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◆随筆.《基礎講座:「演出がいい/悪い」っていう場合の「演出」ってそもそも何?》

※本稿は某SNSに2019年6月10日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


【演出】えんしゅつ
「演劇,舞踊,映画などで,台本や筋書に含まれている内容を具体的な現象として表現するための芸術的,技術的操作のこと。演劇,映画はもちろん,ショーや写真も多種多様な要素で構成されるので,それらを統一ある表現にまとめあげるための作業が要求される。たとえば,演劇では上演目的にそって戯曲を解釈し,その解釈を一方では舞台美術の責任者に徹底させ,他方では俳優に稽古をつけて,その創造活動に方向を与え,観客への効果的な伝達をはかるのが演出である。」
          ――「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」より

 本日はひとつ、「演出」というものの基本的な意味を、分かり易く美学的に解説してみようと思う。

 と考えたのも、ぼくはしばしば映画やアニメの批評や評論を書いているときに「演出」について触れることがあるのだが、ぼくの感想を読んでいる人は果たして一言「演出がいい/演出が悪い」と言って意味が分かるのだろうか、ぼくの言いたいことが伝わっているのだろうか、としばしば不安になるからだ。

 例えば、AMAZONのレビューや「評論サイト」と称する感想サイトに載っているレビューの数々は、ほぼ9割以上の確率で「演出」にまで言及しているものはない。
 そういうところにレビューを掲載している人のほとんどが「テーマ」と「物語」しか意識していないし、そもそも「演出」という側面があることも気にしていない。

 こういう事を言っていると「"演出"なんていう専門技術なんて普通の人は知りませんよ」と思う方もいるかもしれない。
 だが、残念ながら「演出」は専門用語ではないし、映画やアニメなどの映像作品の専門技術ではない。

 小説にも写真にも絵画にも、イラストやデザインだって「演出」は存在しているし、もっと言えば「詩」にも「短歌」にさえも「演出」というのは存在している。
 それどころではない。皆さんが普段楽しんでいるテレビ番組でも、ニュース、バラエティ、スポーツ、報道番組、ドキュメンタリー、こういったもの全てに「演出」があり、各番組のディレクターやプロデューサーという人たちはこれらの「演出」について、いつも考えているものなのだ。

 少なくともクリエーターとして小説や詩を書いている人たちで「演出」について一度も考えた事がない人などいない。もっと言うなら、他人にものを伝える職業の人で「演出」を考えない人などはほとんどいないと言ってもいいだろう。


◆◆◆

 では、そもそもこの「演出」とはいったい何なのだろうか。
 冒頭に引用した事典の文章がほぼ説明していると言っても良いが、もっと分かり易く説明するとしたら、ものを伝える際の「見せ方」と言ってもいいだろう。

 例えば、上にあげたテレビ番組を例に取って説明してみよう。
 今や「演出」のないテレビ番組など皆無といっていいだろう。
 テレビ番組の「演出」の大きな武器の一つは「カメラワーク」にあると言えるだろう。
 『笑う!さんま御殿』や『アメトーーーク』など、われわれは普段まったくその作り方について考えたことはないと思うが、ああいうバラエティには、カメラが一体何台使われているか、考えた事はあるだろうか。
 ぼくはテレビ関係の仕事をしたことがないので、普段見ている番組のカット割りを遡及して考えてみると、少なくとも1スタジオで4~5台以上は使っているのではないだろうか。
 何故そんなに多くのカメラが必要なのだろうか? 「演出」のためである。

 例えばハゲについて話題になれば、バイきんぐ小峠さんの顔のアップのカットを抜いておくカメラが必要となったり、あるいは「大嶋さん!」と呼ばれた瞬間にアンジャッシュの児嶋さんのリアクションをフォローするカメラを用意しておかねばならなかったり、など最近のバラエティではかなり「ディレクターの自我」が透けて見える演出も多くなってきたように思える。そういう、フレキシブルに動けるカメラがスタジオには必要だ。
 また、そういう演出だけでなく、芸人と芸人の位置関係を俯瞰して捉えるためのクレーンカメラも必要だろう。
 司会の明石家さんまさんの動きを常にきちんと押さえておくカメラがないと、あのテンポが良くてスピーディなギャグのやり取りを上手く視聴者に伝える事が出来ないかもしれない。

