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自分史〜後編〜何才からでも底辺から這い上がってこれたのは、自分らしく生きたいから。

ケイです。タイトルの、「何才からでも這い上がってきたその原動力」が、「自分らしく在りたい」、「自分らしく生きたい」、「成長したい」という強い想いからだったということに気づき、更に自分らしく幸せに生きるために行動をしようと思い、noteを始めました。こちらは自分史後編です。
(自分史前編はこちらです。)
這い上がった原動力の話や、何才からでもやればできるんだという体現した物語を書いていこうと思います。


親孝行と転機

あれから親に電話をしたのですが、彼女のことも悪く言ったので人として恥ずかしくなって諦めました。私のことだけを悪くいうのはまだわかる。でも人様の子に対してひどい暴言を言う親に憎悪を感じました。

私は、相手の大切にしている人や、大切にしていることを大切にします。
私がそうされたいからです。

しばらくして縁を切らないということになり、年末などはおばあちゃんに会いに一人で実家に帰ることが多くなりました。家族との食事は拷問でした。口数も少なく冷え切ったテーブルで、いつ私が変わるのか、気持ち悪いと思われている態度。元々感受性や共感力も高いので、私の顔を見る家族の目つきで全てが見透かせました。

数ヶ月くらい経って、母親がお土産に持たせてくれる果物やお菓子が偶数なことに気づきました。2人いるかもしれないと考えてくれているのかな?少し嬉しくなりました。

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1年経って父親とも少し会話をするくらいの時、母親が「お父さんのネクタイいる?ケイのバンドの衣装でどう?」と言ってくれました。私はモッズスーツでバンドをやるスタイルだったので、ネクタイを締めていることを知ってくれていたのです。ちょっとだけありのままの自分を受け入れてくれたみたいで嬉しかったです。そしてその内彼女とお別れをしました。

私がセクシュアリティに20数年悩み続けた2倍以上に、親は悩み苦しむだろう。「自分を理解して」の一方通行だったかもしれないと思った。暴言を言われた事は傷ついたし傷は癒えていない。でももう理解してなんて言わない。家族と言えど他人。それぞれの人生を生きている。憎しみを少しだけ減らして、できる限りの親孝行をしようと思いました。

東京でバンド活動をしながら、職場で今でも仲の良いゲイの友達ができました。バンドも仕事も何も大成していないけど、たくさん恋もして素敵な友達も増えました。

そして親との仲も良い感じになり、中学生以来初めて家族旅行に行きました。場所はハワイ。イルカは可愛いし、海はキレイ。海外だから解放されているのか、終始両親は笑顔で仲が良い。父親は海外出張も多く英語もなかなかなので、しゃべることが楽しそうです。ダイヤモンドヘッドにみんなで登ったことが気持ち良かったです。

私は親に縁を切ると言われてからずっと蓋をしていた思いを母にぶつけました。「私は生まれてきて良かったの?思い通りの子供じゃなくて恥ずかしいの?」と。

母親から「あの時はひどいことを言ってごめんね。本当はケイのことは大切に思っているよ。お父さんも頑固な性格だから許してやってね。」と言ってくれて、嗚呼、私は親から「ごめんね」・「大切に想っている」と言ってほしかったんだと思いました。

同時に私は「ありがとう」・「ごめんなさい」・「あなたのことを大切に想っている」という言葉は、しっかり相手に言葉で伝えたいし、伝えてほしい人なんだと自分の価値観に気づきました。

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楽器スキルもセンスがあり、人柄もよく、男女ともに素晴らしいバンドメンバーにたくさん巡り会えました。でもバンドは鳴かず飛ばずでした。方向性が違ってメンバーチェンジが続いたり、人脈を作るための営業などが私はすごく苦手で。

その後20代も後半に差し掛かる頃に、ずっと一緒にやってきたメンバーの彼女に子供ができてしまった。結婚をするからバンドを辞めるといった出来事でした。他のメンバーは私についていく。一緒にバンドをやりたいと言ってくれましたが、私はもう息切れしていました。

