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デザインは自己表現か。人と組織と社会から考える

デザインは自己表現ではない、という指摘があります。

デザイナーは依頼された仕事を自分の作品のように扱う、という批難もあります。

私は一部に賛同しつつも、自己表現や作品という言葉が抽象的であるがゆえに誤解を生みやすく、危険をはらんだものだとも考えています。

( ※ 本記事で表記する「デザイナー」はビジュアルデザインなどの造形分野のデザイナーだけでなく、UXデザインやサービスデザインなど広い分野のデザイナーも含めたものとしています。)


デザインは自己表現ではないと過剰に意識づけられて個の発露が萎縮した風景が広がる。自分の意思を表明する場面において、もしくは、大胆に仮説を提示する場面において、ファクトベースの演繹的な思考に強く固執してしまい、創造性に欠けた予定調和に着地してしまう。考えを飛躍させることに臆病になってしまう。

デザインは自己表現ではない、という言説を正しく言い換えるならば、独善的で利己的な自己表現は避けるべきである、ということにつきます。

反対に、利他的な自己表現、他者に問いを投げかける自己表現、周囲の視点を転換する自己表現。こういったものは積極的にすべきです。というか、デザイナーならば、しなればならないものです。

デザイナーは自らの仮説や展望や解決策を主張する。時に根拠がなくても表現する。それにより周囲の自己表現の沸点を下げ、全員が自分の心に引っかかる美意識や倫理観や、それを内包する解決策の仮説や、自分の論理をぶつけ合うようになる。自分の表現をゴリ押しするのではなく、自己発露の最前線としてみんなを誘導する。

デザインはそのまま自己表現であるとは言えませんが、自己表現はデザインの一部として重要な位置を占める。そう考えています。

私は、デザインの領域に関わらず、全てのビジネスパーソンは仕事において自己表現すべきである、とさえ考えています。仕事に自己を投影することでその当事者が生まれ強まる。当事者性は創造力の入口でもあります。創意工夫の起点でもあります。すべてのビジネスパーソンが自分たちの仕事を「作品」として誇る世界も、必要なものかもしれません。

「デザインは自己表現ではない」が機能した文脈

デザインは自己表現ではないという言説は、私がプロのデザイナーになった20年前から、すでに強く主張されていたことです。まずここでは、その背景要因を探ることで、自己主張なるものがデザインの世界でどんな文脈性を持って捉えられていたのか、掘り出してみたいと思います。

デザイナーの自己主張が敬遠された要因の一つは、デザイナーのビジネス理解の乏しさから起こったもの。特に、経験の少ないデザイナーに向けられたものでした。

デザイナーは、ビジネス上の成果や目的を理解し、自分なりの考えでそれを咀嚼し、自らの感性を持って構想していくものです。その際に、ビジネス理解が乏しいデザイナーは、ビジネス成果に対する情報収集や分析を経ずに、いきなり成果物に着手してしまう。感性主導でカタチにしようとする。成果物に対して、デザイナーの主観の割合が多く、結果的に悪い意味での自己主張と片付けられてしまいます。

そんなデザイナーが成果物をつくり、依頼者や協働者からレビューを受けたとします。主観の配分が多い成果物に対して、否定的な指摘を受けた時に、一部のデザイナーは自分の人格を否定されたかのように錯覚してしまうことがあります。自分を傷つけられたように感じてしまいます。なぜなら、その成果物は、自分の美意識の結晶であり、人格を投影したものと見ているからです。

そうなると、より高い成果を目指すための他者との議論に、感情が乗りすぎてしまう。熱くなってしまう。対話の目的がずれてきます。依頼者や協働者から見たら、合理的な意見交換ができない厄介な存在と感じます。そのため、自己主張が無理な強弁のように印象づけられてしまいます

当時のデザイナーは、美大芸大や専門学校などの造形教育を受けた者がほとんどでした。もしくは専門の教育を経ず造形分野でのアシスタントから入っていく者も多かったです。そして、今のように、デザイナーのビジネス理解はほとんど論点化されていませんでした。デザイナーはカタチをつくる専門職であると見られていたからです。

