固定観念は意外と崩れる
滞在1か月、目にしたもの聞いたもの
カンボジアの人たちはとても自由だ。
といっても、自由に旅行したり、どこででもPC一つで仕事したりとか
そういった時間・場所の自由とは全然違う。
道端のどこででも人が寝てるし、お店の人も暇ならスマホをいじってる。
なんならお店の人もぐっすり寝てる。笑
家に帰るとアパート前の空きスペースで週3くらいで宴会が開かれていて、
みんな屋台でつまみとビールを買ってきて飲んで、歌って、笑っている。
門番の人が寝るベットになぜか知らない人が寝ていることもある。
イオンでソフトクリームを頼んだ時、
ソフトクリームを作れる人が休憩中?で行列ができていた。
それを見た皿洗いをしていた人が、
「なんか行列できてるしおれやるか、、作り方しらんけど、、」
みたいな感じで笑いながらソフトクリーム台に立ち、
いざ作ったけど案の定ぐちゃぐちゃで、「ごめんね!」
みたいに苦笑いしながらお客さんに渡していた。笑
(奇跡的に自分の番で作成担当が戻ってきた。めちゃきれいに作ってくれた)
日本でやったら怒られるか、白い目で見られるかどっちかの行動も、
こっちでは普通に起こる。
でも、なんだか不思議と気が楽な感じがする。
「正しくあらねば」とか、「こうしなきゃ」みたいな
社会的な圧力というか、そういった雰囲気を全く感じないからかなと
思ってみたり。
みんな、自分に正直に生きている感じがする。
発展と豊かさ
日本はカンボジアよりも圧倒的に発展しているし、
一人当たりの所得も10倍くらい多い。
でも、一人当たりの幸せが10倍になるかと言ったら、きっとそうじゃない。
確かに、日本は安全だし普通に生きていれば事件にもそうそう遭わない。
医療も発達していて、最近ではガンも不治の病ではなくなっている。
カンボジアの人たちから見たら、なんて恵まれた環境だろうと思うだろう。
でも、日本のみんなはどこかで閉塞感を感じている。
会社帰りの満員電車で、「もうやだ」「つかれた」「仕事辞めたい」と
思っている人がどれだけ多いだろうか。
日本の自殺率は10万人あたり約15人。
対してカンボジアの自殺率は10万人あたり約5人。
日本の自殺率はカンボジアの実に3倍。
これをどう考えるか。
カンボジアの屋台では子供も普通に働いている。
日本から考えれば、「子供を働かせるなんてけしからん!」となりそうだが、
現実を見ると意外とそうでもない。
みんな、一家の仕事に参加することで、自然に家族・社会とコミュニケーションを取っている。
近くに子供もいっぱいいるので、空き地でボール遊びなんかもしている。
僕らみたいな外国人が通ったら、22時を過ぎている時間でも
家族全員で「ヘーイ!」と笑顔で手を振っている。
強制的に働かされているというより、
どちらかというと仕事場で遊んでいるように見える。
環境は日本のほうが絶対にいい。
でも、果たして幸福かどうかで考えると、うーん、、
わからない、、
笑顔の物乞いのおじさん
カンボジアでは物乞いが日常的に出現する。
少し人通りが多いところや飲食店にいると、
お金を恵んでくれと近寄ってくる。
それ自体はカンボジアの文化として根付いているので、
外人よりも現地の人がお金を渡していることが多い。
自分たちは、正直不気味な人が多くお金は渡していない。
そんな中、唯一一人だけお金を渡した人がいた。
家の近く市場を歩いていた時に、片足がなくスケボーのようなもので
移動していた近くを通ると、驚くほどの笑顔でお金が入ったバケツを
こちらに向けてきた。
それまで、みんな哀れみというか、貧しい私に恵んでくれスタンスの
人が多かったので驚いた。まるで、自分にお金を渡すのが当然かのように
いい笑顔だった。
なんだかこちらも笑顔になったのでお金を渡すことに。
バケツの中にはかなりのお金が入っていたと思う。
どうやら地雷で片足をやられ、破片でもう片方の足にも穴が開いてしまっていた。
それでも、彼は笑顔で、また「コンニチワ」と日本語まで話してくれた。
この人には、ずっと笑っていてほしいとそう思った。
日本では考えられないような目に遭いながらも、
それでも笑顔でお金をもらう物乞いのおじさん。
希望は捨てていない。自殺なんて考えていない。
環境は間違いなく日本のどの会社に勤めているサラリーマンのほうがいい。
でも自殺してしまう人がいる。
強いストレスを日々受けつつ、そういうものだと我慢して過ごす人がいる。
どちらが「豊か」なのか。
幸せって何なのか。
ホワイトカラーの概念
自分は、高校・大学ぐらいの時から今まで、何となく
「ホワイトカラー」の職業にあこがれを抱いていた。
大学を出たら、とりあえずホワイトカラーの職業に就くこと。
大学に行く意味も、いいホワイトカラーの職業に就くこと。
漫然と、そんな風に考えて今まで生きてきた。
ホワイトカラーが、優等な職業だと。
でも、カンボジアで1か月過ごしてみると、
そんな考えも少しずつ疑問符に変わっていく。
ホワイトカラーの職業は、自分にとって本当に幸せなのか?
