見出し画像

短篇小説:『孤独』

 その日も十時四十五分に待ち合わせていた。僕が駅につくと、彼女は身体を壁にもたせかけてうつむいていた。ゆっくり近づくと彼女は顔をあげた。僕は言葉なしに、にこりとした。彼女もにこりとした。駅にはさめざめとした人の往来があった。
 とくに予定はなかった。今日はどうしようか、ということになった。
 いつものように僕の家でゆっくりしようか。
 それともどこか特別なところへ出かけてもいい。ここは駅で、少し行けばあの浜だってひらけているのだから。
 僅かな言葉があって、今日も僕の家でゆっくりすることにした。そのように二人で決めた。彼女は柔らかい表情をした。それじゃあ行こうとなって歩き出し、何気ない調子で僕はその白い手をつかまえた。しかし彼女はむずがった。いくらかはそうしていたけれど、風に吹かれるように離れてしまった。

 あとになってから、彼女は内緒話を聞かせてくれた。
「ねえ、わたし、外で手を繋ぐのって耐えられないの」
「とても、恥ずかしくて」
「ごめんなさい」
 姿見に背中を向けて話す彼女は縮みこんでいて、純朴だった。
 僕の胸くらいまでの高さしかない。
 つぶらな瞳、ふっくらとした頬。
 愛らしい、きっとあなたもそう思っただろう。

 今日のように陽の綺麗なとき、駅から歩いていく景色は素晴らしかった。僕はそのことで話をしてみせた。「駅から歩いていく景色は素晴らしいね?」
 彼女はうなずいた。スプリング・グリーンとローズの色で彩られたそのプリーツ・スカートが四月の風のように優しく揺れていた。それから言葉で返した。「うん。すごくいい」そう口に出して、恥じたように顔をそむけた。
 目の前には高架に続く国道があった。右に曲がるとまっすぐに続く沿道があった。道には小学校が通じていて、僕たちはその前を通った。柵の向こう側で、日曜日にそれは静まり返っていて、こわばっていた。そして、実際のところでは平日の日も同じように静かだった。僕はここを通るたび首を伸ばして小学校を見やった。だけど、教室から光が漏れているのみで、他は、校舎も、桜並木も、グラウンドを染めあげる校舎の影も、淡く見えていた。いっさいが太陽と風の調律のもとにあった。蛇口のしずくの一滴に至るまでコントロールされていて、神秘的な静謐さを守っていた。
 僕はそのようなことを、自分が感じたことを彼女に話した。
 彼女は黙ったままで耳をそばだてていた。
 七月の太陽はずっと高いところでぎらついていた。

 家に着くと――二階建てのアパート、その一室だった――僕は汗でぐっしょりとなったシャツを脱いだ。彼女は手提げかばんを置いて手を洗った。僕は肌着も脱いでしまい、そのどちらもを洗濯機に放り込んだ。タオルで汗を拭きとるとべつのシャツに腕を通した。彼女はトイレから出てきてもう一度手を洗った。
 そして、僕たちは向かい合った。
 互いに見つめ合った。彼女は挑戦的な笑みを浮かべた。
 部屋に入って大胆になっていた彼女は、僕の胸に飛び込んできた。腕を回し、嚙み締めるように強く抱き着いた。彼女の乳房が、僕の腹に強く押し当てられていた。僕のほうでは他のことを考えていた。彼女を抱きとめはしたが、本当にべつのことを考えていた。しかし、いまになっては、何を考えていたのか思い出せない。同時に僕は勃起していた。
 彼女は僕を見あげて笑った。その笑顔はドッグ・ランで見かけたゴールデン・レトリーバーによく似ていた。

