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短編小説「白と青と星」 1,白と

「白枝、今いいかな?」
 夏休み二日前の昼休み。
 白枝栞しろえだしおりがひとりでサンドイッチを頬張っているところに、クラスメイトの青瀬柚太あおせゆたがやってきた。
 いつも一緒に昼食を食べる友人が夏風邪で休んでいるため、栞はひとりで中庭に来ていた。
 今の時期、木陰がほとんどなく、汗をかかずに過ごすのは不可能な中庭は不人気だ。しかし今日はひとりの栞にとっては、誰かに見られる心配のない好都合の場所だった。
「どうしたの、青瀬?」
 モグモグと口を動かしながら尋ねると、青瀬は栞が座っているベンチの隣のベンチに座った。
 青瀬はニ年連続で栞と同じクラスで、野球部に所属している。そのせいか、生まれつき色素が薄い茶色の髪は短く切りそろえられ、半袖の袖からのぞく肌は日に焼けていた。
「ちょっと聞きたいことがあって。白枝って、グラウンドの裏にある古書店の知り合い?」
「知り合いっていうか、あそこの店主がおじいなんだ。わたしは時々手伝いしてる」
 栞がサンドイッチを飲み込んでから答えると、青瀬は「へえっ! すげえ」と声を弾ませた。そして、引き締まった太ももを包むスラックスのポケットから小さな紙を取り出し、栞に差し出してきた。
「この本、白枝のおじいさんの店にあるかわかる? かなり昔の本だから絶版になってて、ふつうの書店には無いんだ」
 本のタイトルは『星が落ちる前に』、著者はバーナード・カラック。有名なイギリスの詩人だ。
「わたしもこの人、好きだよ。風景と心情をうまく混ぜてるきれいな詩を書くよね」
 そう答えながらも、栞は「意外だな」と思った。
 栞の中で野球部員のイメージは、毎日練習漬けで、授業中は寝てばかり。読書などは興味の外にあるものだと思っていた。
 さらに意外なのは、メモ書きのかわいさだ。青瀬のメモ書きは、なんと老若男女に大人気の「ハジッコぐらし」のメモ帳なのだ。
 栞は口元に手を当てて、笑いそうになるのをこらえた。
「白枝?」
 メモ書きから顔を上げると、吸い込まれそうな茶色い瞳が目の前にあり、栞の心臓がドキッと跳ねた。
「あっ、ごめん、ボンヤリして。えっと、今この場ではわからないけど、たぶんあると思うよ」
「そっか。夏休みに入る前にほしいから、もしあったら取り置きしてもらえるかな?」
「いいよ。でも、野球部っていつも夏休み中ずっと練習してるよね? その時じゃだめなの?」
「夏休みはたぶん、ずっと兵庫にいるから。今日明日がチャンスなんだ」
「兵庫に実家でもあるの?」
「ううん。甲子園があるんだ」

 甲子園。
 その言葉を口にした瞬間、青瀬の目が一番星のようにきらりと光った。

「うちの野球部、初めて甲子園出場が決まったんだよ」
「えっ、そ、そうなの!」
 「甲子園初出場」と言えば、学校を上げてのお祭り騒ぎだ。記憶を呼び起こしてみると、確かに校舎に白い大弾幕がかかり、校長先生や各授業の教師たちがこぞって興奮してた気がした。
「すごいね、おめでとう。……って、こんな頓着ない人に言われても、嬉しくないか」
 栞が「ごめん」と言うと、青瀬はキョトンとした顔で首を傾げた。
「人の興味なんてそれぞれ違うんだから、謝ることないだろ。むしろおめでとうって言わせたみたいでごめん」
 青瀬の言葉に、栞は目をパチパチさせずにはいられなかった。
 初出場という晴れの舞台を知らない失礼な奴だと、もっと嫌な顔をされるものだとビクビクしてしまったのだ。
 栞はメモ書きを持っている方とは反対の手を、顔の前でブンブン振った。
「いやっ、青瀬が謝ることないよ! でも、そんな大事な大会があるなら、本を読む時間なんてあるの?」
「うん。移動時間とか、寝る前にちょっとずつ読もうと思ってる」
「なるほど。それじゃ今日帰りに寄って探してみるね」
「ほんとっ。やった!」
 また青瀬の目がキラッと光る。その表情は無邪気な子どものようだ。
「ありがとう、白枝。頼むな」
「うん。無かったら悪いね」
 青瀬は「全然」と言って、先に教室に戻っていった。
 その後ろ姿を見送ってから、栞は改めて青瀬のメモ書きを見た。
 青色のペンで書かれたきれいな文字。よく見ると、下の方に「よろしくお願いします」と小さな字で書かれている。
「フフッ、律儀だなあ」
 栞はメモ書きを眺めながら、残りのサンドイッチを食べ進めた。


