”人間関係の毛皮”コレクション まるで裸猿が乾布摩擦をするようにして
まず基本的な考え方として、他人を変えることはできないと思っている。本人が自発的に変わろうと思ったのでない限り、変わることはない。
交際上の違和感を覚えた場合、「離れる」か「受け入れるか」の二択で人間関係を捉えてきた。受け入れるとは、ある意味、自らを変えることだ(消極的だが)。
要するに、他人とは変えることのできない存在だから、共にあらねばならぬ状況に迫られているとき自分を変えるようにしてきた。
変えられるのは表層部分だけだ。フリーランスのしがない身の上であるからして、非常にたくさんの”人間関係の毛皮”を獲得してきた。必要とあらば真夏にだってネクタイを締めるし、音楽の現場にはイケてるスニーカーを履いていく。目立たぬようにモノトーンでひっそりたたずむこともあれば、汚れてもいいチノパンで地面に膝をつきながらお話をうかがうことだってある。
ちなみに”人間関係の毛皮”をチェンジするために服装を制御するのは割と効果的だ。衣類とは、社会性の着ぐるみである。
毛皮のバリエーションが増えるほどミスマッチを回避できるようになる。しかし毛皮を脱げば弛んだ腹の裸猿にすぎない。オフのときには全くぽんこつの、迷惑ではない程度を意識するのがやっと。未社会人だ。
これが問題だと思った。社会人として振る舞わなければならないときにも、うっかり中身の裸猿が無様にぽろりをしてしまうことがある。人間関係の毛皮に頼ってきたがあまりに、裸猿はあまりにも弛んでいる。
醜い。臭い。頼りない。というわけだ。
そろそろ筋トレをしなければならないようだ。猿は猿でも、見応えのあるゴリラとかワオキツネザルとかキンシコウとか・・・・・・いやいや類人猿を目指してどうするというのだ。やはり、毛皮を脱いでも人として見られるだけの素養を培わなければ。
というわけで、何をしたらいいものかと思ったわけだが、思い出したのが故郷でお世話になったバーテンダー氏が教えてくれたことだった。
「言葉遣いを変えると人間関係が変わる。人間関係が変われば自分が変わる」
世界を変えることはできない。変えることができるのは結局自分だけだと思う。諦めた。
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