そのため、上記のような現象が起こりやすく、そんなデザイナーへの戒めとして「デザインは自己表現でない」という言説が流布されていきました。熱くなりすぎる自己の暴発を防ぎ協調や成果主義に意識を振り向ける。デザイナーの一種の解熱剤のようにこの言葉は作用していきました。

業界構造が要請する自己表現

また、今のように企業がデザインを内製化しない時代。デザインの仕事の多くは、外部に委託するものでした。

企業がデザインを外注する意義として、外部の客観的なアウトプットを求めるというものがありました。

自社で構想するものはどうしても自社の独りよがりなものになってしまう。自社製品を客観的な目で、社内事情を一切抜きにして、消費者の空気と目線で情報を大胆に取捨選択する。フラットな目線で魅力的なものとして訴求する。企業やサービスに対して生活者の視点で意味を変換する。そういった役回りです。

そうなると必然的にデザイナーはアウトサイダーとしてのポジションをあえて取る。外部から、内部の空気を読まず、良い意味での無責任さを発揮して仕事にあたる。無責任だからこそ飛躍した提案ができるからです。

それでも、優秀なデザイナーはビジネス成功の背景要因を探り、成果から逆算し思考します。その思考に、自分独自の視点や美意識を織り込んでアウトプットします。ときにはジャンプした成果物をつくり突き抜けた成果を目指します

デザイナーとの仕事に慣れた広告や広報の担当者であれば、こういった機微を理解した上で、プロジェクトを協働することができます。が、そうではない製品担当者であったり、他の部門の社員からは、どうしても身勝手な自己表現のように見られてしまう。場合によっては、自分が担当した製品を曲解されたと憤ってしまいます。

外部委託を受けたデザイナーの宿命として企業や商品の魅力をずらしたり外したりジャンプさせることを求められているもの。でも、それをすることで自分中心の自己表現との烙印を押されてしまう。こういった風景もありました。

生き抜くために自己表現する

デザインは自己表現ではないとの言説が起こった理由として、世の中のデザイナーに関する情報の少なさも、背景として大きいものでした。

今でこそ、ウェブメディア、ソーシャルメディア、業界専門誌など、デザイナーに関する情報は膨大にあり、だれでも簡単に得られるようになりました。デザイナーが個人で自分の考え方を発表することも当たり前です。SNSではすぐにデザイナーと繋がりコミュニケーションすることもできます。

ですが、私がキャリアをスタートした20年前は、業界専門誌でしかデザイナーの情報は得られませんでした。みんながこぞってチェックする唯一の手段。少ない枠。そこでは、優れた「作品」をベースにデザイナーが紹介されます。自分の考えを社会に述べるためにはまずは成果物が評価されないといけなかった象徴的な作品がないといけなかった

デザイナーが、自分の名前で持続的に仕事を得る手段としてメディアに取り上げられることは必要なものでもありました。社会に提言するポジションを獲得するにも必要でした。依頼された仕事に対して、自己表現の比率を高め、自分が制作した「作品」としての意味を高める必然性が高かったとも言い替えられます。

こういった背景から、大多数のデザイナーは「自分なりの表現」に着目し、それを押し進める傾向にあったのは間違いありません。メディアが「作品」づくりをデザイナーの唯一の自己実現のように扱ったことも、それを助長しました。

そういったデザインの世界の習慣と、ビジネス習慣との間で折り合いをつけるために、「デザインは自己表現ではない」という概念が形成されていったとも考えられます。

そろそろ副作用が効いてきた

デザイナーのビジネス理解の乏しさ。造形分野が中心だったデザイン人材の環境。ビジネス理解が論点化されないデザインの世界。ゆえに成果物に自己を乗せすぎるカルチャー。外部委託デザイナーの宿命としての誤解。少ないメディアで勝ち抜く生存競争。これまで紹介したこのような背景の中で、「デザインは自己表現ではない」の戒めが機能し、産業の中で定着していきました。

