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僕はおまえが、すきゾ!(44)

僕が油科さんの家に着いたのは、それから一時間後の事だった。彼女のアパート、こんなに遠かったかな?自転車のペダルは、思いのほか、重く感じた。
僕は駐輪場に、自転車を停めて、彼女の住む二階の角部屋へと向かった。
ピンポーン、一度ドアチャイムを鳴らした。
しばらくして、ドアが開いた。
中から強面の男が、ドアを開けて顔を出した。
「あ」
咄嗟の事で、僕は言葉が何も浮かばなかった。
男は表情を変えず、「君は、武田君?」と聞いて来た。
それは油科さんのお兄さんだった。年の頃から言ったら、僕と同じぐらいの齢に見えた。しかし、実際の齢は、もっと上だろうか。
「はい、僕が武田です」僕はお兄さんの目を見ずに言った。
「そうか」とだけ、油科さんのお兄さんは言った。
「あの、油科さんは……」
彼は僕の顔を侮蔑した眼差しで見た。
お兄さんは黙って、ドアを開けて、部屋へ入って行った。彼に導かれて、部屋に入ると、ベッドがキチンと整頓されてあった。あの夜、彼女と一晩を過ごしたベッドだった。
油科さんは、テーブルの前に俯いて座っていた。その顔に表情は無かった。
「幾つなの?」油科さんのお兄さんが僕に聞いた。
「21……です」僕は落ち着いて話しをする油科さんのお兄さんに圧倒されていた。
お兄さんは油科さんの隣に座り、「座って」と僕は油科さんの目の前に座った。
「こっちに」とお兄さんは僕に油科さんの前ではなく、自分の前に座るように促した。
僕は縮こまりながら、油科さんのお兄さんの前に座った。
「私は由紀子の兄の油科友和です」
油科さんは黙って、頷いたままだった。
「私たち、姉弟は親を早くに亡くして、今、頼れるのは、私達、二人だけなんだ」
僕は沈黙していた。
「私も妹も、高校卒業して、すぐ就職したんだ。かけがえの無い二人だけの兄妹なんだ」
三人の間に長い沈黙が流れた。僕はその沈黙に不安を感じていた。
油科さんのお兄さんは、長い沈黙の後、口を開いた。
「妹は、妊娠している」
「え?」
「相手はもちろん分かってますよね」
僕は一瞬に頭が真っ白になった。
「あ、あの、僕、実は統合失調症なんです。だからっ」
最悪のタイミングのカミングアウトだった。統合失調症だから何だと言うんだ。そんなのは、少しも理由にならないのは、自分でも分かっていた。不安でうろたえた僕を助ける言葉は一つも無かった。
「統合失調症なんですか」油科さんのお兄さんは言った。
「ハイ……」と、僕は俯いて黙った。
「確か、大学生と聞いていますが」
「あの……、今、予備校に通っています」
「工科大じゃないの?それは、妹を騙したって事ですか?」
僕は言葉に詰まった。
「いえ、決してそういう事じゃなく……」
僕はしどろもどろになっていた。
「あなたは妹の事、どう責任を取るつもりですか?」油科さんのお兄さんは言った。
「ちゃんと、調べたんですか?」
気付けば僕はつい、保身の言葉を吐いてしまっていた。
「病院には、行ったの?」油科さんに僕は問いかけた。
「それがあんたの言い分か!?」
弟は胡坐を掻いて、拳を握った。
僕は油科さんに助けを求めるように、油科さんの顔を見るばかりだった。油科さんは僕を助けてくれるわけもないのに。
「責任はどう取るつもりなんだ」
「責任って……言われても」僕がそう言うと、弟は立ち上がって、拳を振り上げた。
「やめて!もうやめて!」
僕が弟に殴られそうなその一瞬前に、油科さんが言った。
「嘘なの。全部嘘なの。私、妊娠なんかしてない!」
「う、嘘?!?」
僕と油科さんのお兄さんは同時にそう言っていた。
 
 
 

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