 僕たちはまず食事を取った。
 それは恵まれた時間だった。卵焼きについての冗談を僕が話した。彼女はさっぱりとした表情で笑い、高い声で冗談を返した。 
 次に動画を見た。モニターの前で、二つの椅子にそれぞれ座って、ぴったりと肩をくっつけあって。彼女の肌はどこもひんやりとしていた。
 それは孤独についての動画だった。男声をまねた機械音声は、色彩豊かなアニメーションとともに孤独を語った。孤独とは何か。孤独はどのような問題を引き起こすのか。孤独を殺す手段とは何か。
 そして、動画は生き方にも言及した。これから始まっていくだろう、今後四千週もの時間、その時間における孤独との戦いについて論じた。
 はっきりとした、重たい声で機械音声は語った。
「私と同様、誰もが孤独を感じます」
「孤独は影のように、そして蛇のように、あなたの五体に長くて白いその腹を這わせます」
「孤独は力です」
「最も強力に人を傷めつける力です」
「そして、孤独を恐れるからこそ、われわれは集団を形成し、手を取り合い、現代社会のような、誰一人として想像もし得なかった数々の奇跡を生み出すことが出来たのです」 
「孤独は力です」

 手遊びをしていた僕とは違って、彼女は聞き入っていた。ひどく集中していた。顔つきには鋭さがあった。今、目の前で語られているその言葉を心の奥底、極めて精緻な次元で理解しようと努めていた。
 動画が終わって僕が声を上げても、彼女はまだ黙っていた。
 僕はのびをした。席を立って、新しい水をつぎに行った。
 居間に帰ってくると、その瞳に丸みが戻ってきていた。彼女は僕に微笑みかけた。口元にはまだ先ほどのこわばりが残っていた。
 おもしろかった? と訊ねると、彼女はうなずいた。
「うん。すごくおもしろかった」彼女は低い声でそう言った。そして、また黙り込んでしまった。
 僕は部屋のなかを歩き回り――ベルトを外し、冷房をつけ、床に落ちていたくしを棚に戻した――口をつけたタンブラーを彼女に回した。ありがとう、と言って彼女はごくごくと飲んだ。
「もうひとつ何か見ない?」と彼女は言った。「べつにいいけど、少し頭が疲れるかも」と話して、僕は少し笑った。それでも、と彼女が言って、僕たちは『楽観的虚無主義』という題の動画を見た。僕はその動画については完全に楽しむことができた。猫の目の形をした登場人物たちが巨大な壁に溶け込んでいくシーンは、僕の心を激しく揺さぶった。動画が終わると、彼女は僕の膝に顔をうずめた。僕はその黒髪を撫でてやった。そしてトイレに行き、水を飲み、カーテンを閉めて、彼女と見つめ合った。

***

 山の高いところで何かが叫んでいた。
 僕は耳を澄ます。夜の山の麓で。
 ログ・ハウスから叔父が出てきて、何をしているのかと僕に訊ねる。だが、僕は聞き取ることに必死で、叔父の相手をしている余裕はない。
 叔父は肩をすぼめる。家へ、気落ちした様子で帰っていく。ただ、少しあとで彼はまたやって来る。そして僕の隣に立ち、同じように聴覚に意識を集中させる。
 叫び声は今やはっきりと聞き取れていた。
 声はただただ「淋しい」と繰り返していた。
 声は泣いていた。

 僕は英語の教室にいる。
 先生――三十台の女性で、快活な喋りをするが、貧血気味――は疲れ切っているようだった。何もかもに失望しているようだった。失望の原因が僕であるかどうかは定かでない。しかし、本当に消耗しているようだった。ずっと目を下げていて、肌が荒れていた。
 それでも一対一の授業は始まった。先生はいつものように四つのカードを伏せて机の上に並べた。そして一番右のカードを指さす。僕は丸だと言う。先生がカードをめくる。そこには星の記号が描かれている。
 先生はため息をつく。ダイニングに立ち、誰かに電話をかける。僕はその間一人で授業を続ける。頭のなかで記号を唱える。そして表に向ける。三角だ。先生は懇願している。

