「再考」中の目標 その12ー「音楽好きな保育士」

 つぶやきにも書きましたが、目標を「音楽好きな保育士」に変更してみました。保育園で子どもに音楽の楽しさを伝えたいと思ったからです。ただ、保育士試験実技の音楽で弾き歌いをしたとは言え、ピアノ2年目でソルフェージュもこれからの私には業務レヴェルとは程遠いというのが正直なところです。子どもの頃からピアノをやっていたり、短大で保育を専攻した人には敵わないとも思っています。また、私はASD当事者の1人でもあります。発達障害の人が対人援助職をするのは無理と言われることも重々承知しています。でも、私は今後、この目標で進んでいきたいと考えています。
 私は音楽好きの1人の男性です。中学2年(14歳)の頃から音楽に夢中になり、ピアノもしていないのに高校で吹奏楽部に入り、愛知でクラシック好きになり、49歳で保育士試験に合格して現在50歳です。36年間音楽と付き合っていますが、聴衆としての経験が圧倒的に多いです。そんな私がピアノを弾いているうちに音楽の楽しさを伝えられれば、と思うようになりました。常識的に考えれば呆れても不思議ではありません。音楽も保育業務の一部であること、保育で使えなくても音楽は終生楽しめる趣味だから無理する必要もないことも理解しています。しかし、私は保育士試験に合格した身です。子どもに音楽の楽しさを伝えないで自分のものだけにしまっておくのは勿体ないと考えています。
 私は特に子どもが好きだから、保育士の資格を取ったのではありません。子どもを大事にしたいからそうしたのです。子どもと私のようなASD当事者(障害者)は社会的な立場においては、いずれも強くはありません(もちろん、その人自体が弱いというわけではありません)。そして必ず大人と健常者という立場的に強い方々がいます。私は障害者の立場が長くなり、自身の様々なトラウマ的出来事を考察した結果、立場的に弱い側を擁護していきたいと考えるようになりました。保育士として子どもを大事にするのはその延長線上にあります。なので、私は保育士として、子どもを大事にすることを通じて立場的に弱い側を擁護していくことで生きづらさを少しでも軽減できれば、と常に考えています
 健常者の方が健康だし、支援に関しても客観的に観察して上手くできるという意見もありますが、果たしてそうでしょうか。必ずしもそうとは限らないと思っています。健常者は立場的に強いですから、自分たちの常識や価値観等であらゆる分野の事柄を決めることができます。例えば、ASD1つ取っても「常識がない、空気が読めない、察せない、人の気持ちが分からない、臨機応変や柔軟性がない」等と捉えてしまいます。だから、私には対人援助職は無理と判断できるのです。ただ残念ながら、これらは個人的には単なる偏見に過ぎないと考えています。このように、私がASD当事者の1人でかつ支援者であることは、健常者等の立場的に強い者との対峙を意味していると言えます。ですから、その方々の言うことに必ずしも同意するわけではありません。また、このことに関連して、専門性とは社会との関係性において変革を要求されているということも事実であり、保育士の役割も同様のことと考えています。
 以上のことから、私にとって「音楽好きな保育士」とは次のように整理できますー「子どもに音楽の楽しさを伝えると同時に、子どもを大事にすることを通じて、立場的に弱い側を擁護し、立場的に強い者に対峙し社会での生きづらさを少しでも軽減できる保育士」。何とも高邁な目標かもしれませんが、人生は1回だけですし後悔だけは絶対したくないので、ここに記しておきます。
 ここまで読んでいただいた方に心より感謝申し上げます。


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