見出し画像

短編小説「白と青と星」 2,青と

「青瀬、おはよう」
 朝の練習を終えた野球部員たちが教室に入ってくると、栞は真っ先に青瀬に向かっていった。まだ少し汗をかいている青瀬は、茶色い髪袋を見ると、首にかけたタオルで汗をぬぐいながら「えっ」と目を輝かせた。
「ひょっとして、昨日聞いた本?」
「そうそう。おじいが早く渡してあげてっていうから、持ってきたんだ。お代はある時で良いよ」
「ちょ、ちょっと待ってっ。今、たぶんある」
 青瀬は大きなスポーツバッグを床にドサッと下ろし、大きなチャックを開けて中をあさり始めた。
「今じゃなくても良いよ」
「いや、昼休みとか放課後に渡せないと困るから」
 「あった!」と青瀬にしては大きな声を上げて財布を取り出す。鮮やかな青色の財布だ。
「いくらだった?」
「千円かな。状態が良いからちょっと高いって」
「全然いいよ。それじゃあこれ」
 財布の中で一番きれいな千円札を渡されると、栞はそれをポケットに入れて、青瀬には紙袋を渡した。
「本当にありがとう、白枝。これでもっとがんばれそう」
 青瀬は日に焼けた肌に映える白い歯を見せて、にっこりと笑った。きれいな笑顔に、また栞の心臓がドキッとはねる。栞は半そでのシャツの袖を触りながら、「それならよかった」と答えた。
「……あと、昨日、失礼なこと言ってごめんね。改めて、甲子園出場、おめでとう」
「まだ気にしてたんだ、いいのに」
 突然廊下が騒がしくなった。教師たちが階段を上ってきて、生徒たちが大急ぎで教室に戻っているようだ。
 栞と青瀬の周りの生徒も席に戻り始めると、ふたりも自分の席の方に体を向けた。
「でも、わたしのおじいでも知ってたんだよ、甲子園行くって」
「俺はもう全然気にしてなかったけど……」
 ガラッとドアが開いて、担任の教師が入ってくる。栞と青瀬も目を合わせたままゆっくりと歩き出す。
「出るって知ってくれた白枝が、甲子園見て、応援してくれたらうれしい」
 青瀬の言葉は、担任の「ホームルーム始めるぞー。席つけー」という不愛想な声と重なった。それでも微かに聞き取ることができた。栞が走り出しながら「わかった!」と答えると、青瀬はまた歯を見せて笑ってうなずいた。

 青瀬の言う通り、その日の昼休みと放課後、栞と青瀬が顔を合わせる時間は一切なく、そのまま夏休みが始まった。
 最初の一日か二日は、古書店にいると野球部が練習している声や音が聞こえてきた。しかしやがてその音はピタリと止んだ。

「ーー兵庫に出発したんだろうね」
 入口の引き戸に寄り掛かっていた栞は、ビクッと肩を震わせて肇の方を見た。肇は優しい笑顔を浮かべている。
「こんなに静かな夏は初めてだから、私も少し物足りないよ」
 肇はゆっくりと立ち上がり、カウンターの向こう側にある小さなテレビを主電源で付けた。
「だから、明日からは甲子園を見ようかと思ってる。野球の音、聞き放題だ。栞もどうだい?」
「……見ようかな。青瀬にも、見てくれたらって言われたんだ」
 肇は満足げな笑顔でうなずいた。



「――あ、栞の高校じゃないか!」
「ほんとだ!」
 甲子園開会式当日。栞と肇は古書店の小さなテレビを囲っていた。
 学校旗を持つ主将の後ろをレギュラー選手たちが行進していく。その中の後方に、青瀬の姿があった。栞は椅子から立ち上がり、テレビの端に映り込む青瀬を指さした。
「これが青瀬だよ、おじい」
「へえ、レギュラーなのか! すごいねえ」
「レギュラーってやっぱりすごいことなの?」
「二年生でレギュラーになれる人ばかりではないからね。三年練習してきた先輩よりも実力がなきゃいけないだろう」
 青瀬は形の良い唇をキュッと結び、いつもとろんとしている目をキリリと吊り上げ、真っすぐに前を見据えて歩いている。教室にいる青瀬からは想像もできないほど真剣な表情だ。
「……本当に、真剣にやってるから、レギュラーになれるし、こんな顔になるんだね」
 カメラワークが切り替わり、次の学校が行進してくる。身を乗り出していた肇は、フーッと息を吐きながら背もたれに寄りかかった。
「確か一回戦は明日の第二試合だったね。今日は他の学校の試合を見て、ルールを覚えよう。私が教えるよ」
「ありがとう、おじい。お願いします!」

