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「終」わりって字を見ると「糸」と「冬」があるなんて、なぜ、思ったんだ?

「終」わりって字を、
 よく見ると「糸」と「冬」がある。

#なんのはなしですか ?

 ここ数年、色んな「終」を意識することが多かったからかも知れない。それは、今、終わったばかりのことや、今、終わらんとすることに限らない。過去にとっくに終わったことも、いくつか、影響している。

 僕は、カレンダーに、人の誕生日を登録していない。けど、命日は登録するようにしてる。生きてる人の生まれた日を祝うより、亡くなった人の最後の日を忘れないでいたい。

 僕の原体験は、祖母の命日。
 その日と同じ日の去年、先輩が亡くなった。
 その近くでは、別の先輩が亡くなっている。

 保育園から一緒の幼馴染の中から、
 大学の同級生の中から、
 先に逝く奴が出る歳にもなった。

「全う」という言葉が適切なのか?
 僕には、分からない。

 昔は、人並みに早逝を願っていた。だって、社会に出るのは怖かったし、「おそらく、きちんと働くなんてことできないだろう」と、思ってた。

 小学校/高学年の頃には、隠し持っていた遺書が、母親に見つかり、大層、心配をかけた。

 辛く生きるなら楽に死ぬ方法を探しているような多感で繊細なんてより図太い時分だった(辛く死ぬ勇気など、当時も、今もない)。

 その後、運良く今の会社に拾ってもらって、仕事させてもらって、生きている。いつの間にか、希死念慮は浮上しなくなった。息子ができたのも大きい。

 こうして、予想というか希望的憶測よりも長く生きている。

 強く生きるというのは、覚悟だと思う。

 最後、1人きりになっても、思い出だけを胸に孤独に生きていく––––それこそ、本当の強さだと思う(長生きしたいとかそんなんじゃない。だって、それは最後の試練のようにも思えるから)。

 忘れないでいる人が1人でもいれば、
 その人はまだ、1度、亡くなっただけだ。
 存在そのものが、三千世界から
 跡形もなく消え失せるような本当の死……
 2度目の喪失は、自身が思うより、
 もっと、もっと、先だ。

 誰かが、その役割を果たさねばならない。
 イヤだな––––絶対にやりたくないな––––
 って、思う。

 でも、僕が勝手に決めた強さとか優しさは「残る」ことなんだ。死については最後まで残る自信がないけど、それ以外は「残る」って決めてる。

 死でなくとも、「残る」大切さは沢山ある。

 諦めが悪いのは、恥じらいが人より少ない性分だから。僕には、恥より怖いことがある。それが、忘れてしまうこと––––忘れられるのは、(真っ当な人に比べて)恥多き我が身では有難さしかないのだけれど、忘れてしまうのは、僕にとっては、耐え難いことだ。

 覚えておくことは矜持だ。
 僕が生きる意味のひとつ。
 勝手に決めただけだけど––––––––


#なんのはなしですか ?

 そうそう、「終わり」という字の話だった。

 偏は、糸を寄る象形なんだそうだ。
 旁は、糸の両端を結んだ形を表しており、
(冬ではないらしく)そんな2つが合わさった
 糸の結び目が「終」わりを意味しているらしい。

 相撲では「最後」を「終わり」とは言わない。
「結び」の一番––––

 終わりという字の真意もまた「結び」なのだ。
 輪廻や縁というものが詰まっているのだな、きっと。

 月並みだが、終わりは始まり。
 終わりは始まりへと続く結び。

 そんなことばかり調べていたら、
 目的地に着いた。

 結果というのも、結びに得られる果実と書く。
 冷ややかな数字ではなく、本来は、もっと、
 エモーショナルで人間味あふれる多様な存在。

 僕は、何も約束ができないし、
 迷惑ばかりかけ続けるだろう。
 でも、僕は、あなたを忘れない。

 結び目になれるかは分からない。
 でも、僕は、あなたを忘れたりはしない。
 僕のような人間にとって、
 そんなふうに「覚悟」させてくれる人が
 少なからずいることは、有り難いことだ。


【 マ ガ ジ ン 】


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