見出し画像

[日録]記録された記憶は事実足り得ない

May 31, 2021

 犇めき合って立ち並ぶ雑居ビルには殆ど全てと言って良いほど、ネオンライトが装飾為されている。その内の一つである七階建ての最上階にある部屋のルーフバルコニーで、私は柵に凭れて煙草を吸いながらそれらを眺めていた。目線よりも下の景色は煌々と明るく、見上げていく内にいつしか点々と星空が輝く程度の闇が拡がり、その暗がりに向けて煙を吐くも、そこには届かずに消えていく。煙たちは何処へ行くのだろう。彼らの死は、正しい死であると言えるのだろうか。視線を真っ直ぐ戻すと、私は彼と彼女に混ざり直して『呪術廻戦』の話を続けた。彼は私と同じく誌面で追い掛けており、最新話で如何なっているのか迄知っていた。一方の彼女は本作をアニメでしか観ておらず、原作はアニメで観終えてから読むという所謂 "アニメ派" であった。私も本作はアニメを何の気無しに観始めるや否や廻戦に巻き込まれ、其の世界の底から出ることを拒む程に嵌ってしまったのであるが、その後の私は続きを知る為に何とか這い出て先ず全巻を買い漁り、果ては誌面で最新話まで堪能することを我慢出来なかった。そんな私とは違い、彼女は更に本作の世界へと没入出来るアニメを待つことを厭わない毅然とした様子で、私は思わず生じた情けなさに頭を振るほかない。兎も角、私と彼は彼女にネタバレにならないよう気を張りながらも、『呪術廻戦』のMAPPAが手掛けたアニメ版全二十四話について語っていたのである。
「この作品に出てくる女性キャラクターは」私は少し言い淀んだが、構わず続けた。「殆ど全員、強い女として描かれているね」
 私は彼ではなく彼女の反応を見た。失言と捉えられてしまったであろうか。薄暗がりには慣れた目で其の表情を探ると、口角が上がっていることは見て取れたが微笑みを見せているのか迄は読めない。私は彼女の言葉を待とうとしたが、其の間に彼が煙草を一口吸っては口から紫煙を垂れ込めながら星空のように煌めく瞳で私たちに語り掛けてきた。
「解ります! 全員格好良いですよね!」然う云うと息継ぎのように軽く煙草をふかした。「僕は、野薔薇が好きです。特にアニメの最後が滅茶苦茶凄くて、好感度爆上がりでしたね」
 彼の主張は私も大いに頷くところではあったが、其の感情は心の中だけに止め、尚も彼女の言葉を待った。私が彼女を気に掛けているのは、好意から来る行動ではない。先程、私が発した "強い女" という言葉が、女性として生きる彼女にとって如何響いたのか、ともすれば気分を害してしまったのではないだろうかということを、此の時には予め分かっている程の関係性では無かったので、少し許り緊張していたためである。私が用いた "強い女" という言葉は、謂わば映画の用語として用いられる "ファム・ファタール(運命の女)" のような便宜的なものに過ぎず、決して私の思想を形骸化した言葉から来るものではないことを皆様には如何か御理解頂きたい。加えて、然う言う便宜的な言葉を用いて話すことが今後敵わないのであれば、違う話題に乗っかろうと企んでいたことも又、事実であったのかもしれないが、次に発した彼女の言葉で何れの道も断たれてしまったのである。
「女の子に強いも弱いも無いですよ」
 如何やら琴線に触れてしまったようだ。紛う事無く私の落ち度である。私は直様頷いて見せると、私が発した "強い女" とは現実の女性に内在する本質を総じて理解した上のものでは無いことを詫び、其れは飽くまで物語上の人物として或る程度記号化されたキャラクターの性格というものを世界観を紐解く上で分類化した言葉に過ぎず、例えば私は本作では禪院真希が最も気を惹かれる人物であるが、『ガラスの仮面』では北島マヤにも好意を寄せており、両者は多いに性格が異なるということは私からしても皆からしても確かな事実であろう。マヤは "乙女チック" と揶揄されることもある振る舞い許りが描かれるが、真希は其のような側面は今のところ一切見受けられない。何方も自分を限界まで追い込む程にストイックな性格であることが見受けられるシーンは往々にあるが、禪院真希は常に一切の油断もしてはならないと気を引き締めている一方で、マヤの場合は演劇のこと以外となると自分で言うほど "みそっかす" で、何も出来ないと嘆くのである。是等のことを簡単に伝えるのと似たように、北島マヤを "弱い女" 、禪院真希(というより、本作の女性キャラクターの殆ど)を "強い女" として心苦しくも性格診断のように簡易的に分類した末の概念であり、其れは何となく一般的にも普及した物事の捉え方であると勝手ながら考えていた軽率な判断による失言であることを謝罪した。そして私は話題を切り替えようと、彼女が五条悟を大好きだと言っていたことを引き合いにして、五条悟が "好きな女性のタイプ" を公表するオマケアニメの話を振った。彼は、作中ではしっかりしているようで "ミーハー" と揶揄される程にきゃあきゃあと心の中では騒ぎ立てるなど見せる可愛らしい三輪霞というキャラクターを指し、彼女こそが五条悟の好きな女性のタイプであるということが分かるという筋立ての一分程のオマケシーンである。私は単純に、やっぱり三輪霞は女性から見ても魅力的に映るのだろうかを聴いてみたかったのであるが、苦笑しながら呟いた彼女の言葉が又も私を悩ませた。