一旦、休もう。走り続けた人生の歩みを一度止めて、自分がこれからどうしたいか考えようと思いました。
音楽活動を始めてから、初めてそう思いました。

そして音楽を作るのも聴くことすらもしなくなりました。そして、父親から「お母さんが癌だ」と報告をもらいました。風邪も引かず病気もせずあんなに元気だったのに?そして当時の彼女からは「将来が見えない」と言われ別れを切り出されていました。

自分と向き合う。「海からアイラブユー」

これからの仕事をどうしようと悩みました。そして週一実家に帰り母親の顔を見にいく。これが続きました。

簿記の勉強を始めたりコピーライターの面接を受けてボロクソに言われたり、ぐっちゃぐちゃでした。私がずっとやってきたことって音楽しかないじゃん?履歴書に書けないことばかりじゃん?と同時に、全く興味のなかったボイストレーナー養成が目に入りました。

独学や実践では歌も楽器もやってきたけど、歌や声の出し方・身体の使い方の理論を学んだら面白いかもしれないと思い、スクールに通い始めました。

そして、ただのバンドマンだった私が歌や声などのアドバイスをし、人が喜んでくれることに驚きと喜びが隠せませんでした。
音楽を通して誰かのためになっている!
これは自分が表現だけしていた頃より、もっと大きい喜びとやりがいになり、人の成長を見ていくのが楽しみになりました。

ボイストレーナーと別の仕事を掛け持ちし、「正社員ってものになってみたいぞ」と初めて思いました。このまま一人で生きるにしても、いつかパートナーと暮らすにしても、お金も大事だ。そう思って転職活動を始めました。

ゲイの友達も私の強みや提供できることを一緒に考えてくれました。あの時のイタリアントマトで話したことや空気は一生の思い出です。

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父親が母のために詞を書いたから曲をつけてほしいと言われました。ちょっと作文のようだったので私が少し手直しし、一晩で曲ができました。冒頭はこんな歌詞です。「海からアイラブユー」というタイトルにしました。

今年も山々の木々が色づいていく9月末。もう2年経つんだね。ガンとの闘い、二人はいつも一緒。家族旅行思い出いっぱい。笑顔がよく似合うお母さん。きらびやかなハワイの海は、希望を捨てない、お母さんのよう。

もう一曲私から母へ作った「mommy is the sun」という計2曲を、ベッドで横たわった母の傍で、なんとかギターの弾き語りで聴いてもらうことができました。これが最初で最後の母の前での演奏でした。

あんなに強くて威張っていた父親がいつも苦しそうで泣きそうでした。そして、母から父に相談や違和感があっても「大丈夫だよ。そんなに気になるなら病院行ったら?」くらいで過信をして発見が遅れ、既に癌のステージ4という生存率が低い状態で見つかり、自分を責めていました。

母はいつも「ありがとう」という人でした。そして人のことばかり心配していました。自分が一番辛いのに、文句や愚痴はほぼ聞いたことがありません。治ると信じて辛い治療に挑んでいました。母が体が思い通りに行かなくて一人で泣いているところに、父が「ごめんな、俺がもっと早く病院に行ってと言っていれば・・・ごめんな」と2人で泣いていたのを見ました。

父は不器用な人なんだな。嫌だけど私も良く似ている。

そして、趣味でバンドを続けようと、またメンバーを集めて再開をしました。その時から今まで同じメンバーで10年以上続いています。「海からアイラブユー」と「mommy is the sun」もバンドバージョンでライブをし、レコーディングもしました。メンバーにはほんと感謝です。

バンドがやりたい時はどうにもこうにも上手く行かなかったのに、手放して、別の方向で動き出すと上手くいく。宿命なのかなと思いました。不思議なものです。
そうか、私は人をサポートするために、これだけ音楽や人間関係で苦労をしたのかとも思いました。

ボイストレーナーのスタート。一人の生徒との出会い。死と向き合う。

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30歳でボイストレーナーとして会社員で働き始めました。それは大学を中退した自分、そしてそれを受け入れてくれた親が報われた時です。大学を中退してまでやりたかった音楽、上手くいかなかった音楽活動、でもその音楽に携わることを仕事にできたことは本当に頑張ったなと思います。しつこいくらいの継続力、落ちても這って立ち上がる力、どんな逆境でも行動することで道が開けることを学びました。