でも、そろそろ副作用のほうが大きくなってきたようにも感じます

ビジネスに明るいデザイン人材も多く活躍している。というよりも職業デザイナーを超えた広い範囲でデザインが行われています。デザイン対象が複雑化し、共創のプロセスも進化しました。デザイナーが企業内部で雇用され、事業の当事者として活動することも当たり前になりました。デザイナーの能力も人材も多様化し、仕事を得る機会に対して商業メディアに頼る必然性もありません。誰でも社会に主張できます。

むしろ、自己表現を過剰に抑制してしまうことの害。熱が冷めすぎたデザインプロジェクトの副作用の方を気にすべきです。

奇しくも、日本の産業がデザイン思考を経験したことで、デザインはユーザーを重視し、プロジェクト当事者の「自己」が入る隙間がないようなものとも誤解されるようにもなりました。ユーザー調査のエビデンスから演繹的に、「根拠ある解決策に向かうことが最善というような感覚も生まれました。

分析思考のパス回しに終始し、誰も自己表現というシュートを打たない試合風景。自分自身の知性で強く仮説生成したいという情熱がない空間。

その打破のためにも、適切な自己表現の運用が必要であると、私はそう考えています。

そもそも自己表現とは何か

ここまで、自己表現という言葉を多用してきました。では、その自己表現とは何なのか。デザインプロジェクトでの自己表現の現れ方を図示し、説明したいと思います。

デザインプロジェクトでの自己表現の現れ方を示した図。デザイナーの身体と協働者の2つの身体が枠線で示され、それぞれその中に美意識と倫理観と合理性の3つが存在している。その3つが心象と括られている。外部からの事象が知覚を経て、その心象に情報が流れている。心象を通過したものが自己表現として外部化されている。デザイナーと協働者のそれぞれの自己表現が交わり共創されている。それが検証を経て成果物となり成果につながっている。デザイナーと協働者の心象の中の合理性は、分析の行為で交わる。美意識と倫理観については対話によって交わっている。

まず、自己表現は自分の内部にあるものを形にして外部化することです。が、その出発点は自己の内部にはありません。外部の事象にあります。

自己表現は外部の事象を知覚した後に生まれるものです。知覚した1秒後なのか1時間後なのか10年後なのか、時間には幅がありますが、それが自己の内部の様々な情報と組み合わされ外部化されたものが自己表現です。

さらに、それは「合理的に考えたらそうなるだろう」という、周囲からの理解を得やすいものでなく、自分独自の知覚や解釈や価値観を通して吐き出された飛躍した解答、もしくは、一足飛びな仮説として表出されることもあります。表現が常識的でない場合は、周囲から「浮く」「衝突する」「議論が沸き起こる」「気付きを与える」「スベる」などが起こったりするものです。

繰り返しますが、自己表現は、自己の外側にある事象を知覚するところから始まります。知覚は五感を通じて行われるものであり、知覚の仕方や感度には個人差があります。その人が世界をどう捉えているかという認識の差によっても変化します知覚の段階ですでに独自性が生じます

ここで言う外部の事象というのは、デザイン行為を行う際に知覚する全てのものです。ユーザーが置かれている現象や、広告すべき商品というようなデザイン対象。調査データ。事業計画書。誰かの発話。挙げればきりがありません。

それらを知覚し、問題解決や成果達成に向けた合理性、美意識や倫理観、こういったものを全てひっくるめて内部で発酵させ、身体の外部に表現したものが自己表現です。

自己表現の、勇気と危険と誠実さ

自己表現は事象をロジカルに考え抜いたものだけなく、自分が本来持っている美意識や倫理観まで漏れ出てしまうというようなもの。人間の中身をさらけ出すようなものです。

自分の生の言葉で語られる話。こういう解決策が良いのではないかという仮説。ユーザーストーリーのスケッチ。こういったものにアウトプットされるもの。自分自身が投影されたものなので、他者から否定されるとシンドいものでもあります。それでも勇気を出して他者にさらす行為が自己表現です

