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私と、コンピュータ

64歳の誕生日を目前にした、この9月末、サイバー大学IT総合学部を卒業する。政府はIT人材育成に力を入れるといっているが、私を含め、文系60歳以上の、多くの人たちのリテラシーは決して高くないと考えている。
小中高でプログラミング教育が一気に充実しつつある中、「置き去り」にされてはたまらない、と学びを決意した。

還暦、定年というタイミングでプログラミングに取り組んだ私の、コンピュータとの関わりを若い頃までさかのぼり、綴りたい。

ワープロ通信

大学の文系学部を卒業後、この春までざっと40年、地方紙で主に記者として過ごしてきた。電卓などは別にして、その私のコンピュータとの接点は30代初め、業務にワープロが使われ始めたことからだった。それまでは原稿用紙に鉛筆、ボールペンなどで文章を書き、先輩に見てもらい、出稿する段取りだった。入社間もない頃は、先輩記者の筆が入り、文章構成などがずたずたになることも多かった。

当時、郊外の警察署の記者室を拠点に取材活動をしていた私は「原稿は手書きであるべき。ワープロではどこを直されたか、分からなくなる」「自身の推敲の経緯も残らない」と躊躇した。だが、いったん使い始めると、電話回線を使ってデータを送るワープロ通信で一気に記事が送信できる。

利便性に驚き、結果として、抵抗はまったくなくなってしまった。ただ、その後、周囲ではパソコンを買い求め、自身のホームページを作成する仲間もいたが、私の関心は薄く、ワープロ機能だけを使い続けた。

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ウェブとの関わり

そんな私がウェブと関わり始めたのは50歳ごろだった。ネット検索くらいはしていたが、ある日突然、HTMLタグをさわる事態になったのだ。今も使いこなせてないが、当時はまったく何が書いてあるのか想像すらできず、ちんぷんかんぷんだった。 

紙の世界からデジタルメディア部門に異動になったのが、きっかけだ。ニュースサイトの運営などが業務だった。それから定年まで断続的にデジタルに関わった。ウェブ系のシステムの発注では、私にとっては意味不明のカタカナ言葉と格闘した。私のIT知識の不足により、受注側のエンジニアにうまく伝えられなかったのではないかという忸怩たる思いが今も残る。                
    
実は新聞業界のコンピュータ化は私が入社したころから進んでいた。大手紙は1980年前後に相次ぎ、鉛の活字による新聞作りからコンピュータによる新聞づくりへと本格的に乗り出す。多くの地方紙も1980年代後半にはコンピュータによる紙面づくりに踏み切った。    
大手紙を軸にした、このあたりの経緯は、ノンフィクション作品「メディアの興亡(1986年、杉山隆男著)」に詳しい。

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目指せ、還暦エンジニア

振り返ると、コンピュータ化の進む中、私自ら「置き去り」を選んだともいえる。しかし、今からでも遅くない。「できない」「わからない」から脱しよう。早いうちからコンピュータ教育を受けるであろう、孫の質問に的確に答えられ、うんちくもいえる、おじいさんを目指そう、と決めた。

現在、毎週一回、テレビ会議ツールを使ってプログラム言語の勉強会に参加している。私以外はほとんどが20代か30代。若手エンジニアも少なくなく、内容は結構ハードだが、世代や地域を超えたつながりも刺激的だ。
楽しみながら、世界を広げるつもりだ。

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オンやるとアドベントカレンダー2021をお楽しみください。


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