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【超短編小説】音つむぐ

 私が幼いころ、私の住む町にある唯一の駅には、誰かの家から引き取ったであろう中古のアップライトピアノが設置されていた。今考えれば、田舎の町に大層なグランドピアノを買うお金なんてなかったんだろう。

 そんなちっぽけなピアノを、毎週土曜日の夕方に弾いていたお姉さんがいた。その人は、夕の優しい西日に輝くブラウンを肩まで下ろしていて、目を瞑って、静かに強く音を奏でていた。

 私は彼女の近くまで行って、興味津々にその指先や彼女の表情に目を向けていた。すると彼女は私に気づいて、「弾いてみる?」と、柔らかな瞳で私の目をジッと見ながら誘ってくれた。

 その日、私は初めてピアノに触れた。彼女のような大きくて、細長い指ではなく、短い丸みのある手で。その感触は彼女が軽やかに弾いていたのもあって、想像より重たかったことを覚えている。

 一緒に来ていた母が申し訳なさそうに彼女に一礼していたが、私は気にも留めず次々と不規則に音を叩いていった。それが楽しくて、その日は結局日が落ち切るまで弾いていたと思う。

 それから私は母にねだって簡単な楽譜を買ってもらった。家にピアノがあったわけではない。そう、あの駅であのお姉さんに教えてもらいたかったのだ。母もその意図を汲んで買ってくれたのだろう。

 毎週土曜日ではあったものの、私は足しげく彼女の元に、母を連れて通った。母はいつも申し訳なさそうに彼女にお菓子を渡していたりしていた気がするが、マナーという文字のなかった自分は必死に彼女に追い付こうとしていたのを今も思い出す。

 それを始めてから3年程度だっただろうか。私は小学校に入学した。親からも、「さすがに1人で行けるでしょ」と、それからは1人で通い始めた。そんなある夏の日。私が初めての夏休みを迎えている時だった。

 彼女はいつもの装いと違って、父の着るスーツのような姿で、ピアノの前で静かにしていた。ブラウンだった髪はセミロングくらいの黒髪になっていた。

 どうしてずっと弾かないのだろうと思って、私は彼女に恐る恐る近づいて、下から彼女の顔を覗き上げた。彼女は泣いていた。音も立てず、誰にも気づかれないように泣いていた。

 ようやく私に気づいた彼女は、「ごめんごめん」と無理な笑顔を西日の影になるように見せた。まだ浅い暮色がいつもより寂しげに感じて、彼女の感情が凍てついているのが分かった。

 だからその日の音色も、くすんだ明るみのない、重く硬い響きだった。私は彼女に「どうしたの?」と聞きたかったが、その日の彼女は悲し気だっただけではなく、何だかピアノに助けを求めているような気がして聞けなかった。

 それを察してなのか、彼女は突然弾くのをやめて口を開いた。「夢を諦めなきゃなんだ」と。当時の私には彼女の夢が分からなかったが、「どうして?」と聞くのはいけないことだと何となく理解できた。

 そしてその日以来、彼女は、お姉さんはパタリと姿を見せなくなった。土曜日の夕方、夏の日暮れにざわめく蝉、さっきまで降っていた夕立。最初は体調が悪いのだろうと考えていたが、その夏が秋風に流されても、彼女は戻ってこなかった。

 それから実った果実が土に還り、何も運ばない風が吹き抜け、真っ白な大地が緑に塗られ始めた頃。彼女は姿を見せた。私は彼女がいなくなったことに慣れて、1人で練習していた。そんな時だった。

 ちょっと久々に見るお姉さんは、ちょっと痩せて、ちょっと俯きがちに私の近くまで寄ってきた。「……元気だった?」と、彼女は突然消えてしまったことを申し訳なさそうに思っていたのだろう。陰りのある表情が、移ろいゆく季節の、温かな西日には不釣り合いだった。

