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過疎の町からこんにちは #01 〜コロナ禍でドサクサ移住。そして成り行きでの起業。どうしてこうなった〜

筆者は東京生まれ横浜育ちの40歳女性である。
2022年の秋頃まで東京の杉並区に住んでいたが、コロナ禍のリモートワークをきっかけに夫の故郷であるF県K町へと移住してきた。
移住の目的は子育てだ。東京の家は狭くて古くて家賃が高いので、とても子育てできるような環境ではなかった。

当時住んでいた阿佐ヶ谷のアパートは、築50年を超えており、設備は古く、建物全体も相当傷んでいた。
下階では雨漏りしていたし、室内では内部結露によるカビや、浴室の壁の剥離といった症状に悩まされていた。
しまいにはリビングと寝室の2部屋にわたって、床が大きく陥没してしまった。さすがに乳児と暮らすには、限界を感じた。
1階には高齢の大家さん夫妻が住んでいたが、あろうことか我々が退去を申し出るより先に彼らの方が退去してしまった。
後に残された住民たち(ほとんどが高齢者だった)は茫然としていた。
我々は、そんなギリギリの住宅から引っ越してきたのである。

引っ越し先のK町は過疎地域ではあったが、
運の良いことに最新設備を備えた新築の町営住宅があった。
コロナ禍でリモートワークや地方移住への関心が高まる中、
町が子育て世代の移住を見込んで建設したものらしい。
子ども一人につき、家賃が1万円安くなるという。
ちょうどいいので入居を申し込んだところ、
まんまと最後の1室に滑り込むことができた。

かくして、東京の限界アパートから過疎地の新築住宅へ。
家賃はおよそ半分になり、住環境は何十倍も良くなった。

仕事はしていたが、辞めてきた。
好きで働いていた会社だったが、慣れない子育てとの両立が難しかった。
私が出産・育児で休業している間に、オフィスが移転してしまったのも大きい。
元は家から徒歩圏内だったのに、復帰後からは電車通勤になった。
満員電車に揺られ、会社に到着したわずか10分後には保育園からお迎え要請が来ることもあった。
当時コロナ禍の影響で24時間ルールというのがあり、子どもが発熱した場合、解熱後も24時間は保育園に預けられなかったので、お迎え要請=早退+翌日欠勤が常に確定していた。毎日が苦悩と落胆の連続だった。
やむを得ず会社のPCを持ち帰ってのリモートワークが許可されたが、ヨチヨチ歩きの乳児を傍に置いての仕事など当然捗るわけもなく、結局作業は深夜や明け方にまで及んだ。
そういうめちゃくちゃな日々を送る中、住環境の悪化も重なり、私は早くも根を上げてしまった。
そうして地方へ逃亡すべく、復帰からわずか半年で職場を去ることになったのである。

正直、未練がなかったかというとそうではない。
仕事に不満はなかったし、働き方も非正規なのが性に合っていた。
人と対峙するのが苦手な私にとって、非接客業(デザインアシスタント)のバイトは貴重だった。
上司は同じく子育て中の女性だったので、私が午前で早退しても嫌な顔ひとつしなかったし、夜中にリモート接続しても目をつぶってくれた。
今思えば、私は相当恵まれた環境で働けていたのだった。

一方夫はというと、IT系の個人事業主として在宅で働いていた。
元々はオフィスに常駐していたのだが、コロナ禍でフルリモートになり、やがてオフィスも縮小したため、私物を完全に撤収したという経緯があった。
このまましばらく出社を命じられることはないだろうと踏み、
夫は無断で故郷への移住を決め込んだ。
ドサクサにまぎれて、しれっと東京脱出したのである。
常駐先には事後報告となったが、幸いお咎めはなかったようだ。
一度だけ新幹線で出社する機会はあったものの、その後は今まで通りリモートワークを続けられている。

既に世の中はポストコロナの雰囲気になり、徐々に出社回帰の兆しが見え始めていた。このまま東京に居続けたら、もう逃げられなくなるというタイミングだった。



そんなドタバタ移住があってからの約2年後。
私たちは法務局の窓口を訪れていた。
何をしに行ったのか?
起業である。
えぇっ。どうした。一体何があったのか。
いや私にもよくわからん。
別にそんな野心など、微塵もなかった。
ただ単に必要に迫られた結果、そうなってしまったのだ。

