『闘争領域の拡大』ミシェル・ウエルベック|感想

ー現実社会という名の檻ー

 『闘争領域の拡大』は、現代フランスを代表する小説家であるミシェル・ウエルベックの処女作である。私にとっても、初めて読むウエルベックの小説だった。ただ正直なところ、うまく読み込むことができなかった。読み終えた後の感覚は、村上龍『限りなく透明に近いブルー』を初めて読んだ時と近しい感覚だった。それはテーマのひとつとして、セックスを扱っているからだろう。
 読み込めなかったなりに、この小説を読み解いてみた。そのために『闘争領域の拡大』のあらすじを説明したいのだが、うまくまとめられない。なぜなら、ストーリーという筋ではなく、まるで日記みたいに淡々と物事が進んでいくからだ。それでも、あえて言うならば、語り手の「僕」が周囲の観察を通して、ひたすら愛や経済、アイデンティティなどの思索に耽る物語だと言える。それを端的に表している部分がある。

目下、世界が画一に向かっている。通信手段が進化している。住居の中が新しい設備で豊かになっている。徐々に、人間関係がかなわぬものになっている。そのせいで人生を構成する瑣末な出来事がますます減少している。そして少しずつ、死が紛れもないその顔を現しつつある。

ミシェル・ウエルベック『闘争領域の拡大』中村佳子訳、p22 

 「僕」が何を考えているのか。それは、現代社会が技術の発展によって豊かになり人々の自由度が増していくに従って、逆に社会格差を産んでいるのではないか、ということである。具体的にどういうことか、主要登場人物の関係から読み解いていきたい。

 「僕」は30歳になったばかりのアナリスト・プログラマーだ。経済的な余裕はあるが、2年前にヴェロニクと別れて以来、女性と付き合っていない。
 もう1人、この小説の主要な登場人物は、「僕」と一緒に地方出張に行くことになる「ティスラン」だ。彼も「僕」と同じ会社に勤めている。「僕」曰く、彼は「ひき蛙とバッファローを合わせたような(ずんぐりむっくりの、ごつごつの、大きくて、ゆがんだ、要するに美と正反対の)顔」をしていて、「会話にはデリカシーや空想力、ユーモアがな」く、「完全にどんな「魅力」もない」人間である。
 「僕」は「ティスラン」との関わりにおいて、セックスや愛の社会格差についての考えを深めていく。「ティスラン」は前述のとおり「魅力」がない人間であり、女性と性的接触することができない。それでも彼は、積極的に女性に話しかけに行ったり、ナンパするためにスポーツクラブに入会したり、クラブに行く際には身支度に3時間かけたり、自分に出来ることはなんでもしていた。しかし、容姿のためか、会話のためか、誰からも見向きされることなく、性交渉することは出来なかった。結局「僕」に誘われていったクリスマスイブのクラブの帰り道に、彼は交通事故で亡くなってしまう。「ティスラン」の訃報を聞いた「僕」の語りで印象深い一説がある。

少なくとも彼は、諦めたり、降参したりしなかった。延々と失敗を重ねても、最後まで愛を探し求めた。僕は知っている。ひとけの無い高速道路で、二〇五GTIのシャーシに潰され、黒とスーツと金色のネクタイ姿で血まみれになりながら、彼の心中にはまだ闘争も、欲望も、闘争心も残っていた。

ミシェル・ウエルベック『闘争領域の拡大』中村佳子訳、p155

 ここで気になるキーワードは「闘争」である。邦題にもなっている『闘争領域の拡大』の「闘争」とは何を意味しているのだろうか。僕は「闘争」について次のように考えている。

経済の自由化とは、すなわち闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく。同様に、セックスの自由化とは、すなわち闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく。

ミシェル・ウエルベック『闘争領域の拡大』中村佳子訳、p126,127

 つまり、資本主義社会では自由化が進めば進むほど、社会格差が生まれていく。人間はその競争を勝ち抜いていかなければならない。その勝負を「僕」は「闘争」と読んでいる。「闘争領域の拡大」とはすなわち、社会が自由になればなるほど、逆に生きづらい世の中になっているというパラドックスを表しているのではないだろうか。
 経済とセックス、とりわけセックスの「闘争」において、「僕」と「ティスラン」は敗北していた。ただ、「ティスラン」は「最後まで愛を探し求め」ていた。それでは、「僕」はどうだろうか。
 「僕」はヴェロニクと別れて以来、セックスを諦めていたように感じる。それは、「僕」のシニカルな視線にあるといえる。「ティスラン」の精細な描写からわかるように、「僕」は周囲のものをよく観察する。それも皮肉を込めて。この視線の内面が描かれているものが、「僕」の書いている小説だろう。「僕」は哲学的な動物小説を書いていて、そのうちのひとつに『ダックスフントとプードルの対話』という小説がある。そこで、セックスについて次のような結論を出している。

『性的行動はひとつの社会階級システムである』

ミシェル・ウエルベック『闘争領域の拡大』中村佳子訳、p116

 性的行動は一種の社会階級システムであって、その階級に属していないものは性的行動を取ることができないと考えていたのではないだろうか。現に「僕」は、ナンパに失敗した「ティスラン」に向けて「仕方がないものと諦めなくてはいけない。自分はこういった物事に縁がないことを受け入れることだ」と述べている。「僕」はアナリスト・プログラマーであり経済面では「闘争」の勝者であるが、セックス面では「闘争」の敗者だった。それゆえ、セックスに関しては常に冷笑的であったのだろう。
 セックスの姿勢に表れる「僕」と「ティスラン」の対比は何を意味するのか。私は、実は「僕」が「ティスラン」に憧れていた、と読み取れるのではないかと考えている。
 「僕」は読者に呼びかける。

 今一度、思い出してみてほしい。あなたが闘争の領域に飛び込んだ時のことを。

ミシェル・ウエルベック『闘争領域の拡大』中村佳子訳、p19「」「」「」

 「僕は」最後まで「闘争の領域」に飛び込むことがなかった。自ら果敢に「闘争の領域」に飛び込んでいた「ティスラン」を尊敬すらしていたのかもしれない。だからこそ、、現在の「僕」が日記のような形式で当時の出来事を振り返りながら書いたこの小説で、読者に「闘争の領域」に飛び込むことの必要性を説いたのだ。ただ、最後まで資本主義社会に抵抗していた「僕」が「ティスラン」に従属してしまうと、あれだけ逃れようとしていた資本主義社会の大枠に従属してしまうことに他ならない。最初から資本主義社会に従属していた「ティスラン」。逃れようとしつつ逃れられなかった「僕」。結局どちらも現代社会(資本主義社会)という名の檻に閉じ込められた犠牲者だったのだ。


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