日々つらい仕事を40年間頑張って、そのあとは年金で
穏やかにお茶を飲みながら過ごす。
そんなことが幸せの定義だと思っていたが、
それは本当に自分にとっての幸せなのだろうか。
幸せって、もっと身近に感じながら生きていないと、
なんだか人間として空しくなってしまうのではないのか。
40年間、つらい、でも安定した生活のためだからと、
自分を鼓舞して働き続けるのか。
「お世話になっております。」「承知いたしました。」と、
自分の言葉ではないような言葉をあと40年間使い続けるのか。
もっと、肩の力を抜いて、あまり人間関係を気にしすぎず、
地味でも「幸せ」だなと思えるような仕事を続けることが、
それこそが自分にとっての幸せにつながるのではないのか。
大学まで出て、ホワイトカラー以外の職に就くのは
親にも申し訳ないと考えていたが、
自分の人生、もっと自由に柔軟に考えるべきじゃないのか。
「こうあるべき」という姿は、自分自身で作り上げてしまった
ロールモデルだが、それを追い求めて「豊か」に、「幸せ」になれるのか。
仕事を含め、物事を選ぶ基準に、
「幸せになれるか」ということをよく考えるべきではないのか。
ホワイトカラーで頑張ることだけが幸せじゃない。
心を殺してしまうことは豊かではない。
日々を楽しく、自分らしく生きられるように。
自分は元来失礼な人間だし、おっちょこちょいだし、目立ちたがり。
人の世話を焼くのも、意外と好きだったりする。
そんな自分が輝けるような場所・モノ・コトを探していく。
それが大事じゃないのか。
幸せの概念
自分にとっての幸せの概念と180度違う生き方をしている人たちが、
今ここで実際に生きていて、豊かに、幸せそうに生活をしている。
それだけで、概念が変わるには十分な気がする。
みんな、お金もないし、病気になったら、お金がないから、
もう死ぬしかない。
そんな状況の人も多いのに、みんな不安は感じていないみたい。
日々楽しく過ごせたら、それでハッピー。
今を生きて、今を楽しむ。何かあったらその時対応して、何とかする。
何とかできなかったら、その時はしょうがない。死んでしまってもしょうがない。
それでいいのだ。
未来に不安がなかったのは子供の頃の感覚に似ている。
毎日が幸せで、ハッピーで、何も知らない分、何も不安じゃなかった。
大人になるにつれて、未来を予見して防衛策を張って、
今というよりもその後のことを気にすることが多くなった。
不安を感じて、今のことに集中できない。そんなことも増えた。
今の自分は、40年後のことを不安視して、今を見ていない。
今を楽しめなかったら、それは幸せな人生と呼べるのか?
もっとシンプルに、今自分が何をやったら幸せか、
その視点を大事にすることが、大切。
小さなことでも喜びを感じて、必要以上に上を見すぎない。
欲は出しすぎない。
自分らしく、我慢しすぎず。自分の人生だから。
お金では可視化できない、そんな幸せを増やしていこう。
幸せに関しての概念が、ちょっと変わった気がした。
とりあえずはそんな一か月。でした。
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