見出し画像

◆読書日記.《佐高信『戦後企業事件史』》

<2023年5月24日>

 佐高信『戦後企業事件史』読了。

佐高信『戦後企業事件史』(講談社現代新書)

 言語学の入門書ばかり読んでいると、自然同じ内容が多くなってくるので、時々別の話題に関する本も読みたくなってくる。という事で今年は課題書の『一般言語学講義』に行きつくまで色々と寄り道をさせてもらっている。

 で、今回手にした本は評論家・佐高信による、戦後企業が起こした様々な事件をまとめた企業の戦後史である。

 本書は1994年諸藩と若干古い本なので、これはあくまで90年代までの企業史と見るべきである。が、ぼくとしてはその時点までの知識さえもない有様なので、こういう通史があるというのはありがたい。

 著者によれば「日本の大学に「経済原論」はあっても「企業原論」はない。そのためか、「日本経済史」もしくは「産業史」といった類の本は数多くあっても、企業に焦点を当てた「企業史」はなかった(本書P.3より)」という。

 なぜ日本は「企業」に焦点を当てた通史がなかったのか?

 著者曰く「日本の大学の学問がほとんど横文字を縦文字に変えるだけの"輸入学問"で、事実から出発しないということにも原因がある。しかし、もっと大きな原因は、日本が大変な「会社国家」で企業の力が異常に強く、とりわけ「企業事件」の本当の姿はなかなか伝えられてこなかったためだろう(本書P.3より)」というのだそうだ。

 という事で「企業」に焦点を当てた戦後事件史というのが、本書の特徴となっている。

 が、ぼくのような初学者が入門的に読むには、ちょっとクセの強い部分が見受けられるのが難点でもある。

 というのも、これは本書のネット上のレビューでもちらほら見かける意見なのだが、本書は紹介している企業が起こした事件について、あまり概要は詳しく触れていないのである。
 内部の人間の証言や関わった政治家や官僚などの証言、ジャーナリストや評論家の意見、事の顛末などの情報がまとまっているにも関わらず、けっきょく事の起こりは何だったのかとか事件の全貌はどのようなものだったのかといった基本的な情報が書かれていなかったりするので、気になった部分はいちいち読書を中断してウィキペディア等で概要を調べなければならなかったほどである。

 著者は「こうした事件がそこで働く人たちにどんな影を落としたか、あるいは、どういう形でそこに働く人たちを巻き込んでいったかという視点から書くため、あえて記述には平等を期さなかった(本書P.4より)」というスタンスで本書を書いたそうだから、どうやら概要よりかはそういった当事者の意見を中心に書いていこうという意図でこのような形になっているらしい。

 だが、著者の言っているように本書が一般的なサラリーマンや学生向けに書かれたというのであれば、もう少しきっちり書いてくれても良かったのではと思わないでもなかった。

 また、もう一つ本書の特徴として上げられるのは、著者の参考資料として「事件をモデルにした経済小説を数多く援用した(本書P.4より)」という点も挙げられよう。

 これも随分と珍しいスタンスだが、著者の持論として、新聞などの経済記事というのはなかなか企業にとって辛辣な「本当のこと」は書けないものだ、というのがあるようだ。
 というのも、新聞社や出版社も「企業」に他ならないという事もあるのだろう、広報部などにコントロールされて経済記事にはしにくいのだという。

 それに引き換え「フィクション」という肩書ならば、後々誤魔化す事ができるし、関係者の名前や企業名も実名ではなく仮の名前で誤魔化す事ができる。
 そういう条件だからこそ、経済小説を書く作家は様々な人脈から取材して来た情報を裏も表も踏まえて投入しているらしい。

 日本の企業の実態はノンフィクションにではなくフィクションに書かれてると言っても、決して過言ではないのである。

本書P.5より

 という事で本書はそういう一見ユニークなスタンスで書かれているのである。

 そんな「企業の力が異常に強い日本」という国柄における大企業が戦後に起こしてきた主だった事件とはどのようなものがあったのかまとめたのが本書の内容だが、――いやはや、毒気にあてられた感じで、胸やけするような読後感であった。