「あれは聴きたく無かったですね」
 一方の私は、然うかと云うほかなく、心の裡では五条悟が三輪霞を好きな女性のタイプとして指す事実を受け止めた上で本オマケアニメの話を進めたいとも望んでいたが、彼女が其れを望まない可能性もひょっとすると在るのではないだろうかと考えた末に、彼女が好きだと云う椎名林檎の話をすることにした。椎名林檎が歌った場所、乃ち私たちが今居る此の東京を舞台とした廻戦は今も行はれてゐるが、私たちは其の話題をすることは其れから無く、又の機会にすることを暗黙の内に決めた。あれから幾度と無く宵闇が過ぎたが、此のように反芻してみると様々な示唆に富んだ出来事だったなあと犇犇と感じられる。中でも一番再認識させられたことは、 "他者に理由を伝えることが如何に難しいか" であり、曳いては "理由を伝えるとは如何なることか" と云う理由を述べた理由を述べよと問い詰められた気にもなり思わず考えざるを得なくなる。何度も匙を投げては、何度も煙草を吸っていた。吸いながらも考えていた。此の問題に答えが無いことも理解していた。だが、あの時の彼女への失言に対して些かの責務を感じているのか、私は考えることを止められなかった。気晴らしに映画でも観ようとアンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』をぼんやりと観たりもした。此の映画も女性についての問題を大きく取り上げているものの、骨子としては男性主人公が彼の現実と空想と其の境を此れ以上は無い画角で撮影した映像と何と見事な編集で終始行き来すると云う物語であり、彼から見た女性、女性から見た彼、私たちから見た彼と女性を観て行く傑作映画にほかならない。しかし、此の映画から得たことがあの時の理由足り得るのか迄は如何しても思えなかった。何かを伝えようと試みた時に、其れが私の拙い説明で通じるということは、皆が私の言葉を理解してくれている事実にほかならないが、然うならなかった場合には更に説明を加えていく必要があるものの、 "何か" に対する説明は、時に理由と云う "何か" と成ることも在る。其れ等を成る可く無くそうとして努めているが、デレク・ハートフィールドが "完璧な文章などといったものは存在しない" と述べていることに倣うほかなく、私は或る程度の理解は既に皆の中に在るものだと結論付けて不完全な文章を綴ることしか出来ないのである。例えば、私は此処迄に "映画" と一口に言ったきりで話を進めているが、それはようやく喋り始めた子どもから "映画" とは? と問われることを想定していない。であれば、 "映画とは、エドワード・マイブリッジが連続写真というものを初めて撮影し、それが映像の起源として、劇場で鑑賞するような今ある形へと繋がっていった文化の総称であるが、多人数に向け且つ劇場で上映することが映画の定義になっているのはリュミエール兄弟の開発したシネマトグラフによる功績である。その前年にトーマス・エジソンはキネマトグラフという映像装置をすでに開発していたのであるが、こちらは箱型のような装置となっており外側から人が覗き見るもの、乃ち一人で映像を体験する装置である一方、シネマトグラフはプロジェクターの原型である映写式であり、劇場の壁やスクリーンに映すことで映像が見られる装置、詰まりは多人数でも鑑賞可能な装置であったため、エジソンではなくリュミエール兄弟こそが映画文化の生みの親であるという見方が一般的には為されている。此処からは私見だが、然うなってくると純粋に "映像" と云ふものの元祖としてはエジソンなのではと言えるのではないだらうか。VR元年から早五年経つが、その間NetflixやYouTuberが世界を席巻し尽くし、一人で映画乃至映像を楽しむ人も爆発的に増えただろう。依然としてVRの普及はそれらほど進んではいないが、体験したことがなくとも "VR" とは何かを理解している人も今や少なくない。其れは云ふまでもなく、ゴーグルをかけ、眼前に映し出される仮想空間に自分が居るやうな体験をさせると云ふ文化であるが、まるで其れはキネマトグラフではなひだらうか。