子どもを連れて逃げるように東京を飛び出し、過疎の町へ移住して半年。
私は車で30分ほど離れた場所にある広告会社に就職したが、スキルのレベルが追いつかず、上司や周りの人に日々迷惑をかけていた。
その会社ではパートという働き方の選択肢はなく、私はあえて時短を選択してしまったので、他の人より時間の制約が厳しく、かつ給与も少なかった。
加えて無給の早出残業による社内の清掃(前職ではビルメンテの人がやっていた)や定期的な飲み会、そこで課せられる新人の余興芸など、体育会系の文化が自分には全く合わなかった。それですぐに心を病んでしまったのである。
結局数ヶ月で退職してヤケクソでフリーランスになったのだが、今まで非正規だったので当然取引先もなく、実質的には開店休業状態だった。
一応デザイナーを自称しつつも、何者でもない自分にずっとストレスを抱えていた。

そんな中、気づけば会社を立ち上げようとしているのだから自分でもわけがわからなかった。
必要書類は夫がChatGPTを駆使して秒で作成してくれた。
私はほとんど何もしていない。
ただ夫が私の代わりに会社を作ってくれるというので、会社名を決めてハンコを注文しただけだ。

会社といっても社員は私と夫の二人だけで、代表社員は夫である。
一体、何をする会社なのか?
定款には、ありったけの可能性を加味して複数の事業目的を盛り込んだ。
その一つがやはりデザインである。
私がお金を稼げる手段は、結局dそれしかないからだ。
一応美大のデザイン科卒という学歴だけはあったので、
それが唯一の頼みの綱だった。

そんなわけで、私はこの過疎の町でなぜか夫と共にデザイン会社(???)を立ち上げることになってしまったのである。

直接のきっかけは町で募集しているロゴデザインのコンペだった。
私たちが住むK町では現在、町のブランディングを目的としたCI(コーポレート・アイデンティティ)策定検討委員会というものが行われている。
この委員会は、ちょうど私たちが移住してきた2022年の終わり頃からの動きであった。
当時私は町のことを知るため、ありとあらゆる所から情報を漁っていたのだが、たまたま町のHPで見つけたのがこの委員会だった。

ちなみにCIというのは、企業や組織のあり方を決めるもので、一般的にMI(マインド・アイデンティティ=理念)、BI(ビヘイビア・アイデンティティ=行動指針)、VI(ヴィジュアル・アイデンティティ=ロゴマークなどの視覚表現)の3つから成る。
早い話が「この町はこういう町である」というブランドイメージを確立し、町内外へ発信するためのものなのだ。
それを策定するということはすなわち、町のあり方そのものをデザインするプロジェクトといっても過言ではない。

私は一応デザイン界隈の人間として、いち早くこの事業に着目した。
するとラッキーなことに、委員会は誰でも傍聴可能だという。
というわけで私は、移住直後の何もわからないうちからこのCI策定検討委員会の様子を、傍聴席から見守ってきたのである。
それは、この町のまちづくりの根幹に関わる超重要プロジェクトであるように思われた。

とはいえ、フタを開けてみればそんなわけのわからない委員会に飛び込んでくる一般の町民など、私ぐらいのものだった。
それもそのはずである。
委員会は平日昼間の開催だし、そもそも高齢化の進むこの過疎の町で、耳慣れないカタカナ用語が飛び交う謎の会議になんて誰も興味を示す者はいない。それがどういう意味を持つのかも、恐らく誰も認識していない。

ともかくそういうマニアックな委員会が約2年にわたって行われてきた結果、色々と紆余曲折を経て(この紆余曲折については話すと長くなるのでまた機会を改めたい)このたびVIとしてのロゴデザインが広く公募されることになったのである。

それが私の起業と何の関係があるのか?
要は、ずっと傍聴席から見守ってきたこのCI策定事業におけるロゴコンペに、私はデザイナーとして参加したいのである。
しかし、参加資格は法人にしか認められていない。
もし採用が決まれば町との間で業務委託契約を結ぶことになるのだが、個人やフリーランスは不可だという。
一応、個人であっても企業との連名による「企業共同体」という形であれば応募は可能となっているのだが、移住して間もない弱小フリーランスである私には、共同体を組んでもらえる企業のツテなどなかった。
となると、もはや自分で会社を立ち上げるしかなかったのである。

「そんなのハードルが高すぎる」と嘆いていたら、夫が突然私の代わりに動き出した。
コンペへの参加申込締切は、早くも月末へと迫っていた。
登記にかかる時間を考えても、ギリギリのタイミングでの決断だった。

つづく

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