◆◆◆

 自分は政治・経済・企業・ビジネス関連のジャンルには疎い。

 そして、出来るならばそういったジャンルの本を読まねばならないような人生は送りたくないし、読みたくもないとさえ思っていた。
 特に若い頃は文学、美術、哲学といったジャンルに固執していたためか、政治や経済みたいなナマナマしいと思える分野は意図的に敬遠していたのである。――が、そう考えていられたのも、おそらく20代あたりまでか。

 ここまで不況が長引いており、企業との付き合いも長くなってしまった。イヤでも「なぜ日本の企業はこうなのか?」「なぜ日本の企業はもっとマトモになれないのか?」という疑問が出てこざるを得ない。

 しかし、上にも書いた通り自分はこの手のジャンルは無知もいい所なので、本稿も所々ピントの外れた意見や初歩的な感想が出てくるかもしれないが、どうぞ読者諸兄、ご寛容な心でご容赦下されば。

 そんなぼくが本書に興味を抱いたのは、「プロローグ」の、次の様な文章を読んだためであった。

 株主総会――毎年、六月末の同じ日の同じ時刻に、一斉に株主総会が開かれる。上場企業のほぼ九割もがこんな異常なことをやるのは、総会屋が恐いからである。総会屋のハシゴを恐れて、企業はこそこそと形式的に株主総会をする。
 なぜ恐いのか。それは企業が弱みをもっているからである。何もなければ、堂々とオープンに総会をやるはずだが、弱みをもっているから、まともにそれを開けない。
 一般的には総会屋が悪者視される。右翼や暴力団と区別のつかない総会屋は確かに誉められる存在ではない。しかし、彼らが生存できるのは、企業がつけこまれる隙をもち、彼らにエサを与えるからである。
 内紛、汚職、粉飾決算等、さまざまに恥部や暗部をもつ企業は、それを嗅ぎつけた総会屋に口止め料を渡す。問題は総会屋よりも企業にあるのである。

本書P.10より引用

 あっけにとられる状況ではないか。

 要するに、(その当時、ではあるだろうが)日本の上場企業のほぼ九割が、何かしら後ろめたい問題を抱えているというのである。上場企業のほとんどが余所者に知られるとマズイ何かしらの「弱み」がある。
 企業はそういった所を株主総会で突っつかれたくないから、同日同時刻に株主総会を開いて総会屋が株主総会をハシゴして来るのを避ける――というのが冒頭の趣旨である。

 ぼくは「総会屋」というのがまだかなりの力を持っていた時期には、大企業とのお付き合いはそれほどなかったので、このような状況はあまり知らなかった。

「大企業の9割が何かしら暗部や恥部を持っている?ほんとにそういう理由だからなの?」と思わないでもないが、本書に出てくる「事件」を起こした企業名を並べただけでも錚々たるものがある。

 例えば、本書に挙げられている総会屋に対する利益供与事件だけでも――1984年の伊勢丹、専務ら五名が逮捕された86年のそごう、総務部長ら二名が逮捕された87年の住友海上火災、取締役ら三名の89年の富士火災、常務ら三名の90年の日本合成化学、総務部長ら二名の91年の富士化学、監査役ら三名の92年のイトーヨーカドー、前総務部長ら四名の93年のキリンビール――という大企業が名を連ねている。

――確かに、日本で誰もが知っている昔から知られる大企業は過去、何かしら問題を起こしているのではないか? そう思わせられるほどのメンツが、本書の「事件史」には名を連ねているわけである(その他にも本書では様々な事件で有名な大企業の名前がズラズラと出てくる)。

 著者に言わせれば「総会屋にカネを渡したりしていない企業は日本では本当に数えるほどしかないだろう(本書P.168より)」というほどなのだそうだ(因みに現在は商法、会社法が改正され総会屋の力は随分と弱まって過去ほどの問題にはなっていない様である)。

 これを読んで暗澹たる気分にならない人がいるのだろうか。

 それとも、世間の人はこういう錚々たる顔ぶれの企業が軒並み様々な事件を起こしていているのを見ても平気な顔で、「そんなもんだよ企業って。知らなかったんだね?」等と、ぼくの感想をナイーブだと鼻先で笑うだろうか?