悪く捉えられる自己表現もあります。例えば、美意識や倫理観といった自分に内蔵していたものを全面に出し合理性を激しく劣後させたもの事象を知覚することを軽視し自分の心象だけを主張したもの。デザインの現場では、これらは独善的な自己表現であると批難されるものです。

これはデザイナーに「独りよがりの意識」がなくても起こります。ビジネス理解が欠けた合理的判断の弱さや、事象を知覚する際の観点の不足、自分から進んで事象を知覚しようとしない出不精な態度からも発生するものです。スキル不足や無意識な態度からも生じるのです。

でも、スキルが不足しているからといって自己表現していけないわけではありません。自己表現に対して、周囲の意見に誠実に耳を傾け共創する言語化し説明をしつくそうと踏ん張る。こんな姿勢を保てれば問題ありません。自己表現を目的化するのは論外ですが、自己表現を通じて共通の成果を目指す態度があれば良いのです。

共創で自己表現をかけ合わせる

この図では、デザイナーも協働者も自己表現をしています。それぞれが固有のセンサーとフレームで外部の事象を捉え、それぞれの論理で考え、人生で培ってきた教養や美意識を投入することで自己表現される。その固有のものをぶつけ合い共創しています。

異なった自己表現をぶつけるだけでなく、その前に、ともに事象を分析しています。解決に向けた合理的な判断について確認し合っています。同時に、対話によって美意識や倫理観について考えを深めています。事象が何であるか。なぜ解決が必要なのか。それは何の意味があるのか。一方が言葉にし、一方がそれを聴き、訊ねる。

答えは自分にはなく事象にある。ほとんど答えは外にある。繰り返し事象を観る。でも、事象をどう観察し切り取るかに人の主張が無意識に入り込むなので対話もまた繰り返す

事象の捉え方や美意識や倫理観には、個人差があります。個々のユニークな情報が衝突し反応する。プロジェクト当事者が「仕事の自分」だけでなく、「配偶者としての自分」「親としての自分」などの全人格を没入する。変数が増える異なる要素が合わさる見方が転換する成果物の幅が出る豊かになる

こういった分析や対話の中で、他者とシンクロし、自己表現し、それをぶつけ、また考える。自分の自己表現で自分が気づくこともある。そういった探索的な行為がデザインなのだと考えています。成果物はつくって終わりではないので、その行為は継続します。

一方で、全てのデザインワークに美意識や倫理観の交換があるわけではありません。合理性だけを捉えクイックにアウトプットする仕事も多くあります。それはそれで問題ないことですが、例えばユーザーの人間性をないがしろにしていないか、ビジネス成果に偏重したアンフェアなデザインになっていないか。そういった点を常に自覚する必要はあるでしょう。

自己表現の主体と人格を切り離す

さて、自己表現が苦手なデザイナーは実は意外に多いものです

たとえば、造形に強くないデザイナーは自分の構想をカタチにする際に、そのアウトプットの巧拙に囚われて自己表現の手が止まってします。下手なスケッチでも十分のコミュニケーションできる場面で、そっと表現を閉じてしてしまうこともあります。

造形系の教育機関であれば、自分の自己表現がさらされ、公衆の面前で否定されたり、点数をつけられたり、ダサいとか、無意味だとか、向いてないとか、そんな言葉を浴びせられる経験をします。そんな罵声がなかったとしても、そういう目線を四方八方から浴びます。つまり自己表現の反動に対して慣れている。が、そうではないデザイナーにとっては、どうしても気後れするものでもあります。

同時に造形系の教育機関では、「自由に考えることのツラさ」も経験します。自由に何かを表現せよと言われた時の、精神の不自由さを経験します。絶望もします。自由であること、真っ白なキャンバスの高圧さに身悶えする経験をします。