 試合が始まると、栞は、水筒に入れて持ってきた麦茶を飲むのを忘れるほど圧倒された。小さなテレビの中で繰り広げられる高校球児たちの戦いに。
 肇の解説により、それぞれの攻撃と守備はアウトが三つになると交代すること、その交代を九回繰り返すのが試合の基本だということはわかった。
 ピッチャーの投げる球の球種や、各ポジションの名前と役割、なぜ今のプレーがアウトなのか、なぜ今キャッチャーが二塁に送球したか、など、細かいことはすぐに覚えられなかった。
 それでも引き込まれずにはいられなかった。
 真夏の太陽がジリジリと痛いほど照り付ける中、ボールを投げ、打ち、追いかけ、つかむ、という行為一つ一つを全力で取り組む姿は、まるで物語のワンシーンのようだった。

「ーー七点差で九回表のツーアウトか。かわいそうだが、今の攻撃の方が負けるだろうな」
 肇はため息交じりにそう言うと、奥にある冷凍庫の方へ歩いて行き、スティックアイスを二本持って戻って来た。
「あとアウト一つで終わるから?」
 アイスの一つを栞に渡すと、肇はのっそりと椅子に座り直した。
「その通り。何より守備側のピッチャーの球種が多すぎて、ボールを選ぶのが難しいと思う」
 栞には少し難しい解説だが、もうすぐこの試合が終わってしまうことはわかった。
 攻撃をしている学校のベンチが映る。顔を赤くして涙をこらえている選手もいるが、喉がちぎれそうなほど声を出している選手もいる。その顔はまだ諦めているようには見えない。
 栞は両手を握り締め、「がんばれ」とつぶやいた。
 その時、カキンッと小気味よい金属音が鳴った。
 テレビの中に青い空と一滴の絵の具のような白球が映る。そのボールはグングン空を飛んでいき、観客席に落ちた。
 次の瞬間、小さなテレビの中から割れんばかりの歓声が起こった。肇も「よくやった!」と叫ぶ。
「えっ、な、なに、今の?」
「ホームランだ! 一点入るぞ!」
「えっ! すごい!」
 栞と肇は手を取り合い、その場で飛び跳ねて喜んだ。
「いやあ、この場面でホームランとは! 気持ち良いだろうなあ」
「見てるこっちも驚いたね! すごいな、もう終わっちゃうって時なのに」
「諦められないんだろうな、甲子園の舞台に立ち続けるってことを」

 その後、攻撃側の打線が突如火を噴いたが、三対七という結果に終わった。
 敗けた学校には泣いている選手もいたが、清々しい表情を浮かべる選手もいた。西日に照らされながら、互いに手を貸し合って、グラウンドを去って行く。
 ようやくルールを理解して観戦することができた栞も、この試合には泣かずにはいられなかった。
「……はあ、お疲れ様だね」
 カウンターの上のティッシュに手を伸ばして、涙で濡れた目元と鼻をぬぐった。
「粘りの野球を見せてもらって、こっちも元気になったね。感謝だ、感謝だ」
 肇もティッシュを三枚つかみ、ブーンッと鼻をかんだ。
「さて、栞。青瀬くんの試合を見る前に、ルールは覚えられたかな?」
「うん。とりあえずはわかるようになったと思う。ありがとね、おじい」
 肇はうれしそうに微笑みながら手を振った。
「栞と一緒に甲子園を見られる日が来るなんて思わなかったから、私の方こそありがとうだ。明日も楽しみだねえ」
「いよいよ青瀬の試合だもんね。心して観ないとっ。第二試合って、今日はお昼ごろからだったね」
「野球は毎回同じ時間に終わるわけじゃないからなあ。栞さえ大丈夫なら、第一試合から見た方が良いかもね。その方が第一試合が終わった時に、ベンチに入ってくる様子も見られるよ」
「そうなんだ! それなら、また朝から来るよ!」
 そう言ってから、栞はハッとしてカウンターの上に置いてあるカレンダーを手に取った。白枝古書店の定休日は水曜日と木曜日。しかし明日は月曜日だ。
「今日はお客さん来なかったから良かったけど、さすがに二日連続は迷惑じゃない?」
「うーん、確かに邪魔が入るのは嫌だねえ」
「いやいや、お客さんを邪魔呼ばわりはダメだよ、おじいっ」
 肇は口ひげを三回触ると、ニヤリと笑った。
 そして、引き出しから白い紙とセロハンテープを取り出し、筆ペンでサラサラと何かを書いた。
 肇は「本日臨時休業」と達筆な字で書かれた紙を天井高く掲げた。
「明日は臨時休業にしようっ」
「えー! いいの?」
「よく考えてみたら、この町の人はみんな明日の試合を見るだろうから、開けていてもお客は来ないだろうよ」
「……言われてみればそうだね」
 栞もニヤリと笑うと、肇は満足げにうなずいた。



