![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/83536804/rectangle_large_type_2_7d24eca1632a46e20084faa4e588ec22.jpeg?width=1200)
サン=ピエール島の日々 【ルソーが到達した境地】
私がこれまで住んだことのある
あらゆる場所の中で、
ビアンヌ湖のまんなかにある
サン=ピエール島ほど、
本当に私を幸福にしてくれたことはない。
その幸福とは
いったいどういうものであったのか?
その楽しさは
何からきていたのか?
尊い『 無 為 』こそ
その快さをのこらず味わいつくしたいと願った
楽しさの第一のものであり、
主要なものであったのである。
わたしのなしたことは〝閑居〟にあった。
昼食後、
まだ人々が食卓についている間に抜け出して、
ひとりで小舟に飛び乗る。
水のおだやかな時は、
小舟を湖のまんなかまですすめ、
そこで小舟のなかで
ながながと寝そべり
目を空に向けて、
水のまにまに
ゆるやかに漂うにまかせる。
ときおり数時間というもの、
漠然とした、
しかし甘美な夢にふける。
このような境地にあって
人は何を楽しむのか?
自己の外部にある
なにものでもなく、
自分自身と自分の存在以外の
なにものでもない。
この状態がつづく限り、
人はあたかも神のように
自分だけで事たりる。
ルソーは、代表作である『社会契約論』や『エミール』を発表した頃から、危険思想を標榜する者として、官憲に追われるようになってしまいました。
『社会契約論』では、自由と平等を重んじ、特権政治を否定する立場を表明していました。
それ以上に問題視されたのは、『エミール』第4巻にある「サヴォア人司祭の信仰告白」にある理神論的で自然宗教的な内容でした。
ルソーがいた時代のフランスでは、カトリック教会を否定する思想は危険思想と看做されていました。
結果、「サヴォア人司祭の信仰告白」はパリ大学神学部から厳しく断罪され、『エミール』はパリ高等法院から焚書とされ、1762年にはルソーに対して逮捕状が出されました。
そのため、彼を追われるようにパリを脱出し、住居を点々としています。
彼が、サン=ピエール島に移り住んだのは、53歳(1765年)の頃と言われています。
しかし、ここも安住の地ではありませんでした。
村民から石を投げられ、それから逃れるようにイギリスに移住しています。
ルソーは、そのような生活の中で精神を病み、被害妄想に苦しむようになってしまいました。
彼が、『孤独な散歩者の夢想』を書き始めたのは、64歳(1776年)の頃だと言われています。
それは折しも、アメリカ独立宣言の年でした。
ルソーが著した「第五の散歩」は、フランス語散文の中で、最も美しい散文とされており、「詩人ルソーの文体の見事さを表している」と言われています。(同書、山口年臣氏による解説より)
人間の本性の善なるを信じ、「自然に帰れ」と主張したルソーは、中国の古典である『老子』や『荘子』の「無為自然」の思想を思わずにはいられませんでした。
特に『老子』の16章にある言葉が、彼の中で思い起こされていました。
虚を致すこと極まり、
静を守ること篤くす。
万物、並び作るも、
吾は以って復るを観る。
湖の真ん中で、一人、舟の中で寝そべり、何時間も 無 為 にいたルソーは、さぞかし幸せの極致にいたのでしょう。
フランス革命に多大なる影響を与えた自著の成功や名声よりも、天地と一体となった静寂に身を任せ、湖面に漂う一人の時間の方が、余程、彼に幸福を感じさせるものだったようです。
この瞬間、ルソーは初めて本来の自分に戻ったことを実感しました。
私の魂は、しばしば、
この地上の大気圏の上に抜け出て、
遠からず
その仲間にはいりたいと念じている天上の霊に、
いまから交わりを結ぶだろう。
これこそ、ルソーの思想の到達点と言えるものなのかもしれません。
タイトル画像:ビエンヌ湖
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?