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大河ドラマ「光る君へ」を100倍楽しむために【第1話】

1月はあっという間に終わっていった。新しい年が始まったと思ったらいつの間にか慌ただしく時間が過ぎ去っていく。1月は始まりの月だ。年が明け、気分も新たに、物事が刷新され ――― 新しい大河ドラマが始まる。

今年の大河ドラマは「光る君へ」と言う。
俺は今更ながら録画してあった光る君への第一話を見て、大変面白かった結果、急いで筆を取りこの記事を書いているという次第だ。

あなた方は大河ドラマをよく見るだろうか。
実は俺は大河ドラマをほとんど見ない。歴史は好きだ。なので毎年大河ドラマは俺の興味を引くものの、あまりに長すぎて途中で脱落してしまう。
人の一生は山あり谷ありとは言うものの、それを一年通して何十話に分割し、毎週一時間の物語とするとなるとどうしても退屈なところもでてしまい、結果として飽きてしまう。そんなことを繰り返していた。

だがそんな俺でも、一昨年放送された大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は大変面白く最後まで完走できた。このドラマが一話ごとにストーリーのメリハリがありとても見ごたえがあったことが俺を惹きつけた大きな要因だが、一方で個人的に鎌倉幕府や北条氏といった初期の武家政権に興味があり、リアルタイムで色々調べていたことも視聴継続できた一因だった。

「これ進研ゼミで見たやつだ!」というようなもので、学んだ内容が目の前で展開していく様は見ていてとても楽しい。そしてその気分を俺は今、光る君への一話を見て感じているところだ。俺は運よく少し前からこの平安時代に興味を持ち、ちょうどこの時代に関する書物を読み始めたところだからだ。

そんな光る君への第一話を相当楽しんだ俺だが、ふと不安に思うことがあった。世間の人はこのドラマを俺と同じく面白いと思っているのだろうか。
俺はS・N・Sには疎い人間だ。その辺のインターネットの感想をあまり目にすることは無い。だが正直この平安時代を舞台にしたドラマは、例えば去年の「どうする家康」のような戦国時代のドラマに比べて、その時代を理解する前提知識のハードルが高い気がする。戦国や幕末は大変人気だし、歴史に興味ない人でもある程度のイメージは想像できるだろう。だが平安時代ともなると、なんかよくわからないと言う人が多いのではないだろうか。実際俺もその一人だった。

だが、それではあまりにももったいない。何の面白みも感じなかったシーンが、少しの知識があるだけでとても興味深く見えてくるのが大河ドラマだ。
俺も所詮昨日今日平安時代について学び始めた素人にすぎない。だがそんな俺でもこの大河ドラマの一話を十分楽しめた。この気持ちを是非あなた方と共有したいという思いから、俺はこの記事を書こうと思う。


あなたのわたしの平安時代

前置きが滅茶苦茶長くなったが、あなた方にはもう少し俺の自分語りに付き合ってもらいたい。俺と平安時代との出会いについてだ。

俺がこの時代に初めて向き合ったのは、もちろん紫式部の源氏物語・・・ではなく、清少納言の枕草子を読んだ時だった。当時俺は仕事の休憩時間の暇つぶしを有効活用しようと太平記や平家物語など日本の古典を読んでいて、「まあ教科書に載るぐらい有名な本だし、折角なら読んでみるかぁ」ぐらいの軽い気持ちでこの本を手に取った。

俺が読んだのはちくま学芸文庫から出ている枕草子だった。枕草子といえば「春はあけぼの」で有名な、清少納言が興味をひかれたものを列挙していく『ものづくし』と呼ばれるものや、日常生活の一片を鮮やかに切り取った随筆風なものまで色々な記事がある。一般に有名なのは「春はあけぼの」のものづくしの章段だが、俺の興味を引いたのは宮廷生活の日常を描いた部分だった。

翻訳者の島内裕子氏の手腕によるところも大きいのだろう。この本の中で、平安時代を生きた清少納言の宮廷生活が実に活き活きと描き出されていた。清少納言や中宮定子、藤原道隆といった当時の人物たちは俺も歴史上の人物として知っていた。だが俺はこの枕草子を読んで、彼女ら彼らは実際に千年前の日本に生きて暮らしていた人間なんだと実感させられた。
これが俺が平安時代に興味を持ったきっかけだった。

