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帰省するということ。2023.3.25-27

今回のnoteは藤原による帰省記です。

桜は、人は有り難がって酒を飲みながらそれを見たりするそうであるが、白く咲いたそれは、どうにも、咲き乱れ満開であるというよりも、ぼそぼそと、ぼやけているように見える。
物悲しい、侘しい、といった日常に纏わりつく感情が、並木道の上から散りゆく花弁となって降り注ぐような、そんな気さえする。
一昨日まで、旅行と呼ぶには個人的な、いわゆる帰省というものをしていたのであった。
飛行機で上空から見たり、国道沿いから見たりしたのは、私の住む関東平野にはない、山に自生する桜であって、斜面の所々に咲いたそれは山をぼんやりと染める、淡い水玉のような、見慣れない春の景色であった。
とってつけたように鳥が鳴き、恵まれなかった天候で降る春雨や朝方の春霞が、それらを溶かしていくようで、旅で遠ざけた日常と何度となく来た父の実家の風景が融解し、それすら感じられなくなっていくような気がした。
私の病気や時勢その他様々な事情から、私が広島の地を訪れたのは、祖父が亡くなったあの春の年の夏から実に五年ぶりのことであった。
祖母が施設に預けられ、実家は誰も住んでおらず、荒れ果てているのかと思ったのだが、偶々父親の高校の同級生であったという施設の方が風を通したり掃除をしたりしてくれていたのもあり、私たち家族が寝泊まりするぐらいは、多少の不便もありながらも、訳はなかった。
旅行記というよりは帰省記なのだが、いつもの断片的に書き残してある手記と共に綴るのであって、酷く個人的なものかもしれない。

2023.3.25
今朝午前七時半に起こされ、急いで身支度を整えて荷造りをした後、羽田空港へと向かう。急いでいたのとズボンを履き替えたのとでイヤホンを忘れてしまい、困る。フライトの時間を当日まで知らず、寝不足のままであった。実家で暮らしておきながら、末っ子の僕は肝心なことをいつも知らないで一人で個人的に暮らしている。
ラウンジにてオレンジジュース、アップルジュース、トマトジュースを時間もないのに恥ずかしげもなく続けて三杯飲む。案の定飛行機でトイレに立つことになり、まだ余裕のない未熟者だと悟る。

機内で、同人誌の上がった原稿、一作目の小説、書きかけの小説を読み、集中しきれそうになかったので、続きを書くことはやめて、読み直しつつ原稿を直す。以前より前向きになっているが、この小説には三ヶ月の時間をかけており、なかなかうまくいかない。結論が考え付かず、最終的な締め切りまで一週間もないのだが、そこまで焦ってはいない。以前書いた小説は思っていたより良くなく、今なら書かないことばかり書いてあった。作家が幅広い作品を書くのは人間としての成長もあるからかも知れぬ。

空港に着いた後、レンタルカーで昼飯や旅行中の生活用品を買い揃えるなどして、祖母の施設へと向かう。大叔父のカズおじさん、再従兄弟のユウトも来た。ユウトが来たのは祖母の為もありながら修道大学の友人二人が呉市内の路上で交通事故に遭い、死んだのでその手向の為もあると言う。久しぶりに石川を思い出す。石川が白血病で死んだのは高校二年の時であった。
祖母は思っていたよりは喋れていた。勿論昔の覇気はないのだが、こちらの話もわかるし返答もゆっくりでありながら筋は通っていた。僕が以前飲んでいたのと同じ睡眠薬を飲んでいるようで、ぼうっとしており、頭が重い、しんどい、と口にしていたが、家族の前でなるべく気丈に振る舞おうとするのは祖母らしい姿であった。
施設も感染病対策か換気をしているようで、昔母方の大叔父に会いに行った、あの死の匂いはしないのであった。祖母は祖父が亡くなってから認知症が加速したが、会った感覚として、先は長くはないようだし、もう会えないかも知れぬ。今頃には僕が来たことも忘れているだろう。しかし僕の顔をわかり、言うこと自体は昔のままである姿に胸を打たれた。僕も、まともに生きねばならぬ。

祖父の墓参りに行く。四年半ぶりに訪れたそのロッカールームのような墓には花も線香も手向けられぬ。しかしこの命日に家族三人で手を合わせられたことは慰めになった。ユウトも手を合わせてくれた。思うのは、延命治療の話でのことでもあるが、死に行く者への行動など生き残る者のエゴであって、それ自体は避けようにもなく、また生きる者にとっては慰めのある行為なのである、ということ。

