花屋になっちゃう

花が欲しい、と思った。

目を開く。日が開け切る前、曇り空。枕元のスマートホンは7時台を指している。

部屋の中はまだ灰色だった。この様子では、今日は一日空が晴れることはないだろう。

昨晩、学生時代の友人と電話をした。遠方に住む彼女とはなかなか会えないから、せめて電話でも、ということになった。人生の進路を聞き、日常を報告しあい、頭の中を話す。

元来朝型だったのに、ここ最近のわたしはすっかり夜更かしで、だけど彼女と話をしていたら0時前なのにゆっくりと眠くなった。そしてそれは彼女も同じだったよう。「わたしたち、よく喋ったね」通話の終了ボタンを押すと、2時間17分40秒。時刻は23時23分だった。

通話を切ったわたしにはいろいろなタスクがあった。風呂の追い焚きをつけて、皿洗いをしたら、湯船に浸かって体を清め、ストレッチをして本を読む。1時間半くらいかかる。

気づくとわたしは部屋の電気を消して、ベッドに吸い込まれていた。たどり着いたのは皿洗いまで。化粧すら落とさなかった。最近肌荒れが多いんだけど。

そんなふうに寝てしまったから、今朝はやることが山積みの目覚めだった。あごのニキビが怖いし、食後動かずに寝てしまったからなんとなくお腹も重たい。だけど、心地が良かった。起きる時間までまだ余裕があるけれどベッドを抜け出し、もう一度追い焚きのボタンを押して、白湯を沸かす。筑前煮の残りがあるし、納豆の賞味期限も近いけれど、朝食はトーストが食べたいと思った。目玉焼きとフレッシュトマトも添えたい。キッチンの隅に追いやられたバナナが目に入る。そうだ、りんごとバナナのジュースもいいかもしれない。牛乳ではなく、ヨーグルトを入れようか。流しにもたれ、じっと考える。

昨日の電話の彼女と、もう一人の友人に本を送る約束をしていた。いま、と思い、朝食の支度は後に回してマグカップと共に机につく。引き出しをあさると、ちょっとダサいメモ用紙があった。どうしてわたしがこの本を薦めるのか、なんとなくの気持ちを綴り、本の帯に挟む。会社から盗んでおいた料金後納封筒にそれぞれの宛名を書き、間違えないように気をつけて封をした。家に頑丈なテープはなく、スティックノリをぐりぐりとしたのちに心ばかりのマスキングテープで補強した。無事に、届いてくれるか。

そのまま風呂に入ればいいものを、こうしてパソコンを開き久しぶりに文章を綴ったのは、これがいろいろと見えてくる朝だったからだ。

かの友人は、本や映画の薦め方に心動かされる、と言ってくれた。内容に反省があれど企画を形にしたことがえらい、と言ってくれた。どちらもとてもうれしかった。そういえば以前にも、わたしが本当に認めてもらいたいことを彼女は的確についてくれた。そのとき、少し涙が出た。わたしも全力で、彼女に言葉をかけた。好きなものを見つけ愛し続け、単身で日本中を飛び回り、足を踏み入れたことのない世界に進みゆく。どれもわたしにはできないことだった。だからそれを素直に言葉にして届けた。

感じたことを、恥や嫉妬や恐れを抱かずに相手に伝えることは、大事だと思う。彼女からの言葉はわたし自身が気づいていなかったいろいろな疲れや悩みをじわりと溶かしてくれた。誘われた7時間の眠りの間に、それらの片付けも終わったようで、だからわたしはこうしてすっきりとした心持ちで朝を迎えている。最近のわたしはひとりの時間が足りていなかったようだし、誰かに受け入れられたい気持ちがあったようだ。気づかなかった。

言葉の形で花をもらった。わたしも全力で花を贈った。それをするのは得意だ。わたしたちは互いにその力の豊かなひとであると思う。だけど普段、周りに努めてあたたかい言葉をかける奥には、自分たち自身がそうされたいという私利私欲もきっと紛れている。たくさんの花を贈る人は、花を贈られるのが好きなひとなのだ。華やかな胡蝶蘭を贈る人もいれば、丁寧に一本一本選んだブーケを贈る人も、シンプルで存在感のある一輪挿しを贈る人もいる。人に与えているものがその人の欲しいもの、という反射はなんだか可愛らしい。

言葉の形で花を貰い、ほんとの花もほしいな、と思った。小さなブーケで、今日も頑張ったね、と。だけどそんなものをくれるひとはいないし、じゃあ自分で自分に買えばいいのかというとそれもなにか違う。人にもらうから、意味を持つものだってこの世にはある。結局は花に恋焦がれながら、人に花を贈り続けることが大事なのだろう。

そんなことを思って振り返ったら、ちゃぶ台に色とりどりの花が咲いていた。

そういえば、母親が数日前に持ってきてくれたんだっけ。

なんだ。あるじゃん、花。笑ってしまった。次に家に帰るときは、母親に花を買って帰ろう、と思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?