 僕ともう一人が狭い個室にいる。中央にプラスチック製のテーブルがあって、向かい合って座っている。テーブルの上には本が山となって積みあがっていて、部屋に出口はない。僕たちは黙ったままでしばらく白い壁を調べる。検分するように本をつまみ上げる。背伸びして天井の蛍光灯を指先で撫でる。出口がないことを差し引けば、そこが普通の部屋であるとわかる。
 それからようやく僕たちは初めましての挨拶をする。
 初めまして。
 こちらこそ、初めまして。
 互いに名乗る。それで黙ってしまう。僕はもう一度壁を調べる。諦めると、その痩せた人と同じように本を読み始める。『城』、『ジュリエット』、『蓬の門』、『パン屋再襲撃』、『冬の夢』。そして、『楽観的虚無主義』。
 長い時間が経つと、当然腹が減ってくる。僕たちは本を読みつつ、いくらか言葉を交わすようになっていた。そして、どちらも腹を空かせていた。それもひどく腹を空かせていた。僕は立ち上がって、部屋の隅にあったラジオでビージーズを流した。しかし気は紛れなかった。僕は次第に鬱々とした気分に陥りつつあった。痩せた彼はそんな僕を見計らって、少しずつだが、冗談を発するようになった。過去のことだったり、落語の噺だったりを、不器用だが思いやりの感じられる口調で語ってみせてくれた。初めのほう、僕は自分の苦境でいっぱいだった。闇で満たされた渓谷の底へ突き落されたようだった。漠とした何にもならない空間があり、土埃は全身にまとわりつく。そのように悲しかった。ただ、彼の懸命な言葉は、ほんの少しずつではあるものの、僕の悲しみを和らげていった。雨のように彼の声は沁みて響いた。僕は笑うようになった。つぎに、声を返すようになった。鉛の雲の空が晴れたように感じられた。それで、今度は僕が冗談を語り始めた。とっておきの笑い話を語ってみせた。彼は当然のように笑ってくれた。僕は心からのことばで感謝を告げた。そして本に戻った。
 『ワインズバーグ・オハイオ』、『象』、『ハムレット』。『孤独』の途中で、僕は日の出を感じて目を上げた。その部屋に窓はなかったが、このうえなく優しい、あの清純さが僕のところに伝わってきていた。彼は眠っていたので、朝が来たよ、そう言って揺り起こした。ただ、彼は餓死していて、その軽い腕はこぼれたけれど、突っ伏したままで動かなかった。

***

 情事のあとで、僕たちはいつものように寄り添って少し眠っていた。
 僕は眠りが浅いほうで昼寝の習慣もなかったから、すぐに目覚めるか、断続する僅かな睡眠のどちらかに限られていた。
 僕は彼女を揺り起こした。彼女は一度僕を見やり、それからまた目を閉じた。鯉のように丸く口をひらいて、半分眠ったふうで息をしていた。僕はそんな彼女にこの短い間に体験した三つの夢を話した。話さなければどうしようもないように感じられていたからだ。僕がやや真剣に夢を語っていると、彼女は次第に覚醒していった。そして餓死の話のときには、目をきらきらさせて聞き入っていた。僕はそんな彼女を見てたまらなくなった。右手で額にかかった髪をよけてやり、そっとキスをした。僕のものはまた硬くなっていた。
 二度目のあとには雨が降りはじめていた。七月の初旬の、雨季に降る雨だ。僕たちは普段、べつにロマンチックというわけではなかった。ただ、その日に限っては二人して長く雨を眺めていた。たくさんの声のように流れる、その音を聞いた。目をつむれば、ただの線ではない特別な意味が感じられる気がした。
 そんな瞑想の途中で、僕は目をひらいた。裸のままで寝転がり、目をつむって雨を感じている彼女を見た。このあと、彼女は雨のなかを帰っていくだろう。あの駅に向かって、一緒に歩いた道を戻っていくことだろう。僕は一人、この部屋に残され、一人で夕飯を食べるだろう。そして、誰にも邪魔されず、今横たわっているこの布団で、僕一人で眠りにつくのだろう。
 巨岩のように不動の、響きのないあの暗い感情が立ち返ってくることだろう。
 空虚な、あの渓谷を強烈に感じた。
 彼女が帰るまで、僕はずっとそのように考えていた。彼女に服を着せてやるときも、お別れのハグをするときも。そして、それらは事実となって降りそそいだ。ひとつ違っていたのは、僕は何も感じないままで寝入ったことだった。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?