父から祖父の生い立ちを聞く。祖父が原爆を生で見ていること、子供時代に被爆者の死体を埋める作業をしたこと、など祖父から聞いた話もあったが、中学生時に母親を亡くし、父親が不倫をして、逃げるように広島を出たことなどは知らなかった。祖父はやがて東京に出て、上手くいかず広島に戻り、祖母と結婚するのであったが、持ち前の気の弱さと酒浸りの生活で、仕事はどれも長続きしなかったようである。祖母はあの時代に珍しく保険の仕事をして羽振もよく実家を建てたのであった。僕はよく祖父に顔が似ていると言われて育ったし、気弱なところもよく似ている。
祖父が死ぬ間際、入院している際に、祖母はずっと生きて帰ってくると信じて疑わず、気にしていたのは祖父の爪が伸びていることばかりであった。夫婦とはこういうものなのかと何となく思った。

2023.3.26
疲れからかよく眠れ、一度3時に起きはしたが6時まで眠れる。朝飯にすき家で牛皿定食を食べた後、尾道へ行く。文学のこみちと呼ばれる芭蕉をはじめとした文学人の歌などが彫られた石碑のある下り道は、意外にくだらない内容ばかりだった。街は観光客こそ多かったが、商店街は名物の尾道ラーメンの店以外はシャッターが目立ち、閑散としていた。尾道ラーメンは不味くはないが美味しくもなかった。尾道は小津安二郎の「東京物語」をはじめ、数々の映画でロケ地として使われたのであるが、歩いているだけでは分からず、確かに映画というものはそうであったなと思う。
その後しまなみ街道を行く予定が悪天候の為に行き先を変えて広島市街へと向かう。平和記念公園から原爆ドームと反対の吉島通りを抜けて、ドライブマイカーのロケ地、ゴミ処理場へと行く。丹下健三が設計したゴミ処理場は映画で見た通りでかなり良いものがあった。あそこから原爆ドームから風が吹き抜けていることに着目し再生の物語を築いた濱口竜介は優れた作家だと思い知る。カズおじさんも、全く映画など見ないような人間であるのに、見慣れた景色が出てくるからといって、二度あの映画を見たと言っていた。僕は映画を学んで小説を書いてはいるのだが、それを他人に理解してもらえることはかなり少なく、カズおじさんに応援してもらえたのはとても嬉しかった。七十を超えても不動産業をやって一族を支え、ベンツを乗り回す、広島人の豪快さというか、懐の広い人である。
帰りに呉を通ったのでもう一度祖父の墓参りに行く。やはりあの墓は装飾の趣味が悪く、それが僕を不快にさせる。祖父母が選んだと言うので文句は言えないし、東京に墓を持ってくるのも先祖に悪く思えて大きな問題なのだが、祖父をあそこに眠らせておくのはあの黒瀬の大きな墓に参って育った僕にとっては少し辛いものがある。
二日間天候に恵まれなかった。今度来る時は観光ではなく殆ど家の整理かもしれぬ。

2023.3.27
日本百選に入ったという県民の浜まで行く。天候に恵まれ、穏やかな波が陽射しを反射する瀬戸内海は、幼少期の想い出もあり、好きな海なのであった。今書いている小説も海を題材としているので見れたのはとても良かった。
祖母の施設に一度行った後、空港に向かう。
飛行機では原稿をやる気にもなれず、しかし一ヶ月も締め切りを過ぎそうであるので、最近も常に頭から離れないのであるからして、つらつらと物語について考えながら眠る。
僕にとって小説を書くことは、深い重油に満ちたプールの底を這うように泳ぐ、そういったものに近く、それは息苦しく、重たい行為なのだった。日常の忙しなさの中でその行為を断片的に行うことは容易ではなく、次は感覚的なものを書きたい、などと思うのであるが、やはり容易でないことを書くことが僕を成長させるのではないかなどとも思う。
一人称で書いていると、「僕」のことが僕のことだと思われることがあるが、確かに僕の中にない言葉では小説は書けないのであって、しかし彼らの言葉は僕の思考の可能性なのだ、と思う。
近頃はややこしいことを考えたり言ったりすることが増えた。何かを馬鹿にしたり噛み付いたりすることも増えた。どうにも良くない。
三日間家族とずっと顔を合わせていると、実家暮らしで家族に慣れているはずであるのに、随分と疲れた。
一人になりたかった。実家の二階の角部屋で眠りたかった。
そういうことを考えると、やはり僕は人間嫌いの孤独な人物であって、どうにも家庭や社会、集団というものは向いてないように思えるのだが、最近は、皆そうでありながらも懸命に生きているのだ、ということも分かるようになった。
それにしても僕は集団が苦手な方ではあるが。
東京に帰り、ビル群と電車、大量の人間を見て落ち着く。希薄な人間関係の社会に身を置くことで安心しているのだと知る。
地元に帰り、一人になりたくて家族と別れると、堪らず煙草を吸いたくなる。気づけば、確かに事あるごとに吸ってはいたが、なかなか自分の吸いたい時に吸えず、苛ついていたのかもしれない。そこらへんで一服した後、松屋でカレーを食べる。そういえば旅行中、広島名物がお好み焼きなのもあり、炭水化物ばかり食べていた。松屋のカレーは美味い。
百円で売られている慣れた自販機でオロナミンCを買って飲み、家に帰り、猫を撫でると、あぁ、やっと帰ってきたなどと思った。



