森有正「思索と経験をめぐって」(講談社学術文庫)
高校時代の自分にとって、「小林秀雄」「三木清」そして「森有正」は、『三種の神器』と呼べる存在でした。
ちょうどその頃、森有正が書いた『思索と経験をめぐって』(講談社学術文庫)が世に出ました。「日本人には『体験』はあっても、『経験』はない。『経験』とは苦しみのともなうものだ」という彼の主張は、私の中に深く残りました。
森有正の代表作『遙かなノートル・ダム』(筑摩書房・昭和42年刊)を知るのは、もっと後になってからのことです。
森有正によれば、「『経験』とは『自己内部』に対立を含むもの」であり、ある種の『促し』をともなうものでした。
自己内部に外部との対立がおこり、自己内部によるある種の『促し』がおこります、それを彼は『変貌』と名づけました。
あらゆる『経験』は、それが真正の経験であれば、『変貌』をともないます。経験はある意味で「不断の変貌」そのものです。
その意味では、固定化の傾向にある『体験』とは、正に対蹠的であると言うことができるでしょう。(『思索と経験をめぐって』所収「変貌」より)
森有正が愛してやまなかった「ノートル・ダム」は、炎の中で崩れ落ちました。それを呆然と見つめていたパリっ子たちのまなざしは、『経験』そのものと言えるでしょう。
日本人にとっては、「首里城の焼失」は『経験』として受け止められても、「ノートル・ダムの焼失」は、一時の『体験』に過ぎなかったかもしれません。
しかし、世界の人々にとって、「ノートル・ダムの焼失」は、『自己内部』の「ノートル・ダム」が崩れ落ちた瞬間=『経験』でした。
この『経験』から、自己内部による『促し』に『変貌』したのでしょう。
それは、「ノートル・ダム再建」のために、何億もの義捐金が、世界中から集まっていることを見ても分かるでしょう。
自分が遭遇している出来事が、『経験』であるのか、『体験』であるのか、今一度、自己内部に問い直してみることこそ、『思索』と言えるのではないでしょうか。