だからこそ、その高圧な自由と戦うために自分に軸を持とうとします。自分なりのものの見方を獲得できるように、日々の暮らしに高解像な目線を向けます。自分が世界をどう見ているか、何を美しいと思うのかに敏感になります。

これは、なにも造形系のデザイナーが偉いとか創造性が高いとか、主張したいわけではありません。このような例示した上で私が言いたかったのは、自己表現の要点は自己をどう解釈するかにある、ということです。

自己というのは、日々の経験から情報を溜め込み吐き出す器にすぎないという解釈。器としての身体。自己はただの身体である。自意識と身体と切り離して捉える視線です。(先に掲げた図でも身体という言葉を使っています)

身体が外部化したものが表面的にヘタクソであってもいい。身体が表現したものが「ダサっ」と批難されてもいい。自由に表現できない身体があるならば、そこに補助線を引けるような視野を搭載しよう。自己表現の主体と人格を切り離す。そんな感覚です。

自己表現に慣れた者は自分をメタ化して、自己表現の反動に備える。だからこそ表現できるです。

自己表現を受け止める組織

ここまで自己表現の話をしてきました。

ところで、あなたは他者が発する自己表現に対してちゃんと耳を澄ませているでしょうか自分とは異質な感覚として遠ざけていないでしょうか

組織は人に役割をもたせます。立場を割り振ります。人は役割や立場によって、キャッチする情報も遮断する情報も変わってきます。立場や役割は自分の知覚にバイアスをかけます。

自己表現は「すること」も重要ですが、「受け取ること」もまた重要です。相手が全人格を通した表現に対して、こちらが仕事人格でしか受け取らなかったらどうなるか。

相手の自己表現をわからないと切り捨てるのかその「わからなさに注目して思いをはせ対話を始めるのかそれにより新たな問いを作り出すのか

それができる組織なのかどうかは、考える必要があるでしょう。

自己表現の社会

冒頭に、デザインの領域に関わらず、全てのビジネスパーソンは仕事において自己表現すべきであると書きました。

合理性に加えて、自分の美意識や倫理観を織り込んで表現することを自己表現と呼ぶのであれば、事業そのものも、会社組織そのものも、自己表現の対象になります。むしろ、何でも自己表現の対象になります。

自己表現は当事者性を育み集団の創造性の起点になる。それは「デザイン経営」が目指したイノベーションやブランディングといった産業への成果だけでなく、「気持ちよく働くといった人間の根源にも接続できるものだと考えています

「作品」という言葉があります。最近はデザイナーも自分の仕事に作品という言葉を使うことは減ってきましたが、自分の仕事を作品として見ることには良い面もありました。

作品は越えるべき自分の投影であるという語感です。強い内発性や当事者性がある言葉であると同時に、今よりもさらに高みを目指そうという未来に向けた意志がこもった言葉でもあります。「成果物」という言葉には、それはありません。

作品という言葉には、「自分こそがつくりあげたもの」という傲慢さを感じることもあり、デザインの世界では忌避されるものになりました。でも、「自分自分たちに置き換えればまだまだ活躍できる概念でもあります

デザインにおける自己表現は、過去の産業の経緯から避けられてきたものですが、デザインの対象が複雑化し共創的になった今だからこそ、再び重要なものとなりました。

取得できるデータが膨大になりました。だからこそ、ファクトに絡め取られすぎない思考をする意味でも、倫理的暴走を抑える意味でも、自己表現の意義が深まりました。

働く意味を再考すべき時代。仕事での自己表現は検討すべき論点かもしれません。社会の営み全般にも、自己表現の枠組みで考えると何かの発見があるかもしれません。


Photo by Ash Hayes on Unsplash


※今回は、敬遠されつつあるデザインの自己表現の様相や、現代の環境から見た自己表現の必要性について記事にまとめました。文中にあった「知覚」については下記の記事にて別角度から紹介しています。ぜひご覧ください。


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