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コインランドリーと葡萄(短篇小説)

今回のnoteは藤原による短篇小説です。

夏が終わり、秋も始まらない、その九月七日の午後に、西陽が部屋に入り込み、冷房をまだつけていて窓を開けていないのに、カーテンが少し揺れる、気がする。
君は朝起きた時、季節の変わり目の雨を見ながら、僕に、「洗濯物が溜まっているのよ」とだけ言った。僕は「コインランドリーに行ってくるよ。銭湯の隣の」と言った。君は「そのまま入ってくるの?」と言った。僕は少し迷って、
「それは贅沢すぎるな」
 と言った。
 僕はコインランドリーで僕のシャツや彼女の寝巻きやらを纏めて放り込んで、ドクターペッパーを飲みながら外で煙草を吸った。薄汚れて茶色にも見える白猫が雨宿りに軒下に入ってきたので、僕は煙草の火を消して、ポケットの中を探り、携帯灰皿を忘れたことに気付いたので、諦めてそのまま吸い殻をポケットに入れた。白猫は瞳孔を大きく開けて僕のことを眺めていた。僕は、撫でてやろうか、と思ったけれど、なんとなくやめて、ぼんやり、雨・猫・回る洗濯物の順番に眺めていった。暫くして、通り沿いを軽自動車が走り、水溜りを跳ねた。僕はずぶ濡れになり、ああ、と思っていると、白猫はいつの間にかいなくなっていた。
 帰る頃には雨が止んでいて、通りの人々は傘を刺さないでいるので、僕はずぶ濡れなのが恥ずかしかった。
 部屋に帰ると、ダイニングテーブルに彼女は座っていて、葡萄を食べていた。この前彼女の叔母が僕らの引っ越し祝いに送ってくれたやつだ。彼女は僕を見て、
「なんでそんなに濡れているの」
 とだけ言うと、葡萄の皮を剥く作業に戻った。僕は服を脱いで、持ち帰って洗ったばかりのバスタオルで体を拭いた。拭きながら、彼女の白い両手が葡萄の紫で染まっていく、葡萄の一粒が彼女の口元に運ばれていく、それを眺めていた。
 僕は「本当にこれでよかったのかな」と言いたくなった。
 僕らはこの海沿いの小さな街に東京から引っ越した。僕が東京に疲弊していた、というだけの理由で。彼女が、犬を飼いたい、と言ったのと、僕が、川沿いの街に生まれたからやがて海にたどり着くんだよ、と昔嘯いたので、この街に引っ越そうとなった。
 僕らは昔からよく二人の逃避行の話をした。彼女が、シチリア、と言うと、僕は、シベリア、と言った。あの頃の僕たちはあまりにも生活に縛られていて、それらは言葉遊びでしかなかった。
「貴方も食べたいと思って、分けておいたのよ」
 と彼女が言って、僕はバスタオルを首にかけて、向かいの席に座り、
「手、拭いたほうがいいよ」
 と言って、葡萄を一粒、彼女のように剥かず、実を後ろから押し出すような器用なやり方で、食べた。
 彼女は小さく、食べ終わってから、と言って、食べた。本当に美味しそうに食べるので、僕は、やっぱり君が食べてよ、と言ってしまった。
 そして彼女が葡萄をまた食べ始めて、僕が手持ち無沙汰になって、机の上の彼女が前に花瓶に差した白い花の花弁を弄った。僕はなんとなく色々なことを避けて、本当のことの周りをぐるぐる歩いているような気になって、
「ねえ、これからどうしようか」
 と言った。
 彼女は葡萄を食べ終えて、ティッシュを取って、手を拭きながら、
「私の手、一人暮らしが長かったから、家事で荒れて、ごわごわよね」
「若い女の子の手って、もっと透き通って、白くて、柔らかいのよ」
 と言った。僕は、
「君と出会った時から君の手は変わらないし、僕はその君の手をずっと握りたいと思ってたんだよ」
「話を逸らさないでくれよ」
 と言った。彼女は、
「まあ、犬を飼うのは約束だから、ペットショップには行きたいわね」
 と言った。
 僕は急に馬鹿馬鹿しくなって煙草に火をつけた。僕が不機嫌になってしまったので、彼女は取り合いもせず、葡萄の皿を片付けた。皮を三角コーナーに捨てて、皿の紫を流しながら、
「シベリアが札幌になったような話よ。シチリアがこの街になっただけ」
「ここから、また、あの頃のように、生活に縛られていきたいの、そうすれば、貴方もまた落ち着いてくるわよ。真面目すぎるのよ」
と小さく言った。
「それも、そうだね、そうなのかもしれない」 
 と僕は言った。
 僕は、ただ、なんとなく、その会話だけで満たされてしまった。これでよかったのだ、という気にもなった。僕は煙草を吸いながら、また秋が来るから、衣替えと、そうだ、ストーブでも買うか、と思ったので、
「ねえ、ストーブを買わないか? 僕はエアコンの暖房が苦手なんだ」
 と言うと、
「そうね、犬は寒いのは駄目だから」
 と言った。
 僕たちは、昔は逃避行の話ばかりだったように、これからは大きな犬の話ばかりするだろう、そしてそれがいつの間にか現実になる、暑さにうだる夏が終わって涼しい風の吹く秋が来るように、それでもその秋を引き受けていきたい、僕はそう思う。
 僕が煙草を片付けて「手伝うよ」と言うと、彼女は少し微笑んで、いいから座っていて、できれば煙草を吸って、それを見ていたいの、と言った。

(文責:藤原)

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