そして改めて、自分の人生のために生きようと決心をしました。

1年後、母が亡くなりました。色々あったけど、57歳という早い親の死はきついです。死と向き合うことは容易ではない。いつかみんな誰か大切な人の死と向き合わなければならない。生きるとは何か?死とは何か?残された人はどう生きればいいのか?を毎日考えました。そして、今にも死にそうな父を遠くからでも支えよう、そう思いました。

私が入社して3ヶ月後音楽マネージャは辞めてしまい、ボーカルレッスンはあるけれどライブイベントはなく、マイクも壊れているようなスタジオで音楽に弱い芸能の会社でした。そして音楽に詳しい社員を募集していた理由も、生徒も講師も全て音楽を上手く盛り上げてくれない?という放置状態だったので、振り返れば全て0から1を作る作業で大変でしたが、自分の色に染めることができました。行ったことは以下。

・非常勤講師の見直し。レッスン見学と生徒の継続率や退学率の分析。
・講師面談後、辞めていただく人も続出し、その怒りの矛先になる。
・レッスンの見直しでレベル分けのクラスを設立。
・伸びそうなレベルの高い生徒の把握と集中レッスン。
・ボーカルだけでなく芸能で生き抜くための講座など週に6クラス持つ。
・ライブイベント開催。制作・進行・人員まとめ・タイムキープ全て行う。約50名出演・10名スタッフを取りまとめ、8年連続継続できた。
・センスのある生徒のデモテープをレコード会社へ営業し送る。
・他部署の人と連携をとりアー写を撮ってもらい、プロフィールを作ってもらう。

そして一人の生徒と出会いました。中学生の少年です。

デモテープをもらいセンスを感じて、「うちのクラスに来ない?」と電話をし、上司に許可を得て、部署を越えて特別に飛び級をすることをしました。そこから私の愛ある厳しいレッスンがスタートします。十分慕ってくれましたが、後にはぶっ飛ばしたいほど憎い時もあった(笑)と言っていました。歌や音楽への貪欲さと作曲のスピードは半端なかったです。2年くらい彼のデモテープの送り先には反応がなかったですが、一人のマネージャーから歌の上手い生徒いない?と言われてデモテープを渡していました。

そしてある時彼はバンドを組んだからライブしてきますと報告をくれました。その後マネージャー繋がりのレーベルと、もう一つのメジャーレーベルからのオファーが2社からあり、社内は大慌て。2年後最速でのデビューが決まり、初めて会社でバンドでの音楽ビジネスをスタートすることができました。

レッスン、生徒管理、事務、イベント、契約や打ち合わせの場に顔を出し、音楽現場に顔を出し、取引先からの電話対応、アーティスト契約の為の勉強・聴取・ドラフト作りなど・・・会社も自分も初めてのことに色々トライしました。

休みもほとんど取れなかった、部署もできていないしチームもないから相談に乗ってくれそうな上司に頼り、音楽ビジネスの本を読んだり調べて勉強、それらをまとめて取締役に共有。会社やその時の取締役は「上手くやって〜」という雰囲気で、音楽の「お」の字もわからないし知ろうとも思ってなかった・・なので、何とかアーティストに今妥当な投資をしてもらうよう上司と掛け合った。

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全てはメンバー・アーティストたちがもっと成長して、夢を叶えて、大きくなって欲しいという想いだけだった。
そして素晴らしい音楽が人々に届き、たくさんの人の幸せに繋げられると信じていたからできた。

そこから2年バンドデビュー日の数ヶ月前に、ずっと支えてくれた上司が亡くなった。くも膜下で43歳という若さで・・・。なんで今なの?私はどうすればいいの?とどうにもならない思いを抱えてお葬式に参加した。