そんな平安時代を学び始めた俺に衝撃を与えたのが、角川ソフィア文庫から出ている「ビギナーズクラシック日本の古典 小右記」だ。
正直なところ俺はこの角川ソフィア文庫から出ているビギナーズクラシックというシリーズを相当舐めてかかっていた。所詮初心者向けなのをいいことに歴史の表面だけをなぞった薄っぺらい内容なんだろうと高をくくっていた。だが実際は俺の想像の数十倍も上をいった素晴らしいものだった。

小右記は正に「光る君へ」の時代を生きた人物である、藤原実資ふじわらの さねすけが残した日記だ。日記なのだからその内容はその日にあった出来事や宮廷行事などについて淡々と書かれているだけで、これだけ読んだらとても面白いとは思えないような内容が続いている。

だがそこに翻訳者である倉本一宏氏の解説が入ることで、当時の平安貴族たちの生活や人物像が鮮やかに浮かび上がってきていた。著者の藤原実資や、当時の権力者藤原道長、一条天皇などなど、「光る君へ」に登場するであろう人物たちの名前を知り、キャラクターを掴むうえでも是非お勧めしたい一冊だ。「光る君へ」の世界観を理解する手がかりへの第一歩として頼みになるに違いない。ちなみに著者の倉本氏は「光る君へ」の時代考証も担当している。

個人的にはこの小右記の著者である藤原実資が「光る君へ」の物語にどうかかわってくるのかも気になるところだ。紫式部の物語なら実資が関わらないはずがないのだから。絶対に。

陰陽師・安倍晴明

前置きが長くなったが、ここからドラマ本編の内容について見ていきたいと思う。まずドラマの冒頭、いきなり登場したのが安倍晴明あべの はるあきらだ。


安倍晴明と言えば陰陽師の大家として多くの人が耳にしたことがあるはずだ。式神や使い魔を操り、謎めいたマジカル・パワーを駆使して敵を倒す。そんなイメージをもつ安倍晴明は小説やマンガ、アニメやゲームにもってこいの怪しい魅力を持つキャラクターだが、歴とした実在の人物だ。

名前も実在の人物らしく「セイメイ」ではなく「ハルアキラ」と呼ぶ。普通人の名前は音読みしないものだ。道長だって「ドウチョウ」ではなく「ミチナガ」と呼ぶように。ではなぜ現代ではセイメイ呼びの方が有名なのかというと・・・俺には分からない。だが何となく想像するに、安倍晴明というキャラクターが時代が下がるにつれ人気になっていったからなのかもしれない。

例えば江戸時代は漢文の教養が幅広く一般化し、空前の中華ブームが巻き起こっていた時代だ。現代人がアメリカ文明に憧れて何でもかんでも英語読みし、社長をわざわざC・E・Oと言い換えたりSDGsだとかDXだとかESGだとか字面では意味が分からない言葉を使いたがるように、江戸時代には中華文明への憧れから名前を中国風に読むのが流行ったりした。この時代の影響を受けて、晴明もハルアキラではなくセイメイと呼びようになったのかもしれない。

江戸時代の中華ブームと源氏物語

正直全く根拠もない話なので、全然的外れな事を言っているかもしれない。だがこんな話をわざわざしたのには理由がある。江戸時代には紫式部の源氏物語も広く受容されたが、さっきも言った中華ブームの煽りを受け、様々な「解釈」が行われもした。中国の思想と言えば真っ先に儒教が挙げられるが、儒教というものは教祖である孔子の言動に対して様々な解釈が行われる学問だ。孔子が記したとされる「春秋」という歴史書がある。これ自体は何の変哲もないただの記録の積み重ねなのだが、儒教ではこの簡素な記録から、「孔子の隠された真の意図」を読み取ろうとする。偉大な孔子ならあらゆるものに意味を持たせているに違いないということで、この漢字を使っているのは孔子の隠された意図があるからだとか、この行間で孔子は実はこう考えているんだとか、そういう解釈を経て儒教は発展していった。

やりすぎると今流行りの陰謀論に発展しそうだが、影響力のある思想というのはどれもそうやって成長しているものだ。キリスト教もイスラム教も仏教も、教祖の言葉を記した「原典」を持ち、それに人々が「解釈」を加えるという、高度な知的作業を経て世界的な宗教へと広がっていった。そして当時の日本人たちにとって、この「解釈」というものがとてもカッコよく映った。それもそうだろう。現代でも「この書物には隠された真実がある」なんて言われたら思わず気になってしまうものだ。

