が子を ハイハイさせることには抵抗がある。


あの時のままで 残っていたならば どれほど良かったか。

でも、掃除が行き届いていなかろうが、何があろうが、あそこが私たちの家だったことには変わりない。13年ぶりに集まるなら、あの家しかないと思っている。

母と夫と 一緒に掃除をした。(正しくは 母と我が夫が、掃除をしてくれた)
最低限、リビングだけは 我が子がハイハイできるまでになった。


ここで、撮れそう。

本当に、いよいよ だ。


最初で最後の 家族の思い出

直前になって、家族写真に対する 家族の気持ちがバラバラであること、私の想いが全然伝わってないことを思い知って「このまま当日を迎えたらマズイ」そう思って、このnoteを書くに至った。



これまで たくさんの気持ちを押し殺してきた。

「仲良くして」は、言うのをやめた。
困らせないように、迷惑かけないように、母の言葉に ひたすら うなづいてきた。大人にならなきゃ強くならなきゃ、そう言い聞かせてきた。

食事中が無言にならないように、喋り続けてきた。
どうにか楽しくなるように、馬鹿なことを言ったりもした。

食事のお皿が大皿から小皿になっても、何も言わなかった。
母の本棚に並ぶ離婚の書籍が増えても、何も言わなかった。

「一緒に食べよう」も、「家族旅行に行きたい」も「みんなで楽しく過ごそう」も 全部全部、我慢した。


我慢して、我慢して、そして、目の前の役割を全うした。物心ついたときから、相談役も、調整役もずっとやり続けた。家族が家族であるために、私は十分頑張った。



だから、一度くらい お願いを聞いてほしい。

帰宅が遅くなったり、家出したり、「迷惑」をかけたことはあるけれど、「わがまま」を言った記憶は 私の中にはない。

家族に対する わがままは これが最初で最後。

たった一度だけだから。
どうか 3月3日、笑顔で 再会してはもらえないでしょうか。


お願いします。
最初で最後の 家族の思い出を、私にください。


2022.02.28
應武茉里依


当日を終えて 2023年4月13日追記


私が生まれてから ちょうど10,000日となる 2023年3月3日。

どんな雰囲気になるのか? 果たして 無事に家族4人、笑って写真が撮れるのか? とヒヤヒヤしていましたが、当日 姉が予想外な大活躍。

終わった後に「明るい雰囲気になるように協力してくれてありがとう」と伝えたら

協力したというよりは、普通に楽しかったからね

と返ってきました。ただの いいやつでした。なんだよ、もう。

私は1歳
26年後。こんなに大きくなりました。


父、母、姉 それぞれに手紙を準備していったら とんでもない分量になって、読むだけで1時間くらいかかりました。

読むのに必死になっていたので みんなの反応はちゃんと見れなかったけれど、でも涙を浮かべていたから、何かしら刺さるものはあったのでしょう。

家の中や、雪が積もった車庫の上、近所の思い出の公園、たくさんの場所で写真を撮りました。


そして最後に 寿司を注文して、友人にケーキを作ってもらって、みんなで食べました。こんな素敵なケーキを作れる友人は天才だと思います。

ありがとう、さくら


平穏に終わるかと思いきや、最後の最後に母が爆弾をぶっ込んできました。笑 

「まだ父のことを許すことはできない」そんな心中にもかかわらず、私のわがままに1日 付き合ってくれたことに 感謝の気持ちです。

いつか 母が過去から解放されて 健やかに生きていける日が来ることを願っています。



さて、これからは、私の家族の時代。

NASAの定義によると、「家族」はこの3種類だけ。

①配偶者
②子ども
③子どもの配偶者

父親も、母親も、兄も、妹も、祖父も、最優先される「直系家族」ではなく、拡大家族に分類されるそう。しかも、拡大家族には「親友」も含まれているらしく、NASAにとっては 両親は親友と同類だと言います。

つまり、血の繋がりではなく、「自分で選んだ相手」こそが、家族だという定義をしているのです。


自分で選んだ夫と、生まれてきてくれた我が子、新しい家族 3人で前を向いて 明るく楽しく生きて行きたいと思います。

10,000日間、ありがとうございました。




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