 その日、栞はすぐに眠れなかった。
 今日見た様々な場面が頭の中に浮かんでくると、その時の興奮も一緒に湧き上がってきて、とても眠れなかったのだ。
「……っダメだ! 一回体を冷まさないとっ!」
 一階のキッチンでコップの水を一杯飲み、ノロノロと階段を上って部屋に戻った。その間にも、頭の中に今日の映像が流れてくる。
 栞は頭をブンブン振って、ベッドに入ろうとした。
 その時、勉強机の上に置いてある青瀬のメモ書きが目に入った。タオルケットをつかんだ手を下ろして、メモ書きを手に取る。
 ハジッコぐらしのキャラクターは、よく見ると野球のボールを持っている。しかも青瀬と同じ左手だ。
「ふふっ、これはサウスポーって言うんだよね」
 栞はメモ書きを持ったまま、ベッドに寝転がった。
「青瀬も、今日見た選手たちみたいに、泥んこになって走るんだよね。うーん、やっぱり想像できないけど……」
 このキャラクターのように、のんびりした顔でボールを持っているところなら想像できる。
 栞はサウスポーのキャラクターを指でなぞった。
「……でも、やってるんだもんね、野球。がんばれ、青瀬」

 次の日、肇は第一試合の前に、スイカを持って訪ねてきた。絵に描いたような三角形のスイカを皿に並べ、栞と肇もソファに並んで座った。
 両親は今日も仕事で家を開けている。つまり誰にも邪魔されないということだ。
「おじいの言う通り、今日は大本命だから、店で見なくてよかったね」
「ああ。青瀬くんの有志を見届けようじゃないか」
 スイカを食べ進めているうちに、第一試合はあっという間に終わってしまった。甲子園出場常連校の圧勝、十一対零だった。
 栞も肇も、ポカンと口を開けて見ていることしかできなかった。
「……強かったねえ」
「……これが甲子園の実力ってことか」
 もしこの学校と青瀬たちが戦ったら、どうなっていたんだろう。
 栞は少し早く動き出した心臓の辺りにそっと手を当てた。
「あ、青瀬くんたちが来たんじゃないか?」
 肇の声でテレビに目を戻すと、確かに栞の学校の名前が書かれたユニフォームの選手たちがベンチに入ってきているところだった。大きなスポーツバッグを背負った顔は、真剣そのものだ。
 その中にはもちろん青瀬もいる。
 帽子のツバの形の影が、顔の上半分を隠している。その影の中で、茶色い瞳がギラギラと光っているのがわかった。
「青瀬、あんまり緊張してなさそう」
「ほう。肝が据わっているね」
「わかんないけどね。緊張で強張ってるだけかも」
 栞は肩をくすめて笑ったが、試合が始まると、その考えは当たっていたことがわかった。
 青瀬は背番号五番をつけ、サードを守っていた。打順は七番。唯一の二年生だ。しかし二年生だということを忘れるくらいに、青瀬は堂々としていた。
 守備位置が良く、レフト方向へ抜けそうな鋭い打球も取りこぼさずにしっかりとキャッチし、ファーストへの送球も狂いがない。
 打席でも的確にバントを使って、仲間を進塁させる。
 肇は感心して何度も「すごいなあ」と手を叩いた。
「青瀬くんが二年生でレギュラーなのは納得だ」
「青瀬うまい?」
「ああ。とても良い選手だね」
 その時、またテレビの中から空気を割るような歓声が聞こえてきた。
 実況の男性が『本日最初のランニングホームラン! 打ったのはキャプテン星野!』と興奮した声を上げた。
「おおっ、現主将もやるなあ! 初出場でも全国の実力に食らいついているし、良いチームだねえ」
「この調子でがんばれー!」

 九回は相手の裏の攻撃が無く、試合は終わった。
 三対一で、青瀬たちの勝利だ。
 校歌が流れると、栞もソファから立ち上がって一緒に歌い、肇は手拍子をした。
 青瀬の顔が映る。口元には笑顔が浮かんでいた。
 その表情を見ると、栞も自然と顔がほころんだ。
 校歌が終わると、選手たちはスタンド席に向かって勢いよく走りだした。一列に並んで、チームメイトと応援団たちに一例をする。そして、顔を上げると、その顔には弾ける笑顔が浮かんでいた。
 「甲子園に行く」と言った時の青瀬と同じ顔だ。
 届くはずがないとわかっていても、戦い抜いた選手たちに拍手を送らずにはいられなかった。
「中盤以降、点が取れなかったが、うまく守り切ったね。相手の得点にも動揺しなかったし、しっかりしたチームプレーを見たよ」
 肇は額ににじんだ汗をティッシュでぬぐい、ソファに背中を預けた。
 栞もふーっと息を吐きながらソファに座った。
 エアコンの冷たい風が、興奮して暑くなった体を冷やしていく。
 青瀬は暑い中運動をしていると思うと申し訳ない気持ちにもなったが、今はこの熱を冷まさなければどうにかなりそうだった。
「次も勝てるかな、このチームなら」
「さてね。高校野球は何があるかわからないから。ただ、勝っても敗けても良い試合が見られそうなチームだとは思うよ」
 「夏は始まったばかりだからね」と言って、肇は残っていたスイカに手を伸ばした。
 栞もスイカを手に取ると、体と同じように温くなっていた。




「白と青と星」1,白と の続きになります。

今年の甲子園もいよいよ決勝戦の二校が決定しましたね。
なんだかあっという間だった気がします。
高校球児の皆さんが最後まで全力で野球ができますように!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?