そんなわけで、この源氏物語も中華風に理解しようとする人々が現れた。源氏物語は実は勧善懲悪の話で、浮気を戒めるために書いた本だとか、紫式部は実は仏教の秘法を修めた人物で、人々を仏道に導くために書かれただとか、一見すると何だかもっともらしい、格式ばった意見がもてはやされた。源氏物語という名前も紫文とか源語とか中国風に呼ばれたりしていた。

そんな小賢しい説を信奉する人々に待ったをかけたのが、江戸時代の国学者、本居宣長もとおり のりながだ。宣長の主張はこうだ。
「物語の隠された真実なんて存在しない。書かれていることをありのままに受け取って読め」
光源氏が恋をするのもただその女性を好きになったからであり、そこに変な意味や隠された意図など存在しない。年老いた光源氏が仏教に帰依するのも当時がそういう社会だったからで深い意味など無い。注目するべきなのはそういう格式ばったところではなく、登場人物たちの心の機微、心の動きであって、「もののあはれ」と称されるこの心情こそ源氏物語の要である、というのが本居宣長の主張だった。この「もののあはれ」論は今でも日本の文化を理解する大事な思想として受け継がれている。

話が長くなったが、千年前に紫式部が書いた源氏物語は、このように様々な受容を経て、現在まで伝わってきているのだ。

陰陽師のお仕事

余談が過ぎたので話を安倍晴明に戻すが、陰陽師と言えば聞いたことはあるもののどういうものなのか知らないと言う人も多いのではないだろうか。日本版の魔法使いみたいな理解の人もいるだろう。それも間違いではないが、平安時代の陰陽師とは歴とした職業であり、陰陽寮という国の役所に仕える公務員というのが陰陽師の正体だ。そして怪しい呪いや祈祷を行ったりもすることはするが、その本分は星を見て吉凶を占うことで、天文学者とも言えるかもしれない。

星を見て吉凶を占うというのは、その起源はこれまた中国にある。中国では星の動きや自然の変化を非常に重視していた。日食があった、彗星が流れた、地震があった、大雨が降った・・・これら自然の動きは意味があるものであり、すなわち天からのメッセージである、という風に考えたのだ。そのため後々には、皇帝が悪政を行うと天が警告として災害を起こすという思想が、中華帝国の中で受け継がれていった。古代日本は国家作りのお手本として中国から学んだので、この災異思想と呼ばれるものも日本に伝わり、陰陽寮という星の動きを見る役所が生まれたという訳だ。

そういう訳だから陰陽師は呪術的なあれこれもやることにはやるが、あくまで本分は天文関係だ。当時の日本ではすでにかなりの天文知識があったようで、日蝕がいつ起こるかということがかなり正確に予測されており、当時のカレンダーにあらかじめ日蝕の日が書き込まれていたりした。「古代人は未開だから日蝕ごときで右往左往する」というイメージがあるならばそれは正確ではないということだ。

ちなみに安倍晴明は陰陽寮で天文博士という職についており、天文現象に異常が見られたら密かに天皇に報告する天文密奏テンモンミッソウと呼ばれる仕事があった。平安時代の歴史ワードの中でも屈指のカッコいい響きの単語だと思う。

華麗なる一族・藤原氏

話を進めよう。ドラマが進むにつれ、主人公のまひろや父の藤原為時、父の友人である藤原宣孝、そして権力者一家の藤原兼家と、これでもかと藤原が登場する。何も知らない人からするといきなり面食らうのではないだろうか。そこで折角だから藤原氏というものについて話したいと思う。

藤原氏といえば、貴族の頂点として日本社会に君臨した一族だ。知っている人も多いだろう。そしてこの「光る君へ」の時代は、まさにその藤原氏の繁栄が確たるものになろうとしている時代なのだ。

現在の国の中心と言えば国会や内閣、もしくは大企業なんかが該当するのかもしれないが、平安時代の社会の中心と言えば天皇をトップに頂く朝廷という組織だ。当時は職業選択の自由なんてないので、貴族たちは皆が朝廷に仕え、少ない役職の席を必死に争うことになる。そんな出世レースのゴールになるのが、平安時代の内閣にあたる太政官の職であり、平安貴族たちは誰もが太政官の大臣となることを夢見ていた。

