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森有正「思索と経験をめぐって」(講談社学術文庫)

高校時代の自分にとって、「小林秀雄」「三木清」そして「森有正」は、『三種の神器』と呼べる存在でした。

ちょうどその頃、森有正が書いた『思索と経験をめぐって』(講談社学術文庫)が世に出ました。「日本人には『体験』はあっても、『経験』はない。『経験』とは苦しみのともなうものだ」という彼の主張は、私の中に深く残りました。

経験とは、ある点から見れば、ものと自己との間に起こる障害意識と抵抗との歴史である。そこから出てこない言葉は安易であり
・・・(中略)・・・
その根底となる経験がどれだけ苦渋に充ちたものでなければならないかに想到するならば、またどれだけ自己放棄を要請しているかに思いを致すならば、世上に横行する名論卓説は、実際は、分析でも論議でもなく筆者の甘い気分と世渡りと虚栄心に過ぎないのである。
・・・(中略)・・・
体験主義は一種の安易な主観主義に堕しやすいものであり、またそれに止まる場合がほとんどつねである。

森有正著『思索と経験をめぐって』(講談社学術文庫)「霧の朝」P.25

森有正の代表作『遙かなノートル・ダム』(筑摩書房・昭和42年刊)を知るのは、もっと後になってからのことです。

日本文化の在り方をふりかえるならば、そこに体験的要素がきわめて強く、外国から入ってきたものを、その経験の根柢まで掘り下げて思索することをせず、むしろ逆に新しいものを自己の体験で理解しうるものに変化させようとする傾向が無意識のうちに強くはたらいているように思われてならない。

森有正著『遙かなノートル・ダム』(筑摩書房)

森有正によれば、「『経験』とは『自己内部』に対立を含むもの」であり、ある種の『促し』をともなうものでした。
自己内部に外部との対立がおこり、自己内部によるある種の『促し』がおこります、それを彼は『変貌』と名づけました。
あらゆる『経験』は、それが真正の経験であれば、『変貌』をともないます。経験はある意味で「不断の変貌」そのものです。
その意味では、固定化の傾向にある『体験』とは、正に対蹠たいしょ的であると言うことができるでしょう。(『思索と経験をめぐって』所収「変貌」より)

森有正が愛してやまなかった「ノートル・ダム」は、炎の中で崩れ落ちました。それを呆然と見つめていたパリっ子たちのまなざしは、『経験』そのものと言えるでしょう。
日本人にとっては、「首里城の焼失」は『経験』として受け止められても、「ノートル・ダムの焼失」は、一時の『体験』に過ぎなかったかもしれません。
しかし、世界の人々にとって、「ノートル・ダムの焼失」は、『自己内部』の「ノートル・ダム」が崩れ落ちた瞬間=『経験』でした。
この『経験』から、自己内部による『促し』に『変貌』したのでしょう。
それは、「ノートル・ダム再建」のために、何億もの義捐金が、世界中から集まっていることを見ても分かるでしょう。

自分が遭遇している出来事が、『経験』であるのか、『体験』であるのか、今一度、自己内部に問い直してみることこそ、『思索』と言えるのではないでしょうか。

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