祖父が五年前に死んだ時、私は多感な思春期の盛りを迎えていて、不安定だった。
不安定な十代の少年が、安定を求めてもがいている間に、祖父の死は形を変えて道標のように現れて、時に私を苦しめ、時に私を慰めた。
祖父母は私が幼少の時から、私が東京に帰る時には必ず手を握ったのであったが、認知症の祖母はそんなことも忘れてしまい、今度は私から手を握ろうとしたのであった。
握り返したその手の力は弱いが、生きているほどだけの力はあり、祖母も私も、もう涙を随分前に枯らした人間であったが、涙を流すのと同じものを感じた。
祖父が死んだ朝、父親が手続きをしている間に、祖父の遺体の手を私は三十分ほど握っていたことを思い返した。膨れ上がったあの手の感触などは、忘れていないと言うには普段から思い返しはしないが、こうしてふいに生々しく蘇ることがある。

祖母は私が帰省する度に「世のため人のためになる人間になりなさい」と言った。祖父は仏壇に参る度に「長男なのだから家族を大切にしなさい」と言った。十代の私は非行もしたし暗闇のような未来にただ足を竦めているばかりであって、その言葉たちは重い縄のように身体に縛られて、帰省する度に申し訳ないような、居た堪れない気持ちになった。
年齢を重ねて十代の多感な時期をなんとかして抜けた今では、それらは縄でありながら僕を倒れないように支えるものにも思えるのだった。
それを大人になると呼べるのかもしれない。
あるいはそれらはあの時吹いていた風であって、私には過ぎ去ったものでありながら、確かに側を通ったものであるのだから、先に書いたように道標でいてくれて私の生活を作っているのかもしれない。
そんなことを以前父親に言ったら、祖母の言葉のそれは何処かの婦人誌で読んだ、福沢諭吉の「学問のすゝめ」の引用を簡単にしたものを、そこまま言っているだけであると言っていて、笑った。父親はそれを知っていて、若い頃は聞き流していたそうであるが、父親は祖母の言葉通りの尊敬できる人間である。
私も普段の言動からは思わないが、案外と真面目すぎたのかもしれぬ。

彼岸というものは暦通りにやってくるのだが、それは彼らがこちらに来るだけでなく、私もあちらへと行って色々なことを思い返すものでもあった。
私にも手記に書いていたように書かなければならないことがあり、すぐに大学も始まるのであり、そして今日も飲み会に行き、くだらない話などしているのであろうが、それもまた私であり、生きるものの務めなのだろうと思った。

桜が咲いている季節は椿の季節にあたり、広い公園に咲いた低木のそれには誰も目を向けないのであったが、桃色の花弁が溢れて絨毯を作り出すそれもまた春の風物であって、その椿を見ながら、いつぞやに見た他の公園の椿を思い返したりもした。
誰も住んでいない実家の、祖父が毎日手入れをしていた庭にも、痩せ細った椿の花が一つだけ咲いていたのであった。
春を生きることは、いつぞやの春を思い返して生きることでもあり、私は何かの重なった今を生きているのだった。
私は壊れたまま面倒で半年ほど経ってしまった時計を直そうか、などと考える。
それもまた、祖父の形見の時計が壊れて、買ったものなのであった。

(文責:藤原)

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