「もうオレがいなくても大丈夫だよ。ケイは妖怪になって尻尾が生えてきているから。けっけっけ〜」と冗談を言っていたのが少し前。
妖怪になって尻尾が生えてという意味は、「新しい事を作り出す事や人間関係にいちいち一喜一憂せずに、図太く前に進んでいける」という意味を込めてくれている。

バンドマンからボイストレーナー、そしてアーティストマネージャーに。

そしてバンドがデビューし1年後、前任のマネージャーが辞め、マネージャーをやってくれと上司に言われました。ボイストレーナーからアーティストマネージャーって近いようで全くやり方も考え方も違う職種。もう他の選択肢がないくらい迫られ、私含めた音楽好きの未経験者2名がマネージャーになった。この時既に37歳。

体力も落ちていましたが、振り返ればよく新しいことにチャレンジしたなというくらい気力で頑張りました。

・このアーティストたちの為に自分には何ができるか
・会社でどんな制度や土台を作ったら、よりアーティストの為になるか
・結果、会社の為になるか
・メンバーに私がどんな背中を見せたら安心するか

それらの想いで・・・少年との出会いから10年経ち、バンド結成から7年、デビューして5年、傍でサポートし続けました。

最初はスタッフばかりでお客さんが3人しかいなかったライブハウス、そこから7年後は全国の10,000人以上のハコのアリーナツアーができるバンドまでに成長。ドラマやアニメ・CM・映画のタイアップ、日本の有名なフェスはもちろん、初海外フェスにも参加でき、リリースする度にApple MusicやLINE Musicで1位も取り、芸能人のファンも増えるようになりライブに来てくださる方もいました。

社内での音楽に関する仕組みも作り、ただのボイストレーナーだった私、部署がないところから始まったプロジェクトでしたが、現場と印税などのデスク業務もこなし、今では会社一の億単位を売り上げる部署になりました。(あ、でもまだずっと2名体制)

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彼らがこの会社を去るまでは、傍でサポートし続けようと思っていました。ボイストレーナーの時も、マネージャーの時も、人としての自立を大切に接したつもりです。寂しいけど、悲しいけど、いつかは別れの時が来る。そう直感で感じていました。同じ場所、同じ人、安心な人たちといることが、人としてもバンドとしても良い変化を生み出せるとも思っていなかったからです。信頼は大事です。それには月日も過ごした中身も大事です。

14歳の少年が24歳になり、学生でデビューをし、音楽の世界では一般人が経験できないようなたくさんの経験はしていますが、夢を現実にする為に爆速で走ってきた少年からアーティストになった彼から「少し休みたい。」と聞いていました。

30代をほぼ全て彼らアーティストに捧げてきたと言っても過言ではない人生を振り返り、成長をさせてくれて新しい景色を何度も見せてくれて感謝の思いでいっぱいです。でもそれと同時に、マネージャーとして働くにつれ、業界の人たちの人間関係の中で私は自分らしさを殺し、自分を卑下し、嫌なことを言ってくる人たちに愛想笑いをし、人生をどう生きたいかがわからなくなってきた思いもありました。

アーティストの為に頑張ってきたけど、偽った自分がいたり我慢をしたり。ボイストレーナーではティーチングをやってきたけど、今はマネジメントか。
私はこれから何がしたいんだ?と考えるようになった時に、「コーチング」に出会いました。

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今に至る想いと行動。コーチングへの道。

まずはコーチングを受けてみようと興味本位で受けてみました。以下、それぞれ似ているので違いを記載します。

「ティーチング」:理想の状態に近づける為に講師の持つ知識や経験、知恵を提供すること。
「コンサルティング」:クライアントにヒアリングした情報を元に戦略を考え目標達成すること。
「セラピー」:過去のトラウマや抱えている問題について戦略を考え、行動プランを考えること。
「コーチング」:未来に向けて行動変容を促す。クライアントが目指す状態のために、現状を明らかにし実現するための気づきを促すこと。

コーチングは私にとって衝撃的なものでした。

コーチがクライアント(顧客)にアドバイスをしたり、評価・判断はしません。私が理想の状態に近づく為に、在りたい自分になる為に、視野や視点を広げる質問・心と向き合う時間・身体を使ったワークもあったり、今の状態を認め、何の行動をしたいか自分に気づきを与えてくれるセッション
自分と向き合ったことは多々あったけど、こんなに自分のことを人の前で声に出して一つ一つ感じ、噛み締め、それらをコーチが私だけの為に一緒に伴奏してくれる贅沢な時間。