 こういったように複数のカメラを使って映像を切り替えるカメラワークがなければ、テレビの映像は「幼稚園で自分の子供のお遊戯会を撮影しているお父さんのカメラ映像」みたいな、赤の他人からしたらとても退屈で見てられない映像になってしまう。
 ワン・カメラでワン・カットの長回しのシーンだけという映像は、もう現代のテレビ番組は成立しないのだ。

 映画の演出で言えば、何も動きがなく止まっているシーンは、3秒以上続けて見せる事は出来ないと言われている。カメラのアングルも、カットも、何も動かないシーンが長々と続いているだけで、見るほうは退屈してしまうのである。つまり、「映像的な動きがない」から、退屈だと感じてしまうのだ。
 だから、テレビ番組は「視聴者により伝わり易い見せ方・視聴者に退屈をさせない見せ方」を考える必要がある。それが「演出」となるのだ。

 ぼくがアニメの感想でしばしば登場させている「演出」というものも、これと全く同じことを言っているのである。アニメの場合だと、一から絵を描かなければならないので実写作品と違って、より一層「演出」については自覚的だ。
 主人公の登場シーンはアオリで撮るのか、それとも俯瞰カメラで撮るのか、風景からパンしてきて人物を写すのか、漫画の集中線のようなもので強調するのか、ピントをぼやかしてキラキラと光を散らして「美しい人物」みたいな見せ方にするのか……実写と違って物理的な制約がないので、あらゆる無茶なカメラワークが可能なのがアニメのいいところだ。
 つまり、「何の意図もなくただ単に映している」というシーンは、アニメにはない。必ず製作者の「どういう見せ方で見せればいいのだろうか?」という考え方が乗っかっているのだ。

 ぼくが普段から良く「漫画の演出をそのままアニメにしても、漫画と同じ効果にはならない」と言っているのにも、こういう事情があるわけだ。
 漫画とアニメの大きな違いとは何だろう?
 漫画の単位は「コマ」であって、しかもその「コマ」の構成は、正方形になったり長方形になったり台形になったり、または大きくなったり小さくなったり、とページの中で自在に伸縮する。この特性がどういう効果につながるかというと、シーンごとのテンポを速くしたり遅くしたり、「ここは重要な場面ですよ!」と強調したり、という事が出来る。
 だが、アニメはテレビ画面のサイズに合わせて作画しなければならないので、漫画と同じように画面を伸縮させてテンポを作ったり強調したりすることができない。だから、漫画原作をアニメ化する場合は、「コマの伸縮」の代わりにカットごとの時間配分やカメラワークでテンポや強調を作って同じような効果を生んでいるのだ。
 だから、漫画原作のアニメ化は「何も考えずに漫画の絵を長方形の画面に移し替えただけ」という作画をしても、漫画と同じような効果は得られないのだ。
 そういうことを何も考えずに漫画の演出をそのままなぞっているだけのアニメを、ぼくは「演出が下手だ」と言っているのだ。

 ちなみに、ぼくはジブリ映画の中では数ある優れた作品の中でも、とりわけ近藤喜文監督の『耳をすませば』を愛している。
 それはひとえに『耳をすばせば』の演出がジブリ映画の中でも突出していると思っているからであり、また近藤喜文さんの演出がぼくは大好きだからだ。
 『耳をすませば』は、ストーリー自体はさほど優れているというほどでもないのだが、演出の素晴らしさが傑作たらしめていると思っている。『耳をすませば』については、長くなるのでまた稿を改めて語ろうと思う。

 上述しているように「演出」というのは、映像作品だけのものではない。
 例えば絵画なんかだと、ロマネスク期のものだと演出もなにも平板だが、ルネサンスやバロックになってくると、透視図法の技法が発展してくるので、絵の見せ方にもバリエーションが豊かになって来る。「演出」を過剰に意識するようになったルネサンス絵画を「バロック期」と言ってしまってもいいかもしれない(笑)。

 絵画に演出があるように、写真にも「演出」はある。
 例えば、「何を"主役"に持ってくるか?」という事を考えなければ、その写真は一体何を意図して撮られた作品なのか分からないボヤけたものになってしまう。
 また、広角レンズで撮るのと中望遠レンズで撮るのとでは、写り方が違ってくるわけで、そういう違いを考えない写真家もいないだろう。つまりは、写真家も「見せ方=演出」を考えているのだ。