国家の柱石・太政官

太政官とは朝廷のトップに当たる組織で、重要な政策を決めて実質的に国を動かす人々がここに所属した。序列で言えば上から太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議・・・となっており、その下に弁や史や外記とよばれる事務官がいた。この太政大臣から参議までがいわば国策会議に出席できる主要メンバーであり、それ以外の役職の人と比べたら、いわば官僚と国会議員ぐらい身分が違う。ただの事務官の官僚より国民の代表として政治を行う国会議員の方が当然社会的な重要度は重い。

そんな太政官のメンバーの中でも、特に皆の憧れだったのが大臣の地位だ。大臣の中で最上位にある太政大臣は適任者がいない場合は任命されない決まりだった。常設ではないという事は、いてもいなくても変わりない存在ということだ。そういう訳で最高位である太政大臣は名誉職であり実権がなく、実際の政務を取り仕切る、事実上のトップはその下の左大臣だった。次席の右大臣、それに次ぐ内大臣と合わせてこれら三大臣を三公と称し、当時の貴族たちから特別視された存在だった。同じ太政官のメンバーでも、大納言の役職は最大でも八人まで任命されたのに対し、大臣のポストは一つの役職に対して一人しか任命されない。あまりにも狭き門、ゆえに特別な地位。男に生まれたならばと平安貴族たちが誰もが憧れたのが大臣の位なのだ。

藤原氏の祖は、845年の大化の改新で中大兄皇子を助けた中臣鎌足から始まる。当時の日本は国家作りの真っ最中だ。中大兄皇子、のちの天智天皇の側近だった鎌足や、その息子で長きに渡り国家の重鎮として活躍した藤原不比等。日本という国が形作られた時代に政治の中枢で活躍した藤原一族は、その後も国家の重臣として枢要を占めた。

だが、必ずしも朝廷の上層部が藤原氏だけで独占された訳ではなかった。主要な地位は藤原氏や皇族出身者が占めてはいたが、わずかに他氏の栄達の道も残されていた。天神様として太宰府天満宮などで祀られている菅原道真のように藤原氏以外で大臣の位にまで登るものもいたものの、結局彼らは藤原氏によって排除されていった。そうした藤原氏による他氏排斥が進んだ結果、大臣だけでなく大納言や中納言と言った太政官の位を藤原氏でほぼ独占するようになったのが、「光る君へ」の舞台となる平安時代中期の情勢だ。

ロイヤル家族・源氏一家

ドラマの中でも朝廷のシーンが出てくる。当時の朝廷の中心にいたのは関白・藤原頼忠、左大臣の源雅信、右大臣の藤原兼家だ。

三公の一人、源雅信

左大臣と言えば太政官のトップ。その地位に藤原氏以外の人間が就いているじゃないかとあなた方は思うかもしれないが、源氏というのは他の氏族とは違った存在なのだ。源氏と言えば先の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも登場した源頼朝や源義経など、武家としての源氏が有名だろう。だが源氏というのはそれだけが全てではない。むしろ武家としての源氏は朝廷から見れば傍流の存在であり、朝廷の大臣にまで上り詰める源氏とは別物だ。

実は源氏の中では大した存在ではない鎌倉殿こと源頼朝

そもそも源氏とは、皇族の人間に与えられる姓だ。日本において姓、つまり名字とは、自分がどの一族出身なのか、どこの土地の人間なのかというのを示すものだった。日本人なら誰もが名字を持っているが、そんな中唯一名字を持っていない一族が存在する。天皇家だ。伝承上の日本列島の創造から連綿と続くとされる天皇家には、他者と区別をつけるための名字は不要という訳だ。そんな天皇家であるが、多くの者は皇位に着けないまま一皇族として一生を過ごすこととなる。そのうち皇位継承権を失ったものが名字を与えられ、皇族の地位を失い臣籍降下する。こうした臣籍降下した元皇族に与えられる名字の一つが源氏だ。

そういう訳で源氏と言ってもピンからキリまで存在する。左大臣源雅信のように祖父が天皇だったようなロイヤルな家もあれば、鎌倉幕府を興した源頼朝のような何代も前にさかのぼってようやく天皇にたどり着く、すっかり落魄した一族まで、数多くの源氏が存在する。そのため同じ源氏という名字だからといって同じ一族と考えるのは大きな誤りだ。藤原氏と対抗する源氏という一大勢力がいたわけではなく、その時々の皇族出身者が朝廷の有力者として藤原氏と並んで立っていたというのが実情だ。