テクノロジーは当然ながら雲泥の差ではあるが、一人で映像を体験すると云ふ点におひては同義であらう。少し余談が過ぎてしまつたが、私がこれまでに使用した "映画" と云ふ言葉が指してゐるのは、リュミエール兄弟に始まり今尚続く劇場鑑賞型の媒体のことである。" と、長々と前置きしてから話せば良いかと言うと、そうもいかない。相手は矢継ぎ早に、 "エドワード・マイブリッジ" とは? "連続写真" とは? "トーマス・エジソン" とは? と、次々に質問を繰り出すだろうし、それらをすべて説明しようとも私の知識ではとても追い付くことなど出来る筈もない。つまり、我々は知らぬ間に "映画" と言われたら "これ" と想起するよう促されているのであろう。それは何も映画に限ったことではなく、今読んでいるこの文字全てに於いても言えることであり、それだけに留まらず森羅万象ありとあらゆるものに当て嵌まることであるが、そんなことを云つてしまえば、我々は五条悟の領域展開に呑み込まれたやうに、一切の活動を停めてしまふことになるであらう。然う成らない為にも我々人類の祖先は、存るもの全てに言葉を定め、やがては物体的なものだけではなく精神的なものの現象ですら補填する言葉を生み出していくなどし、或る一定の理解と云ふものを経た言葉で今なほ会話しやうとしてゐるに過ぎないだらう。プラトンのイデア論が生まれる契機となったのも、こういった人類の性質に対して彼が彼なりに考え抜いた結果なのではないだろうかとも感じられる。現代哲学の巨人、マルクス・ガブリエル氏が何方かとの対談で "ギリシャには自然や海、果ては人工物まで美しいものばかりで、フーコーや古代ギリシャのアリストテレスたちはこの世に美しくないものが存在するということを理解出来なかったのではないだろうか?" と言っていたやうに記憶してゐるが、プラトンも似通った思考をしてゐたと仮定した場合、彼は人間の闇と呼ばれる部分が在ることを認めた上で、イデアと云ふものが存在するのだと結論付けたのかもしれない。私はプラトンの著作は『ソクラテスの弁明』以外は読んでおらず、是等の詭弁はイデア論に触れているその他の著作等々から佩用して用いただけであるので、学術的な誤りが多分に含まれているであろうが、其処は御承知置き願いたい。本文のポイントは "イデア界こそが無量空処なのではないか" という私の思いつきの仮説を滔々と述べることではなく、飽くまで "理由を伝えると云ふことは、如何なるものか" の正体を暴こうと試みることである。言葉を理解しているからといって、その言葉を用いることで意図している全てが伝わることは限りなく難しく、殆ど有り得ないと言っても差し支えない。しかし、我々が今までに学んできた勉強と云ふものはこたへと云ふものを用意している許りであったため、私も含め現代人と云ふものは物事の捉え方すら一方向的にしかよもや見えず、三次元の空間に息付いていることを時折見失つてしまふのだらう。私が他者と話すことが苦手である理由も、私の口から咄嗟に出た言葉や、相手を慮つての言葉、自分を守るための言葉などを、軽々しく考えもせずに全て私の言葉として、発してしまつてゐるのではないかと思い詰めてしまうことがあるからにほかならない。私はもう、それをお互いに理解した上で発した言葉が足りなひ場合は優しく補つてくれるやうな方としか、上手に話すことが出来なひのである。私は言葉を慎重に選んで発言するやう努めてゐるが、どうしても人の神経を逆撫でしてしまうやうな言葉をわざとつこおてしまふこともあるし、相手方から云はれることなどしょっちゅう起こる。それでも私は、諭すことと諭されることを止めようと決意するほど此の世界が美しくないもの許りであるなどと絶望を抱えてはいない。この文章は不完全であろう。其の事実に対する絶望すら、私は一切感じてもいない。『風の歌を聴け』の冒頭は、 "完璧な文章などといったものは存在しない" と書かれて始まり、 "完璧な絶望が存在しないようにね" と続いていくのである。此れ迄の文章は、私の記憶を記録した事柄から成り立つ文章であるが、其れが果たして "何か" と問われたとしても私にはもう応じる気力は残されていない。抑、既に記録された記憶を記録したに過ぎない文章が、よもや真なるものと感じられる人が何れほど居るのだろうか。其の文章だけでは其れは事実として証明する程には成り得ず、此れが事実であると宣うことが出来るのは私と彼と彼女しか居ない。是等を以て、私が何を与えたかったのかを伝えることは野暮だと言えよう。其の理由を伝えようとも、不完全なものに成るのであろうから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?