 ぼくとしては本書を読んで、マーク・アクバー&ジェニファー・アボット共同監督のドキュメンタリー映画『コーポレーション』の主要テーゼであった「現在の企業をひとりの人格として精神分析を行うと、完璧な"サイコパス(人格障害)"であるとの診断結果が出る」という言葉の実例を見せつけられているような気にさえなったのだが――。

マーク・アクバー&ジェニファー・アボット『コーポレーション』

 例えば、本書で紹介されている、佐川急便が運送業として一流になるために起こしてきた様々な事件を見ていると本当に酷い。
 警察OBを雇って交通違反をもみ消す、金を回して運輸省の規制を緩和させる、数々の労基法違反の過重労働、超過勤務手当の不払い、暴力団への資金提供、眠気を散じるため従業員に覚せい剤を打たせて過重労働をさせる等々。
 この佐川急便は、もちろん皆さんもご存じの通り、今も元気に営業をしている一流企業である。

 また、企業の奇妙な「人格障害」を思わせるエピソードとして、本書に紹介されている以下のようなケースも見られる。

 一九六八(昭和四三)年一〇月、三菱油化四日市工場が絵具のように真赤な汚水を出し、付近の住民から通報を受けて四日市海上保安部に当時勤めていた田尻宗昭が、それを調べた時、担当の三菱油化の課長は「私は二代も前から三菱に働かせてもらっているのに、会社に対して何とも申しわけないことをしてしまった。会社のカンバンにドロをぬった」と涙を流さんばかりで、ただただ会社にすまないの一点ばりだったという。そして、食事もできないほどやつれて、家族が自殺を心配するほどになったとか。
 取調べには礼服を着てきたというが、その課長の頭の中には、港を汚し、社会に損失を与えたという意識はまったくなく、ただただ会社のメンツを傷つけたという思いだけでいっぱいだったのだろう。企業というものが人間をそこまでも洗脳するものか、と田尻は不気味な感じがしたと書いている。

本書P.98より

 ぼくの狭い経験のみで言わせてもらうと、会社勤めの人の中に、こういうタイプの人はよく見かける。

 その手の人というのは、たいていは普通に常識人だし、家族からも愛されているだろうと思わせるごく普通の勤め人なのだが、何故か会社の仕事の話になると、どこか倫理観のタガが外れてしまったかのような発言をしたりする。「えっ、そんなデタラメなこと言う人だったのこの人!?」といった感じで驚くような事もしばしばあった。

 上に引用した文章に「企業というものが人間をそこまでも洗脳するものか」と書いてあるが、ぼくが思うに日本の企業はわりと人を洗脳する。

 教育関連の仕事に関わっていた時などは、新入社員研修や営業研修などでほとんどカルト宗教のセミナーのようなプログラムを行っている企業のウワサも聞いたし、実際にそういう研修を受けていたという人の話も良く聞く話であった。
「社員教育っていうのは洗脳なんだよ」と、そのものズバリの話をしていた某企業の人事部長も知っている。

 終身雇用の時代の会社だと、若い頃から交流のある人物も社内の人間ばかりで他社の人間とは価値観も感覚も違い、社内や狭い業界の常識が自分の常識になってしまう、という事情もあるだろう。
 日本企業のそういう閉鎖性も「洗脳」的なものに一役買っているのではないかとも思う。

◆◆◆

 企業と市民は対等ではない。とくに「会社国家」である日本においては、企業の方が圧倒的に強い力をもっている。

本書P.87より

 日本は企業が異常に強い力を持っている「会社国家」だ。――というのが著者のテーゼのひとつらしく、この言葉は本書でもしばしば出てくる。

 では、なぜ日本ではそれほどまでに企業が大きな力を持っているのだろうか? これについては著者は本書の中でハッキリとその原因についてまでは語っていない。

 本書は企業事件の紹介をメインにしていて、著者による「総括」のようなものが書かれていないので、本書における著者の主張というのは、本書の中に飛び飛びに散見される著者の主張をすくい上げなければならないのだ。

 という事で、ぼくなりに本書に散見される情報から、日本では何故企業が異常な力を持っているのか?というのを推測したいと思う(ここら辺は無知なので推測でご勘弁頂こう)。

 日本の企業は、銀行が融資のパイプを止めると倒産する。借金の多寡によってではなく、メインバンクが見放したかどうかで、その企業の命運が決まるのである。どんなに借金が多くても、銀行が面倒を見続けると言えば、企業は存続する。