 塚本邦雄が何故、自分の短歌や詩論や小説を旧仮名・旧漢字で書くのかと言えば、旧仮名・旧漢字によって生まれる「雰囲気」を演出したいからだとも言える。これも短歌の「見せ方」、つまりは「演出」だ。

 小説も「演出」が何より大事な文学と言えるだろう。
 一回でも小説を書いたことがある人なら分かってくれると思うのだが、『「あらすじ」を長くしたものが小説だ』なんて考えている小説家は、一人としていない。
 小説家志望の方は、小説を書くとき、少なからず悩んだことがあるだろう。「最初の一行目をどう書こうか」と。主人公のモノローグから始める場合もあるし、登場人物らの会話から入る場合もあるだろう。物語の背景説明から書きだそうというやり方も当然ある。「庭は寝返りをうった」という唐突な文章で始める小説なんかもある。
 あるいは「この大事なシーンを、一体どうやって書こうか?」と悩んだ人もいるかもしれない。
 これはいずれも「どういう風に見せようか」と考えているのであって、つまりは「演出」の仕方を考えているわけだ。
 「演出」ということを考えなければ、そんな悩みなどは存在しない。
 この物語の時代背景にあった文体とは、どんな文体なのだろう。
 こんな書き方をしたらホラーなのに怖くないかもしれない。
 淡々と描写しても、私の伝えたいロマンティックな雰囲気にはならないかもしれない。
 こんなに説明描写を何ページも続けたら、読者が飽きちゃうかもしれない。
 ……これらは『「あらすじ」を長くしたものが小説だ』と思っていたら、まず出てこない悩みではないだろうか。
 つまり小説を書いている人は、単純にストーリーを書いているだけではないのである。
 小説が小説である以上「どのように見せるか?」という「演出」の問題は、必ず付いてくる問題なのである。


◆◆◆

 上述してきたように、あらゆる創作物にとって「見せ方=演出」というのは避けて通れない問題で、これが専門用語ではなくて、広く一般的に知られている技術なのだということがお分かりいただけたのではないかと思う。
 だからこの問題は映像作品や漫画などの限られた創作物の専門技術の話ではなく、創作物一般の「美」にかかわる「美学」の問題だと思ったわけである。

 これほどまでにあらゆる創作物に「演出」が必要とされているのに、何故それを受け取る側は、ほとんど「演出」というものを意識していないのであろうか。

 ひとつは、「演出」というものは、見る人に「演出しているな」と悟らせてしまうようなありありと分かるようなものは、はイヤミにしか見えないという特性があるからだとも言えるだろう。
 とにかく観客は物語の世界に没入したいのに「ここが最も泣ける所ですよ!注意して見てくださいね!」と、演出家の顔がちらほら見えてしまっては、「その物語がフィクションである」という事実が分かってしまって素直に物語世界に没入できない。
 だから、優れた演出家は「演出してますよ」という気配を観客に悟らせないようにするし、あらゆる演出も、演出していることを隠して作品の中に自然に溶け込んでいる演出こそが良い演出だと言えるだろう。
 だから、「演出」は一見、ありありとは見えてこないのだ。

 そういう「演出」を、一般の人でも分かり易く意識する方法がある。
 「ものを作る側」の気持ちや制作プロセスを想像するのだ。
 「ものを作る側」というのは、とにかく「これは、こういう風に見せたほうが面白いかもしれない」「いやもっと大袈裟に見せたほうが笑えるかもしれない」「あれは、もっとこんな感じで演出してやれば、もっと泣けるものになるかもしれない」ということを必ず必死になって考えているものだからである。
 別のカメラアングルだったら、このシーンの雰囲気はどうなっていただろうか。
 もっと違うBGMがかかっていたら、ここのシーンはもっとスリリングになるかもしれない。
 そういう「作る側の視点」というのを意識することで、その作品の「演出」というものも見えてくるものがあるだろう。

 創作物を鑑賞するとき、こういった「演出」を意識してみると、作品を楽しむ視野は予想以上に広がっていくものだ。逆に、作品を楽しむのに「ストーリー」しか気にしていない、というのは、ぼくなんかからしてみれば勿体なく思えるのだ。

 皆さまも、いま見ている漫画や映画を、ひとつ「演出」の観点から見てみてはいかがだろうか。
 レビューを書いている方なんかも、「演出」はどうだったか?ということをレビューの中に入れてみるだけでも「通」っぽさが上がるかもしれない。

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