大人になっちゃう

三連休あけの朝だ。

休みをさんざんっぱらに楽しみ尽くして、足のかかとはひどく靴擦れ、胃が体の真ん中でどしりともたれこんでいる。母がくれたチョコレートケーキを冷蔵庫にしまい込んで、実家から持ち帰った冬服をクローゼットにどうにか押し込める。ぱたりとベッドに寝転び身を滑らせると、やがて左肩が白い壁の凹凸に触れた。

顔を上げると、四角い枠に縁どられた青空が見える。わたしの部屋は大きな窓が自慢で(自慢と言っても別に誰に言うでもないし夏は朝日が容赦なく差し込んで冬は寒さにがちがち歯を鳴らすのだけど)、そこから見える空はすっきりと澄んでいる。8月の力強い朝縹色ではなくて、水色の絵の具にふわりと白を混ぜ込んだような、くすんだ勿忘草の色合い。ここ一週間ほど、列島は記録的な寒さに凍えていて、今日は久しぶりの晴れ空だった。一年でいちばん好きな、どこか寂しげな風に、窓辺に吊るした透明の風鈴がゆるゆると身を委ねている。

好きな音楽をかけると、風鈴が揺れ、りんと鳴った。洗濯機がぴいぴいとわたしを呼んでいるが、無視してまだ、空を見ている。

心地がいい。この時間は、なんだろう。

実は最近、歳をとるのがこわかった。心が進んでいかないのに、環境と経験だけはどんどん先を行く。23歳から、いや遡れば12歳あたりから、ほとんど精神的に成長していない自負のあるわたしにとって、それはとても不安なことだった。大人になるとはなんだろう。なにをできるようになるべきなのか、なにを諦めなくてはいけないのか。大人になることと、寂しさへの耐性を身につけることとはどう、違うのだろう。

そんなもの思いでぱんぱんになっていた頭のうしろ側を、ぐりぐりと枕に押し付け、息を吐く。麻のベッドシーツから、空を見て、風を感じ、空を見る。首を動かすと、たんぽぽ色の照明、薄紅のキャップ、上を向くガジュマル、積み重なった本が、順に目に入る。

ふと、広い、と思った。

目に映るどれもこれも、いまのわたしでないと好きになれないものばかり。10代の頃の自分が愛せなかったものが、いま、目の前でこんなにも大切に思えて、心を満たしてくれる。手に取れなかったあれこれを愛でる心が育っている。そのことを実感する。

ものだけじゃない。わたしは昔から人が好きだった。でもただ、好きだっただけ。いまはどうして好きなのかまで、よくわかる。あの頃と同じように周囲のひとたちを想い、だけど、あの頃と違って、周囲の人たちを尊敬し感謝している。価値を感じる。押し潰されそうなくらいに豊かなひとたちが、わたしの周りに雁首揃えて、にこにこにこにこ、笑っている。ひとりでいることにも、だからこそ意味を見出せたりする。

かちり、と心のファインダーがはまる音がした。

子どもの頃に信じていた未来を、いまわたしが生きているのかはわからない。たぶん、生きていないだろうと思う。「強くなりたい」と繰り返し唱えていた子どもは、思った以上に非力に育ってしまった。だからわたしはずっと怖い。想像していなかった道の、その先を知らないから。大丈夫? ここ、踏んでもいい? そうやって一歩一歩進んだ先に、いったいどんな光景が広がるのだろう。その予測が立たない、そのことをようやくわかり始めた。

でもこうしてごろごろとベッドに寝転び、ああ、世界は広いな、と思える。いろんな道や景色がある。いまのわたしには、そのことがなによりも心強い。

大人になることは、広がること、なのかもしれない。それならあんまり、いやじゃない。

これから仕事に行く。作家の赤を戻し、わたし自身の原稿にも手を加え、周囲の様子に気を配り、来月号の催促もする。その前に洗濯物を干さなければならないし、異臭を放っているゴミ箱の中身も処分しなくてはいけない。なにが原因かは知らないが、ものすごく臭い。

とはいえ、いまのところ人生の風向きは悪くない。

28歳の誕生日の朝、そう感じるのは、なによりも幸せなことだ。

そう思わせてくれるあらゆるひとに、感謝できる。大人になって、よかった。

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