源氏物語という名前が示すように、この本の主人公である光源氏は源姓を持っている。だがこれは光源氏の父親が天皇であり、生まれてすぐに臣籍降下したため源姓を与えられたというだけに過ぎない。光る君の特殊な生い立ち、ロイヤルな貴公子というキャラクターを現すための設定なのであって、光源氏の元ネタになった人物が実際の源氏の中にいる訳ではないと俺は思う。

藤原一族のライバルたち

藤原氏の話に戻ろう。
先にも述べたように、「光る君へ」の時代は藤原氏による朝廷支配が完成しようとしている時代だ。太政官の大臣職は勿論のこと、大納言や中納言と言ったポストまでほぼ藤原氏によって占められるようになっていた。

ここでドラマを見ていて疑問を持った方がいるかもしれない。藤原氏の全盛期という割には、主人公まひろの父親・藤原為時一家は随分と困窮していたではないか、と。

まひろの父、藤原為時

この疑問に対する答えは簡単で、藤原氏はものすごく数が多いので同じ藤原でもほぼ他人の間柄なのがほとんどだという事だ。例えばドラマの中で出会ったまひろと少年道長は同じ藤原氏ではあるが、道長から見たまひろ一家は父(兼家)の父(師輔)の父(忠平)の父(基経)の父(長良)の父(冬嗣)が同じというのに過ぎない。六代前まで遡ってようやく共通の先祖にたどり着くような間柄を、我々はほぼ他人と呼ぶ。

そういう訳なので、道長一家のように権力の中枢にいる藤原氏がいる一方で、まひろの家のようなその日暮らしにも事欠く藤原氏もいるという事だ。道長の父である兼家が右大臣という太政官の大臣職を得ている一方で、まひろの父・為時は式部丞という役職を希望するもあえなく落選している。先の太政官の話で官僚と国会議員の例えをしたが、式部丞という役職は式部省という役所の副官的ポストで、正に一官僚に過ぎない地位でしかない。現代的にはそれでも十分エリートに見えるだろうが、やはり大臣になるような家柄と比べるとその立場には雲泥の差がある。ここからも、同じ藤原氏でもピンからキリまで存在するという事がよくわかるだろう。

さて、そんな政治の中心を支配する藤原氏はもはや向かうところ敵なしのように見える。ところがドラマの中で道長の父・兼家はしきりに一族の命運を危ぶみ、さらに成り上がろうと必死になっている。

おや、すでに政権は藤原氏が独占したのではなかったのか?
そう思う方もいるかもしれない。確かに長い権力闘争の末、この時代にはすでに太政官の要職をほとんど藤原氏が占めていたというのは先に話した通りだ。すでに藤原氏の敵はいなかった。これでようやく平穏が訪れたのだろうか。答えは否。外敵がいなくなったなら、次に始まるのは藤原氏内部での権力争いだ。

何度か言っている通り、「光る君へ」の時代は藤原氏の繁栄が確たるものになろうとしている時代だ。藤原氏の朝廷支配が『完成しようとしている』時代であり、まだ完成していたわけではない。藤原氏の敵はいなくなった。では誰がその無敵の藤原氏を率いていくのか。貴族の頂点たる藤原氏の、一族内の頂点の地位を争って、各家が熾烈な権力闘争を繰り広げていたのが「光る君へ」の世界なのだ。

先に言った通り、藤原氏は数が多い。同じ藤原姓と言ってもほぼ他人のようなものだ。右大臣にもなった藤原兼家にとって、藤原為時のような傍流も傍流な藤原氏など脅威でも何でもなかった。むしろ恐ろしいのは自分と近親の、親戚兄弟たちが出世のライバルとなる事だった。ここからは「光る君へ」の世界の、有力藤原氏一族について見ていきたい。

栄華を極める:兼家一族

まずはこのドラマの主役の一人、道長が属する藤原兼家一家から。
藤原兼家は父・藤原師輔の三男。藤原師輔ふじわらの もろすけという人物は兄の藤原実頼ふじわらの さねよりに一歩遅れた形で朝廷に仕えていたが、娘を天皇の后にする事で権力奪取に成功。「光る君へ」の世界の中で有力な藤原氏というのはほとんどこの師輔の子孫ということになる。そんな師輔の三男だった兼家は、一つ上の兄・兼通との熾烈な出世競争を繰り広げる。ドラマ1話の時点では兄・兼通はすでに亡く、念願の右大臣に出世するなど、正に権力の頂点に上り詰めようとしている段階だ。