本書P.100より

 ――こういった事情は、企業の財務部門か経営に直接関わっていないと、なかなかピンとこない指摘ではないだろうか。
 要は、企業は銀行が守ってくれさえすれば、ある程度の借金経営でも存続する事が出来るというのである。

 そして、その肝心の銀行なのだが――

 いまから二十年ほど前、『VISION』という経済紙に入って編集者となった時、ボスである主幹に、
「銀行というのはカタイところですよね」
と言ったら、ニヤリと笑われた。
 銀行ほどヤワラカイところはないというのである。上の意向次第でどうにでもなるのであり、カタイのは一般の人に対してだけだということだった。

本書P.71より

――といった体たらくなのだそうだから、銀行と企業が結託したら敵なしだろう。

 まったくの無担保で融資をしたり、自分の懇意にしている女性の会社に巨額の不正融資を行っていた銀行の事件なども本書で紹介されている。
 しかし、そんな「上の意向次第」で企業の命運が左右されるなどという事があって良いものだろうか。

 ぼくとしては、今まで例えばドラマ『半沢直樹』等でもよく見る、銀行の融資を得るために死に物狂いで奔走する中小企業の経営者のイメージのほうが強かったので、中小企業と大企業では、こういった借金感覚がそもそも違っているのかもしれない。

ドラマ『半沢直樹』より

 日本の大企業は欧米に比べて株主にも強いらしい。
 著名なアメリカ人投資家ブーン・ピケンズはインタビューで次の様に言っているという。

 日本の大企業は株主に対してプロガント(傲慢)ですね。下請け業者や流通業者、金融機関、さらには政府にまで影響力があるものだから、株主など、まるで召使いみたいに扱われがちです。こういった傾向は米国にもないわけではない。しかし米国ではそんな場合、株主が企業と対決し、どちらがボスか、思い知らせてやります。

本書P.189より

 日本の大企業が強い理由というのは「下請け業者や流通業者、金融機関、さらには政府にまで影響力がある」という部分に言いつくされているのではないだろうか?

 本書によれば、大手石油会社は運輸省から多くの天下りがあるというし、それ以外にも天下り先を提供している業界は多いだろう。
 本書で紹介されている<KDD汚職事件>では、KDDが時の郵政大臣や郵政官僚にも贈答品や接待など行っていたという。
 そのように天下り先や贈答品を提供している代わりに、企業が危機に陥ったら、普段根回ししている官庁に色々と便宜を図ってもらったり助けてもらっているであろう。
「この企業が潰れると、日本のその業界が大混乱に陥る」といったような重要な役目をおっている大企業は、おそらくだいたいどこかの省庁との繋がりがあるのではなかろうか。
 テレビだったら総務省、電気・ガスだったら資源エネルギー庁、航空会社や鉄道であれば運輸省といったように。

 本書を読んでいると、本当に日本の大手企業は政治家や官僚と仲がいいのだなと思わせられる。
 そして、大企業ほどそういう各所との「持ちつもたれつ」の関係によって業績を上げ、いざという時に支え合ってやっているという仕組みが見えてくる。
 政官民がベッタリと癒着している。だから日本は「企業国家」で、大企業は「圧倒的に強い力」を持っているのであろう。

 大企業を日本の経済のためと大切に保護し、持ちつ持たれつの関係で大切に保護しているのが行政や政府だ。
 だから、そういう企業から「裏資金」が官僚や政治家に流れて両者の関係性はより強化される。官僚や政治家は、そういう企業に有利になる法律や規制緩和を行い、政治献金やいくらかのキックバックを貰う。
 そういう関係でやっていっているから、その手の企業が危機に陥ると政官のフォローが入る。という事で大企業ほど、潰れにくい仕組みができあがる。

 そういった政官民の癒着関係の一端がポロッと露出してしまうと、本書に書かれているような事件として表側にそのデタラメ放題な状況が現れるのだろう。

 佐高信も言っているが、日本は資本主義社会だなんてとんでもない、中身は未だに封建主義そのものだ。

 本書は日本の大企業が起こしてきた事件を描く事で、そういった日本企業の本質の一端をあかす事ができているのではないかと思うのである。
――しかし、この毒の強さに胸やけせずにいれる読者が果たしているのだろうか? ああ、つくづくイヤな読書であった。


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?