「――おじいー、ただいまー」
 ガラガラと引き戸を開けて声を上げると、深い茶色のレジカウンターの向こう側でダンボール箱を開けていた祖父の肇が、ヒョコッと顔を出した。
「おかえり、栞ちゃん」
 肇はきれいに整えられた口ひげをなでながら、跳ね上げ戸を通って、栞の方にゆっくりと歩いてきた。栞も汗をハンドタオルでぬぐいながら肇に駆け寄り、青瀬のメモ書きを差し出した。
「ねえ、おじい。バーナードの『星が落ちる前に』って本ある? 欲しいってクラスメイトがいるんだ」
「ふむ。バーナードの本は一通り置いておくようにしてるからな。たぶんあると思うよ。あっちの本棚を探してみるか」
「あ、自分で探すから良いよ。新しい古書開けてるところでしょ」
「そうか。それじゃあ頼むよ」
 栞はカウンターの後ろの椅子にカバンを置き、壁の釘にかかっている茶色いエプロンを取った。胸には「白枝古書店」と銀色の糸で書かれている、栞専用のエプロンだ。
「それにしてもうれしいねえ。こんなに古い詩集を、初衣と同い年の子が欲しがるなんて」
 肇は段ボール箱の前に座り込むと、微笑みを浮かべながらメモ書きを眺めた。
「わたしも驚いたよ。自分以外にも読んでる人がいるなんて、考えたこともなかった。しかもそのクラスメイト、野球部なんだよ。本なんて興味ないかと思ってた」
「いやあ、それはそんなに驚かないな。野球に精を出しながら、読書熱心な友人は私もいたからね。常連の藤なんかがそうさ」
 藤とは一か月に二、三回は古書店へやってくる肇の友人だ。今は仕事を引退して、伴侶とのんびり過ごしているそうで、そのお供に古書を大量に買っていってくれるのだ。
「へえ! 藤さんも野球を! 人は見かけによらないなあ」
 栞がエプロンの紐を背中でリボン結にすると、肇は「チッチッチッ」と言いながら、人差し指を振った。
「人は誰しも様々な顔を持っているからね」
「……でもそう言われてみると、青瀬、あ、この本を欲しがってるのが青瀬って言うんだけど。青瀬が野球をやってるところの方が想像できないかも」
 栞は肇に教えられた本棚に向かい、本を探し始めた。
「ほう。どうして?」
「青瀬ってどっちかって言うと、教室だと落ち着いてる方なんだ。他の野球部はみんな元気いっぱいでうるさい人が多いんだけど、青瀬は静かなんだ。もちろんちゃんと友達いるし、楽しそうに話してるけど、休み時間は自分の席で机に突っ伏したり、友達に寄りかかってボーッとしたり、それこそ何かを読んだりしてるんだよね」
 バーナードの詩集がまとまって並んでいる区画を見つけると、栞は背表紙に人差し指を当てて、ゆっくりと右に動かしていく。
「去年も今年も同じクラスなんだけど、遠足とか文化祭とかでも派手な役割をやらないんだ。大声出して盛り上げたりとかもしないし。青瀬が大声出して、ボール投げたり、バット振ってるとことか、全然想像できないかも」
「部活の様子を見たこともないのかい?」
「うん。でも、見たことはなくても青瀬は野球部に入ってるんだから、大声出してボール投げてるって面と、のんびりした面と、詩集をたしなむ面と、他にも知らない面がいろいろあるんだろうね。人は見かけによらないって本当だなあ」
 栞の指が「星が落ちる前に」の背表紙に触れた。
 指を立てて背表紙をつかみ、抜き出す。サラサラした青色の紙に、白色のインクでタイトルが書かれたシンプルな装丁の本だ。表紙が破けたり、紙が日に焼けているようすもなく、状態はかなり良い。
「あったよ、おじい」
「おおっ。よかった、よかった」
 栞は本を胸に抱え、カウンターの跳ね上げ戸を超えて、木製の椅子に座った。
「わたしもこの詩集は読んだことなかったなあ」
「それは青瀬くんに売って、栞の分はまた探してあげるよ。栞のところの野球部は、今年甲子園初出場だろう。お祝いということで、先に読ませてあげなさい」
「えっ! おじいも甲子園のこと知ってるの!」
 栞が椅子から飛び降りて肇の前に座り込むと、肇はあごひげを触りながらうなずいた。
「うちからも立派な横断幕が少し見えるよ。栞、まさか知らなかったのかい?」
 ゆっくりと肇から目をそらして、小さくうなずくと、肇の失笑が聞こえてきた。
「栞はこの古書店を手伝ってくれる優しい面もあるが、自分の興味があること以外にはとことん無頓着だねえ。それもまた栞を形作るひとつの面だ」
「……あんまりよくない一面だよね。相手にショックを受けさせる可能性があるもん。実際、青瀬にも気使わせちゃったし」
「誰にだって良い面も悪い面もあるもんだ。その詩集を渡す時に、おめでとうと言えば良いじゃないか」
「……そうかな」
「そうさ」
 肇はズボンで手のホコリを払って、栞の頭をそっとなでた。

 白枝古書店の紙袋に本を入れ封をすると、栞はエプロンを付けたまま、店の外に出た。
 セミの大合唱とムワッとした熱気が襲い掛かってくる。しかし、夕方の風は少しだけ微かな冷たさを帯びている。風が吹くと、いくらか過ごしやすく感じられた。
 栞はその風を浴びながら、真後ろに見えるネット越しのグラウンドの方を見た。
 耳を澄ませると、野球部の他にもサッカー部、陸上部など、様々な運動部の声や音がかなりはっきりと聞こえてくる。
 校舎にかかった横断幕も見えると、これまで自分がどれだけスポーツに関心を持っていなかったのかがよくわかった。
「あ、そうだ。今いたら渡せないかな」
 栞は雑草が生い茂る店の横道を通り抜けて、ネットの前まで進んでいった。この辺りはグラウンドにも少し雑草が生えているせいか虫が多く、洋服から出ている肌のあちこちがかゆいような気がした。
 腕を手でこすりながら目を凝らす。しかし、みんな同じユニフォームに野球帽をかぶっているせいで、誰が誰なのかまったく見分けがつかない。
「……まあ、明日渡せば良いか」
 五時の鐘が鳴ると、栞は店の中に戻った。


青春短編小説「白と青と星」です。
古書店の孫娘と、高校球児の恋のお話です。
甲子園が始まった今日に投稿しようと決めていました。
楽しんでいただけますように。

今日は1章を更新しました。続きはまた後日に。

高校球児の皆さん、暑さに気を付けて、かけがえのない夏を過ごしてください!

続きになります。(8月21日更新)


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