権力の頂点へ上ろうとしている男、藤原兼家

そんな我が世の春を謳歌しようとしている兼家の家族として、三人の息子たちが登場する。長男の藤原道隆は父・兼家の後継者として期待される度量の大きい人物で、次男の藤原道兼は兄の下に甘んじることを良しとしない野心家。そして三男の藤原道長は、ふらふらと遊び惚けるボンクラ息子だった。作中では兄弟仲はあんまりよろしくない感じだが、そもそも父親の兼家自体が兄を押しのけて出世したのだから、兄弟だからといって仲がいいとは限らない。むしろ兄弟は最も身近な出世のライバルとなるのが平安貴族の常だったのだ。

兼家一家

そしてそれは兼家一家といえども例外ではない。この一見したところ出世争いに興味が無さそうな道長も、のちのちには兄・道隆の息子たちと激しい権力争いを繰り広げることになるのだ。

貴族の本分:小野宮一族

権力の頂点に上り詰めようとしている兼家一族。だが周囲の人々がそれを黙ってみているはずがない。ここからはそんな兼家一家のライバルとなる人々について見ていきたい。

まず最初に上げるのが、小野宮流藤原氏と呼ばれる一族だ。先に述べたように、兼家の父・藤原師輔ふじわらの もろすけには兄がいた。それが藤原実頼ふじわらの さねよりと呼ばれる人物だ。師輔の兄である実頼は当然藤原氏のリーダーとして率いる立場にあったのだが、自分の娘を天皇の后として送り込む後宮争いでは弟・師輔に遅れを取り、政治の実権は師輔の息子である兼家らに奪われていった。

だがしかし、一時期遅れを取ろうとも、藤原氏の序列としては長男である実頼の方が弟・師輔の一族より高いに決まっている。そういう風に考えて密かに勢力挽回を企むのが実頼の子孫となる小野宮流の一族だ。小野宮流という名前は実頼の屋敷が小野宮邸と呼ばれていたことに由来する。

ドラマの中で登場したやたら声が小さい人物である藤原頼忠は実頼の息子だ。作中では関白という、天皇の親戚のみが就ける地位にあり、正に朝廷のトップとして君臨すべき立場の人間だ。だが実際のところ、頼忠の権力は弱かった。関白とは基本的に天皇の外戚に当たる人物が就任する地位だ。外戚とは天皇にとって祖父にあたる人物を指す。つまり自分の孫が天皇となるのだから、関白の権力も絶大となるという訳だ。ところがこの頼忠という人物、関白の地位にありながら天皇の外戚ではなかった。

苦労人っぽい雰囲気ただよう藤原頼忠

話は道長の父・兼家と、兼家の兄である兼通かねみちの兄弟間の確執から始まる。この兄弟はとにかく仲が悪かった。天皇の叔父である立場から関白の位についていた兼通はとにかく兼家が権力を持つことを牽制し、従兄である頼忠を頼りとして何事も相談していた。そして兼通の晩年、関白の位は兄弟で同じく天皇の叔父である兼家に譲るのが道理のところを、兼家憎しのあまり盟友である頼忠に譲ってしまった。

そんなわけで棚からぼた餅的に関白の位をゲットした頼忠であったが、やはり外戚という血のつながりがない状態では、名ばかり関白となるしかなかった。そして目の上のたんこぶだった兄・兼通がいなくなった兼家は、徐々に政治の実権を奪うようになっていく。

小野宮流の他の有力者としては、最初の方でも語った小右記の作者である藤原実資ふじわらの さねすけが挙げられる。実資は小野宮流の祖である実頼から見たら孫、関白頼忠からみたら甥にあたる人物で、世代で言えば道長兄弟と大体同世代となる。朝廷の儀式に詳しく、学識の深い実資はライバルである道長からも一目置かれる存在だった。ほぼ確実にドラマにも登場するだろうから、詳しい話はその時にしようと思う。

関白頼忠の息子・藤原公任ふじわらの きんとうもこの時代で覚えておくべき人物の一人だ。先にあげた実資とは従兄弟の関係に当たる小野宮流の人物で、当代一の教養人として名を馳せた。紫式部が書いたとされる日記「紫式部日記」の中に、宴会で酔っぱらった公任が紫式部に、「このあたりに若紫はいませんか」と声をかけた、という逸話が残されている。紫式部が源氏物語の作者だとされる根拠の一つとなるエピソードだが、いつかドラマの中でも触れられるかもしれない。

