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批判され続けて出来た人間性の末路

「お前本当にセンスないわww」

「気持ち悪い。うざい。ダサい。」

幾度となく言われ続けた中学、高校の時。あの頃から僕はネガティブな人間から様々な批判とともに通過した分岐点を人生のあらすじとして紹介していきます。

順風満帆だった僕に初めてのトゲ

 現在24歳の僕は、学生業務を終えようとしています。幼い頃から好奇心旺盛で両親がファンであった「サザンオールスターズ」のLIVE映像をキッカケにドラムを習い始めたり、近所の先輩が楽しそうにしている姿を見て始めた野球。
幼い頃から物事を没頭してしまう僕は気がつけば小学校6年生の時に、ドラムでは県の中で銀賞まで登る成績に、また野球では区の選抜チームでのセレクション招集にてエース番号を頂戴することになり、数々の大会で優勝をした。そのままの流れで中学は外部のシニアリーグ(硬式野球リーグのひとつ)に進んだ。周りからの後押しもあり部活動ではなくシニアを選んだ。またこのころから将来はプロ野球選手になると決め、ドラムのレッスンは辞めて野球に専念することにした。

体格が恵まれていたこともあり中学1年生の時には170㎝を超えていた。このころの僕はトントン拍子でうまくいき、エース番号をもらい最後の全国大会では春ベスト16、夏はベスト8という成績を収めた。しかしこの頃から学校生活では最悪な状況だった。小学校の時に同じチームだった同級生がいたが、その人は区の選抜は落とされてしまい、中学では部活動として野球を続けていた。そんな彼からの僕に対する僻みや妬みから生まれた些細な一言が同学年を動かした。

「あいつ実際野球うまくないし、たらこ唇だよなww」

「外部で野球やってて調子乗ってる」

ここから私の中学校生活は最悪なものになった。

 このことが始まったのは中学2年の夏からだった。次の日から当時ヤンキーみたいな人たちも手のひらを反すように当時流行っていた「たらこの歌」を僕が通る廊下にて大合唱。当然クラスの人とはだれ一人話せることはなくよく漫画であるようにトイレで食事を済ませていた。この頃の僕は野球チームに行けば仲間がいたため耐えられた部分はあったが、今改めて思い出すと悲惨だったと笑えてきます。笑

また14歳だった僕はこの環境に対して

‘‘なにも発言しなければ時間は過ぎていくだろう‘‘

と、逃げていたのを覚えていますし、今の自分なら笑顔で言い返していたと思います。

高校に進学。初めての絶望と折り重なる省かれる日常

 中学の野球の成績が良かったおかげで様々な高校からの推薦がありましたが、その中でとある高校を当時のシニアリーグの監督さんが半強制的に行くことになった。しかしそこは有名校でもあるため私はプロを目指すうえで本気で部活に取り組んでいた。

しかしここで僕は人生における大きな絶望を経験することに。

 高校1年生の夏。甲子園出場が決まった際、私はメンバー候補に推薦されていた。私ともう一人同期の選手が候補に挙げられており、同じタイプの人間だった。左利きのピッチャーとして私ともう一人の候補。僕は負けじと発表までの期間本気で練習に取り組んでいた。そこにとあるコーチからの呼び出しがあり、呼ばれた場所に向かうと。

「同じ系統の選手は1人でよいんだよ」と。

約1時間ほどの暴行を受け、私は肉体的にも精神的にもボロボロになった。しかしこんなことは甲子園が決まっている時に報告すべきではないと監督さんにはけがしたと報告。候補からは外され、信頼は失いかけていた。

甲子園が終わり、秋の初めに監督さんに改めて事情を報告。しかしこのころ身体は治っていてもマウンドを見ると吐き気やめまいに襲われ、仕舞にはパニック障害を患っていた。様々割愛はするが、私はここでプロ野球選手になるという夢を断念し退部。先が真っ暗になった瞬間だった。ただ絶望だった。2年生からは監督のご厚意もあり一般のクラスに移動させていただいたものの毎日が暗闇だった。そんな時地元の友達からとあるアーティストのライブチケットが余っているから行こうよと誘われた。本気で楽しめるなんて思っていなかったが仕方なく行かせてもらうこととなった。しかし私はここで人生を蘇らせる歌詞と出会った。

