子供たちが出遭う未来

幸せの定義。中二病が再発。ウェルビーイングやSDGsやダイバーシティといえば良いだろうか。ほんの少し引っ掛かりがある。困ったこと、苦しいことがあると普通人は苦労して工夫し乗り越えようとする。もし環境あるいは現実の捉え方を変えることに成功して苦しみがなくなったとして、それだけで幸せといえるだろうか。個人の苦しみがなくなったとしても世界の誰かの苦しみはなくならない。少なくとも私が生きている間の現実世界では。少し前に書いたが幸せとは苦しみの原因となる出来事そのものではなく、出来事に対する自分の捉え方をポジティブなものにいつも変えられること。外側でなく内側の問題。とはいえ美味しい食事を気のおけない仲間や家族と楽しむことが幸せというのは言えてしまいそうだ。何事も答えは割り切れないもの。

依然立ちはだかる資本主義、資本の中身は貨幣の他に評価、仮想通貨などへと変容しつつ、これが幸せとなったらどうなるのだろうか。数値化できないもの。教育の評価基準を一辺倒から多様化する。そもそも教育は子供を資本主義経済の競争に巻き込むために作られたシステムらしい、工場ラインで機械労働させるために。今その産業に大変革が起きていて教育の根本が崩れようとしている。工場のように一箇所に集団になって働く必要性が消えていっている。では教育とはそもそも何なのか、必要なのか、何のために。識字算盤であればオンラインで十分だろう。国家が税を徴収する代わりに他国と戦争し国民に安全を与える。次いでインフラ、福祉、文化保護。後者は必要だが国が行う必要があるか。北欧諸国のように税収で国民の人生全般を支える仕組みが満足度が高いのも納得がいく。本来の意義に即している。戦争は本当になくならないのか、戦争関連産業の衰退を防ぐためにもはや作為的に行われているのでは。国家の必要性、教育の必要性。産業の変化によってこれほどにも影響が出て来るのか。神様はどのような青写真を描いているのだろう。本当に必要なものとは何だろう。産業に合わせて国家や教育が作られていくという仮説はどうだろうか。新たな産業のトップ層はそれほど権力を持ち得るか。トップダウン構造とはこのことだ。ようやく意味が分かった。それが変わる。ぐにゃぐにゃになる。そして縦から横へ。横の繋がりとは。経済教育政治文化芸術の境界を横断した繋がり。縦の動き、富や情報の独占が生んだ構造。それが崩壊すると横になるのはなぜ。豊かさを公平に分配しようとしなければ衝突が起き、それが可視化されているから。結果共存共栄となっていく。いい流れではないか。もちろんすぐに実現するとは思わないが。そういえば国立新美術館で行われる、現代アートで国語算数理科社会図工などの科目を横断するというような趣旨の展覧会の広告を見かけた。養老孟司先生の動画でアートの語源の話をしていてダ・ヴィンチの時代にも教科は存在しなかったそうだ。アートは学問と技術の両方の意味を内包する。入力と出力の両方を。王陽明も「知行合一」を唱えている。両者は分断されるべきものではない。混乱したら原点回帰して方向性を正す。これは道に迷った時と同様だ。道が分かる場所まで一旦戻って来る。問いと答え、ただそれだけのことかもしれない。社会問題を入力した場合に解決策が多種多様の出力となって現れる。これが教科へと分かれていく。私たちは教育でこの出力の周辺だけを見せられていたのだ。何を食べ、どのように消化されてきたかは個人で偉人や歴史に学ぶことになってしまっている。

ところで国家や教育の在り方の話に戻ろう。縦から横へ。国家は富や情報の分配へ、これは資本家が富や情報を独占して欲望を満たすことに意義を感じなくなり、それを分配して他者の幸せを見届けることに意義を持ち始めることで進むだろう。教育は分野の垣根を越え、社会課題という共通の入力を、個人に合った多様な出力手段によって解決する方向へと進むだろう。私個人にそれを動かす力はないけれど、この人生でその過程を辛抱強く見守っていこう。そして子供がその一翼を担えるような人物に成長してくれることを祈りながら一緒に生きていこう。


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