小野宮流にはこの他にも、書家として名を成した藤原佐理ふじわらの すけまさがいたりして、文化教養方面に強い貴族らしい貴族という特徴があった。また財産の面でも相当なものがあったらしく、落ち目とは言えども道長たちにとって決して侮れない一族であったと言える。

藤氏嫡流:伊尹一族

道長たちのライバルは小野宮流の一族だけではない。最も身近な政敵たちは、父・兼家の兄弟たちだ。道長からは祖父にあたる藤原師輔は、何度か述べている通り後宮争いに勝利して息子たちの出世の道を切り開いた。そんな師輔の息子たち、道長から見たら叔父にあたる人々は、師輔の後継者たろうとしてその跡を争った。

師輔の長男は藤原伊尹ふじわらの これただといった。順番で言ったら伊尹こそ父・師輔の後継者となるべき存在だったものの、政権を手にして程なく病死してしまう。さらに伊尹の息子たちも流行り病で若くして亡くなり、政治の実権は伊尹の弟である兼通のもとへと移ってしまう。本来なら藤原氏嫡流の家柄であるはずの伊尹一族は遅れを取り、伊尹の五男であった藤原義懐ふじわらの よしかね花山天皇かざんてんのうの外戚として勢力を巻き返そうとするが、兼家親子との権力闘争に敗れ、やがて没落していった。

伊尹流の一族の中で特に記憶すべき人物として、藤原行成ふじわらの ゆきなりの名が挙げられる。行成は伊尹の孫に当たり、本来なら藤原氏嫡流となるべき存在であったが、幼くして祖父と父を失い、さらに先に述べたように叔父・義懐が失脚すると、行成は政界の中で天涯孤独の身となってしまった。こうして出世の道を絶たれた行成であったが、この人はとにかく有能な人間だったようで、歴代天皇の信任も厚く、道長からも側近として頼りにされた。また、書家としても名高く、世尊寺流という書道の流派の祖にもなった。そして、小右記と並ぶこの時代の貴重な記録である日記権記ごんきを残したことも特筆に値するだろう。

兄より優れた弟などいない!:兼通一族

続いて師輔の次男、藤原兼通ふじわらの かねみちの一族。
何度も言った通り、兄・兼通と弟・兼家は犬猿の仲で、兼通存命時は順調に出世していた兼通の息子たちも、兼家が政権を執ると昇進も停滞した。そんな中で兼通の三男だった藤原朝光ふじわらの あさみつは、明るい性格と酒好きな一面から、同じく酒好きだった道長の兄・道隆と仲が良く、同じく酒好きだった藤原済時と酒飲み三人衆として道隆政権を支えた。朝光は病によって若くして亡くなるが、その後同じく病に臥せった道隆が極楽往生を勧められた時、その極楽とやらに朝光や済時がいるのなら喜んで行こうと答えた、という逸話が残っている。

兼通一族の中でもう一人注目すべき人物が、兼通の長男・藤原顕光ふじわらの あきみつだ。兼通の長男ながら出世を弟の朝光らに遅れを取っていた顕光だったが、疫病の流行により朝廷の高官が次々亡くなり、弟・朝光も病没すると、顕光はこれ幸いにと政治の中心へ躍り出た。道長が左大臣として政権のトップに君臨すると顕光は右大臣となり、長らく道長政権のナンバーツーの位置に踏みとどまった。

右大臣にまでなったのだからさぞかしデキる男なのだろうと思いきや、顕光は無能者として朝廷内でも有名だった。粗忽で空回りばかりする顕光は他の貴族(特に実資)から嘲笑を買い、後宮争いでも敗北するなど、踏んだり蹴ったりな逸話が多くちょっとかわいそうになるくらいだ。多分無能で人望のない人物だからこそ道長は顕光を右大臣という自分の次席に据えたのではないかと勘繰ってしまう。

これ以上語っていると終わりがないので巻きに入るが、他にドラマの中で重要な役を演じそうなのと言えば、師輔の九男で兄・兼家と争った藤原為光やその息子でイケメン文化人として名を馳せた藤原斉信ふじわらの ただのぶ。さらに師輔の末子で、道長政権下で内大臣を務めた藤原公季ふじわらの きんすえなどなど、挙げはじめるとキリがない。いい加減長くなるので藤原一族の話はこのあたりで終えて、次の内容に移ろう。