‘‘手に入れた夢は消えて、僕らはまた次を目指していく‘‘

‘‘いつだって今を生きること。ただそれを積み重ねていくんだ‘‘

  涙が止まらなった。それと同時に笑顔が出ていた。

そこで私は決意した。

「この救われた音楽で、今度は誰かを救いたい。」

 とても無鉄砲な決意だった。しかしそれはとても輝いた瞬間だった。

高校2年の夏休みが終えた2学期。私は皆に公言した。人を支えていくと。このころ私立の進学校の中では珍しいちょっとイケイケな男の子が同じクラスにいた。周りに少しの迷惑をかけてしまう厄介者。当然周りから相手にされていなかったが、この人は話せば本当に優しい人でただ不器用なだけだった。

僕は話し相手になった。楽しそうに僕にも話しかけてくれるようになった。しかし彼は親の離婚があり、仕事をしなければいけなくなったため秋に退学した。そこからまた中学と同じようなことが起こった。

「お前キモイ」「うざい」「あんな奴と仲良いとか神経がおかしい」「話しかけるな」「もうあいついなくなったし省こうぜ」

人を支えるために行った行動が、人から軽蔑されることになった。

そしてこの頃、SNSが流行りはじめた頃でTwitterやinstagramといった4大SNSが確立する頃でもあり、ウラで言われている事が多かった。そして僕は中学の頃とまた違った受け取り方をするようになった。

"人の表と裏が見えるようになった"

 表向きでは「面白い!」「いいね!」と言われていても、本当にその気持ちで伝えているかをある程度理解できるようになりさらに人が怖くなった。今でもよく分かる。この人は本当はうまく持ち上げたいだけで何も感じていないんだということを。
しかしこの頃には夢が出来ていたし、新たにそのアーティストのファンの方々と仲間を作ることができたため、片道2時間半をかけて通学してもなんとか乗り越えることができた。

大学に進学。1人で何でもやろうとした。絶望と光を共に見た。

 なんとか僕は大学に進学した。マーケティングを専攻することにした。ただこの頃の私は今までの野球などのチームプレイは捨てて1人で何でもこなして見せるという今となれば誤った選択をしていたが当時は必死だった。

しかしそうはいかなかった。ゼミのクラスメイトの中に中学の時にいじめてきた女の子と、高校の時に影口を言っていた男の子の双子の姉と同じになることが判明した。歳を重ねていてもまた、裏でありもしないことを言われて拡散されてしまうのではないか。そんな恐怖の毎日だったためゼミに力を入れることが出来なかった。ただその反面1人でこなそうとしていた自分は受け取り方に変化があった。

‘‘好き勝手言われても気にしない‘‘

ただこれは諸刃の剣であり、虚勢を張っても1人の時間になれば次の日の恐怖と不安に襲われる。ただここで僕は誰にも相談するという選択肢を選ばなかった。

またこの時、リアルがダメならSNSにと、Instagramを趣味のアカウントとして運営することにした。そこで初めて僕は気持ちが楽になった。

「センス良すぎ」「面白いし優しいね」「素敵な考えを持っているね」

 いままでにない襲撃だった。今までの自分は褒められるということに慣れていないし、そもそもダメ人間だと思っていたし今でもそう思っている。しかし悪の世界と言われているSNSにもこんなにも温かい言葉を何気なくかけてくれる人がいるんだと調子に乗った。気が付けばフォロワー数は当時5000人を超えていた。また同時に、人に頼ろうと心理カウンセラーの先生と出会うことになり、様々なことを教わった。煙草の話や女の話。時には真剣に心理の話をしてくれたり、相談に乗って頂いたり。ありがたかった。今でも仲良くさせていただいている。