 私は、「うん」と小さく頷き、多分少し不貞腐れて、でも本心は嬉しくて、だから彼女の顔は直視できなかった。彼女は「そっか。ピアノ続けてくれてて、お姉さん嬉しいよ」と、顔をこちらに向けながらも目を合わすことなく、そして笑顔もなくそう呟いた。

 私はそんな態度を取られていても、その言葉が嘘ではないと分かった。何故分かったのかまでは分からないけれど、ただそうだろうと思っていた。「ちょっと弾かせてくれる?」と、彼女が横からお願いしてきたので、私は黙ったまま練習中の楽譜を閉じて席を立った。

 彼女はピアノ椅子に座ると、スゥーっと深呼吸をしてから鍵盤に指を置いた。弾き始めたのは、私が彼女に初めて誘われた日に弾いていた曲だった。

 しかし弾き始めてからすぐ、お姉さんは弾くのをやめてしまった。よく見ると、彼女の指先は震えていた。「ダメだ、やっぱり弾けないや」と、彼女は鍵盤から手を離し、「ごめん、邪魔しちゃったね」とすぐにどいてしまった。

 それを見て、直感的に「あの頃みたいに弾けなくなってしまったんだ」と悟ってしまった。そして悟ったことを自覚した私は途端に自分が嫌になってしまった。どうしてそう思えてしまったのだろうと。気が付くと、目の前には彼女がどいたまま空っぽになったピアノ椅子がポツリとあるだけだった。

 ハッとして辺りを見回してみると、既に彼女はいなくなっていた。私が自己嫌悪に陥っている中、どこかへ無言で去ってしまったのだ。私はそんなことをせず、すぐに慰めのひとつでもするべきだったのではないかと酷く後悔した。

 この出来事以降、そして今日も、お姉さんはこの場所に来なくなってしまった。ただ、私はそれでもピアノを続けていた。彼女がいなくとも、私はいつしかピアノが好きになっていたからだ。

 最初こそ彼女と、お姉さんと弾くことが楽しかったのだが、彼女が来なくなってからは、はじめは寂しかったが、自分も段々と成長して、その寂しさに打ち勝ってしまっていた。この駅に通う頻度も毎週から、毎日へと変化もしていた。

 だから気づけば、ピアノの楽しさだけが残っていたのだった。今ではそこそこ難しいとされているような曲も弾けるようになっていて、音楽の先生からは、「好きでここまでできるなんて本当にすごい。あなたの才能ね」と言われるまでになっていた。

 そして今日も学校帰りに、私はピアノを弾きに来た。秋の物憂げにも感じる夏の匂いを残した風が髪を揺らす。私が今弾いている曲。それは私がピアノとお姉さんに出会ったあの日に聴いた、お姉さんの調べだ。

 深呼吸をして、ゆっくりピアノの鍵盤に指を乗せる。もう短く丸い手じゃなく、お姉さんほどではないが、幼さの抜けた手で最初の音を鳴らす。そして次の音を鳴らす。また次を鳴らす。ペダルで音が重なっていく。

「それ、もう弾けるようになったんだね」

音の重なりで近づいてくる足音に、重音に身を任せていて人の気配に気づかなかった。至近距離で聞こえた声に驚いて、弾く手を止めてしまった。その様子を気にも留めず、後ろからの声は続ける。

「実はそのピアノ、私のだったんだ。大学入ってグランドピアノに変えたから寄贈したの。それで懐かしくなって、毎週土曜日だけ弾きに来てたんだけど、まさか14年経っても弾いている人がいるなんてね」

聞き覚えのある声。私のはじまりの全てをくれた人。突然消えた薄情な人。

「ありがとね、音を紡ぎ続けてくれて」

私は不貞腐れて、多分本心では嬉しくて、懐かしさも重なってきて、ピアノが全然見えなくなっていて嫌になった。

「このままじゃ、弾けないです」

私はピアノ椅子の右半分を開けた。


【あとがき的な】
楽曲や主人公のイメージなどは、全て読者に任せています。

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