ありのままの私らしさとは、人生の目的とは、私がどう生きたいか、何を幸せと感じるのか、どんな価値観を持っているのか、自分が人に与えるインパクトとは、自分の強みは、私はこんな想いを持っているから、だからこんな人間関係で傷ついたのか・怒ったのかと気づいていく。

こうでなきゃいけない自分がどんどん取り払われていく・・・
何にYESと言って、何にNOと言って生きるのか
誰といたいのか、何をして心躍るのか、何が大事なのか
行動することで硬い身体がほぐれていく。心が解き放たれてゆく。
自分の理想の人生を生きるスピードが早くなる。
在りたい自分で居れる。自分が好きになる。周りにもやさしくなれる。
自分の才能を発揮できる状態になれる。挑戦できる。イキイキ生きれる。
前に進める・・・!

決して完璧ではない。でも可能性に満ちている。パワフルです。

コーチングを学びたいと思い、40歳からCTIという機関で学び始めました。実践と体験から学ぶ、グローバルスタンダードICF(国際コーチ連盟)認定プログラムを提供している企業です。そして今は応用コース受講中ですが、モニター募集も始めてクライアントさんもつけているところです。

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Love the life you live, Live the life you love.

今後の人生はもっとコーチングスキルや経験をつけて、自分らしく、自分というリソースをフルに発揮しながら、自分の思う働き方で、やりたいことをして、人の喜びになることを提供したいです。ボイトレとコーチングを合わせたオンラインメソッドも考え中です。そして、LGBTQやダイバーシティへの取り組みで、友人に力を借りて企画サポートをしてもらい、グラフィック、映像まで出来上がり、Podcastも始めました!

その名も「サウン・ド・ケイ LGBTQの今!みんな違っていいじゃん!」
それぞれの人生が奏でる音を、サロンで聴く意味が込められています。

見出しの訳「あなたの人生を愛して。あなたの愛する人生を生きて。」
はい、私はそうします。

今までと変わったことは、人の評価や人の意見を気にしないようになりました。もちろん人の意見は参考にはしますし、人との関わりや耳の痛いことは聞いて成長したいです。ただ、人生の選択は自分でしたい、自分を殺してまで人の為に頑張るのは自分が可哀想だと気付きました。
我慢をするのが美徳でもなく、何も挑戦しないで現状に文句を言うのではなく、自分の人生は自分で作っていきたいのです。

上手くいかないことや人とぶつかる時もありますが、前より今はとっても幸せを感じています。周りの人たちも素敵な人たちばかりです。私が会いたいやさしい人たちばかりです。「以前から仲良いから今後も付き合わなければならない」・「ちょっと馬鹿にしたような傷つくことを言ってくるけど、なんだかんだ楽だからまた会おう」とか、そういうことをやめたからです。

そして、全てにおいて「学び」と「行動」を意識しているからです。

バンドをやってきたこと、ボイストレーナー、アーティストマネージャー、そしてコーチングをやりたい根源の共通点は、人との関わりです。
愛を持って、多様な人たちの調和と成長をサポートしたいという気持ちがあるからです。
これが今の人生の目的。でも、人生の目的は変わっていいものです。変化していいのです。ちょっとした言い回しも今の自分に合わないなと思ったら、変えていいのです。自分だけがしっくりきてればいいのです。楽チンです。

さて、この人生の物語の続きに何が書かれるのか。
そしてこれから、「その人にしかない可能性を信じ、人生の物語を一緒に伴奏し、創造できる人をどれくらい作れるか、出会えるか。」

また転機を迎えているので、その内続きを書きたいと思います。

ここまで書くのが大変だったけど、文章にすることで自分の人生や想いが可視化されて明確になったし、もしここまで読んでくれた人がいたなら感謝申し上げます。

心からありがとう!ラブ!



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