 私はより一層、人に笑顔と勇気を与える人間になりたいと思いマーケティングの勉強をしながら心理学、SNSによる統計学や音楽マーケティングを独学で勉強し始めた。良い話も転がり、大学2年生の後半から某音楽企業のインターンシップも裏のツテで行うことができた。

報われた。ここから私はこの道を進んで、人を幸せにするために動ける。

しかしそんな甘い話はなかった。

SNSのフォロワー数が伸びたことによるアンチコメントの殺到。またパニック障害の軽い再発。そしてとどめの一撃かのように大学3年の就活が始まる2日前にインターン及び内々定の取り消し通告。終いにはパニック障害は悪化。学校に全くいけなくなった。

どん底の連続の中に見えた景色とは

 現在24歳。今年度で学生が終了しようとしている。様々な日々があったが何とか一つを終えようとしている。チョコチョコと友人からの誘いで音楽関係の仕事をしていたがそれも6月いっぱいで終了。「ハタカラミレバ」学生ニートというやつである。

 そんなドラマにありそうなシンデレラストーリーを歩んできた私が最後に今の心境をダラダラとめんどくさく書き記していこうと思います。

私は最高の人間であり、魅力的な人間である。

 今はコロナウイルスの影響により、就職活動を行うべきなのだが今は残りの学業生活を専念して終えようとしています。様々な心無い言葉や、悪口を言われ続けました。夢のあと一歩というところで壁を敷かれてしまいました。今手元にあるのは叩かれ磨き続けた心だけです。業績もありません。

ただ私が言えることは

それでも誰かが少しでも前に進めるような人でいたい

 この言葉に尽きると思います。最近よく思うんです。自分にとっての幸せや喜びって何だろうと。今まで受けてきた言葉でたくさん学びましたし成長もできたと思ってます。

「センスない」と言われれば、いろいろ調べて磨いてきたし

「かっこよくない、ブサイク」と言われれば少しでもよくなろうと取り組んだし。

それでも僕は人に刺さる言葉を伝えていきたい。それはなぜかといえば、同じ道を歩んでほしくないし早く気付いてほしいということです。正直報われない自分が本当に疲れてます。笑 努力が足りない。情けない。中にはそう思う方もいると思いますでも私は私なりに取り組んでいます。まだ足りないと思ってあゆみは止めていませんでも疲れています。いま僕は「拾ってください」という段ボールがあるなら迷わず入るでしょう。

Twitterの140文字の中で、人に笑ってもらったり共感してもらったりすることを心掛けています。

最近ではstand.fmという音声配信アプリで皆さんが喜んでいただけるような時間を作るよう心掛けています。

 そんな相手のことばかり考えるのも大事だけど、自分のこともちゃんと考えたほうが良い。と幾度となく言われてきました。すごく心配してくださる言葉でうれしいのですが、考えると行きつく先は相手になるんです。僕にとっての幸せは

‘‘誰かの幸せや笑顔や頑張りが僕にとって最高のご褒美‘‘

 だから僕は今日も誰かのために動きたいと思っています。

最後まで読んでくださったあなたに

 少し重い話から始まり、私の人生を通じて考え方の変化などを今の感情のままに書きましたので読みにくい箇所も多々あったと思われますが、最後まで読んでいただきありがとうございました。真面目なことを言うのは苦手なので、何度も文章を面白くしようと考えてしまいましたすいません。

 これを読んだあなたが

少しでも気分が軽くなった

前向きになれた

力を貸してほしいと思った

といった、あなたの感情を少しでも動かすことが出来たら今日も僕は幸せですし、これを読んでくれた今日という日も僕にとって幸せになっていると思います。また人のためなら全力を尽くせます。人のためならどんな言葉でも音でも写真でも力になります。もし私に力を貸してほしい、相談を受けてほしい。笑わせてほしい。なんでもよいです。そんな気分が晴れやかなあなたの連絡をお待ちしております。






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