藤原道長という男

「光る君へ」の主人公はまひろこと紫式部だが、おそらくもう一人の主人公になるのが藤原氏の栄華を完成させる男、藤原道長だろう。ドラマの中で描かれる少年道長はふらふらしていて何だか頼りない感じ印象を受ける。とても将来貴族の頂点に立つ男には見えない。だがそれもそのはず、この時点で道長は自分がそんなに偉くなるとは考えもしなかったに違いない。

少年道長

そもそも道長には兄が道隆・道兼と二人おり、父・兼家も長男の道隆を後継者と見ていた。最も兄弟争いは藤原氏の常なので、道長もいずれは出世の道を歩もうと密かに考えていたかもしれない。だが実際には道長が政治の表舞台に現れる時が思いのほか早く、それも思ってもみない形で訪れることになる。

作中で少年道長がまひろに対し、「俺は自分の名前さえ文字で書ければ十分なんだ」と話すシーンがある。実は現実の藤原道長も勉強嫌いだったようで、道長が残した日記「御堂関白記」を読むと、誤字や脱字、文法的におかしい文章がそこかしこに散見される。当時の公文書は全て漢文であり、この日記も漢文で書かれている。現代でも漢文を書けと言われて書ける人は数少ないと思うが、それは平安時代でも同じこと。いかに貴族だろうと、訓練していないと書けないのが漢文だ。貴族の頂点を目指すなら当然学んでおくべき知識であるが、おそらく道長は「自分は三男坊だしそんな本腰入れて勉強しても無駄だろうなあ」ぐらいの気持ちだったのかもしれない。

同じ日記でも、藤原実資の小右記や藤原行成の権記などは流石当代きっての教養人たちといった感じで細かいことまできちっと記録されている。それと比べると、道長のだらしない面が見られてこれはこれで面白い。時の最高権力者・道長の意外な一面だ。

ちなみにドラマの中ではもっぱら三兄弟として描写される道長兄弟だが、実際には母親違いの兄として藤原道綱という人物がいた。この道綱も勉強嫌いだったらしく、他の貴族(特に実資)から阿呆呼ばわりされるのだが、弟・道長とは仲が良かったらしい。出世が期待できないという似た境遇でもあったし、勉強嫌い同士通じ合うものがあったのかもしれない。

紫式部は何を思う

最後にこのドラマの主人公、まひろについて触れよう。
ドラマの1話から母親が道長の兄・道兼に殺されるという衝撃的な終わりとなったが、当然これは実際の出来事ではない。というかそもそも、紫式部の生涯はそのほとんどが不明なのだ。

当時、女性の生涯の記録など無いに等しい。流石に天皇の后だとか母親だとかになると、亡くなった日時や年齢などが記録に残されるものの、逆にそこまでの身分でもないと、いつ死んだのかはおろか、名前さえ分からないということがほとんどだ。紫式部もその例に漏れず、本名も生年月日も分からない。唯一、紫式部の存在が記録に残っているのが、藤原実資の日記である小右記のとある記事だ。ある日、皇后お付きの女官に会ったが、この女性は藤原為時の娘だった・・・という小右記の短い一文のみが、紫式部が実在したことを証明するただ一つの史料なのだ。

本名も不明なのでまひろという名前もこのドラマオリジナルのものだ。そんな分からないことだらけの紫式部であるが、そんな人物をどうやって大河ドラマで描くのかと、不安に思う方もいるかもしれない。だが逆に言えば、歴史のしがらみに拘ることなく、自由に藤原氏全盛のこの時代を描写することができるという事でもある。もう一人の主人公・道長によって歴史の経糸を辿り、歴史に囚われないまひろによって物語の横糸を紡ぐ。そんな風に平安時代という歴史の一片を、このドラマで描いてくれるのではないかと俺は期待している。


思いのままに記事を書いていたら、とんでもない長さになってしまった。偉そうに色々書いたものの、所詮俺は平安ニュービーにすぎないし、知らないことの方が多い。そんな俺でも光る君への1話は楽しめたし、次回以降も気になっている。正直2話以降の記事を書くかどうかは分からないし、このドラマを完走できるかどうかも分からない。

だがそんなことは今はどうでもいい。今の俺が願うのは、一人でも多くの人が俺と一緒に「光る君へ」のドラマを楽しんでくれることだけだ。

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