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人生の羅針盤 ONEルール

はじめに

 「ONEルール 人生の羅針盤」にご興味をお持ちいただきありがとうございます。
 ざーっととページをめくってみられて、もしかしたら、この本は何かの信仰宗教ではないか、と感じられた方もいらっしゃるのではないでしょうか?

 この本を書いた目的は、これからお話しする「ONEルール」を盲信してもらうことでも、この本の考え方を広め、私が教祖のようになることでもありません。ただ、この本を通して人生に悩んでおられる方や生きづらさを抱えておられる方々が、少しでも楽になってもらえたり、生き方のヒントを見つけるきっかけにしていただけたらと願って書きました。この本に関わってくださる方、手に取ってくださった方全ての方に幸せが訪れますように。

 2018年6月日、大阪で大地震が起こった日。私は、この本でお伝えしたい理論の核心となる部分に出会いました。当時、私は大阪市内の自宅で、震度5弱の地震に遭いました。ですが、地震を忘れてしまうほどにこの理論は衝撃的でした。しかし、この理論をどのように伝えればいいのかわからず、途方に暮れました。
 この理論を、マジョリティの方々にお伝えしたとしても、何か新興宗教の類かと疑われ、とても信じてもらえそうにないと悩みました。
 しかし、その年の夏ごろに、同居していた次男に話してみたら理解してくれたので、それをきっかけに、年末には、私が運営しているコーチングスクールの生徒さんたちにも、少しずつ話せるようになりました。すると、生徒さんのほとんどの方も理解してくださり、私は希望を感じました。
 皆様の勧めもあり、次男に1章2章を執筆してもらい、2019年春に『唯愛論』という本にして、Amazonで電子書籍として出版しました。さらに皆様からの後押しのおかげで勇気をいただき、この本にまとめることができました。
 初めてこの本に出会った方が、なんだか怪しそうな理論だと疑われるのは自然な感情だと思います。ただ、多数ある書籍からこの本を手に取っていただいたので、ぜひこのままお読み進めていただければ幸いです。

 さて、人は生きている限り何かしらの不安を感じるようです。そしてニュースや新聞、ネットメディアではネガティブなニュースが途切れることがありません。例えば、昨今話題のコロナの問題が解決したとしても、様々な心配事や漠然とした不安は、次から次へとやってきます。

どうして、人生は不安や心配事が尽きないのでしょうか?
その不安や心配事の元は、どこからやってくるのでしょうか?
あなたの日常は、幸せな未来につながっていると言えますか?
あなたの信じる常識は、本当にあなたが望む幸せな世界へと連れて行ってくれるのでしょうか?

 日本では、10歳~39歳までで最も多い死因は「自殺」(厚生労働省自殺白書平成30年度版)であり、世界一です。特に、若者の死因自殺率が高いです。(厚生労働省「諸外国における自殺の現状」)
 日本は比較的、平和な国として一般的には認識されています。しかし、その一方で近親者による子どもの虐待件数が増え続けています。2020年に児童虐待の法改正はされましたが、隠蔽された家族間の虐待の被害は後を断ちません。経済的に豊かであり、平和だとされる国で、なぜこのような非道な事件が継続的に起こるのでしょうか?

 世界中に平和を願う人々が存在しているのに、戦争やテロは未だに無くなりません。科学技術が発達し、より自由で便利な世界になっていっている筈なのに、どうして、世界は未だ平和にならないのでしょうか?世界中に神を信じる宗教が存在し、人々は熱心に祈りを捧げているのに、どうして、病気や貧困で人々は苦しむのでしょうか?
 人類が地球に誕生してから、いまやその数は億人に達しました。しかし、人類発展の陰に、大自然の生態系を破壊している一面があります。人類は大自然と共生しながら幸福に暮らすことはできないのでしょうか?

私たち人類は、一体どこへ向かっているのでしょうか?

人類は何を目的に、どこを目指して、生きればいいのでしょうか?

 明確な指標も、人生の羅針盤もない中、ただ大多数の常識に流されて生きて、満足に人生を全うすることができるのでしょうか?また、それぞれ思い思いに描いた目標なり理想なりを目指すだけで、幸せになれるのでしょうか?
 現代は、思想哲学の自由が許されており、様々な成功哲学の情報も数多くあります。
 成功哲学、心理学、脳科学、スピリチュアル、宗教、数々の自己啓発、一体どこに真理はあるのでしょうか?
 「どうすれば生きやすくなるか?」「どのように思考すれば成功するか?」などの方法論、ノウハウについては、多くの考え方が存在します。脳科学や心理学では、統計的にわかってきていることも多くなり、統計データ的な理論はあります。しかし、そのハウツーや考え方の根拠について、科学的に理論的に説明しきることは未だできていません。
 人間という生物は一種類なのに、哲学、宗教、科学がそれぞれ別々の理論を打ち立てています。哲学にも派閥があり、宗教はそれぞれの宗派で争い、宗教戦争を繰り返し、考古学、量子力学はそれぞれの理論を展開しています。どれ一つ間違いではなく、一面の真理を表しているのだと思いますが、全てに共通する理論ではありません。理論や経典がばらばらに存在しているだけです。

 人生の羅針盤になる不変の真理や原理原則はないのでしょうか?
「人間が作った六法全書ではなく、宇宙全てに共通する理論があるはずだ」「全ての理論を網羅できる地球の真理もあるはずだ」

 「科学的にも哲学的にも心理学的にも宗教的にも思想的にも、全ての理論を網羅し、集約する本当の真実とは、何か!」

 そう思いながら生きていました。
 現在、私は62歳です。2回結婚し、2回離婚し、年間うつ病を患っていました。その中で、3人の子どもを産み育てつつ、いくつか会社を起業経営していました。傍ら、心理学、脳科学やコーチング、様々な宗教を学び、慌ただしい人生の中で、宇宙的な真理を探し求めていました。
 何故、私がそれほどまでに激しく真理を求めてきたのかと申しますと、過去の生い立ちからか、孤独と絶望を抱えており、空虚で苦しい状態が長く続いていたからです。今まで、自分の過去については、なるべく語らずに生きてきました。理由は、その話をすることにより周囲の人々を、重く暗い気持ちにさせてしまうと心配していたからです。
 ですが、今回は皆様により深く私の真意をお伝えさせていただくため、少しだけ自己紹介をさせていただきます。
 私は子どもの頃、複数の大人達から日常的に、虐待や暴力を受けていました。その影響があってか、昔から周囲の大人達を信じることができず、常に大人を恐れて顔色を伺っていました。暴力を避けるために、悲しみも痛みも表情に浮かべないように気を付けて、なるべく目立たないように、息を潜めて生きていました。7歳ごろには、地球上のどこにも自分の居場所がないと感じていました。成人し、結婚をした後も、ますます孤独になり絶望感に苛まれるようになりました。その孤独感、絶望感を無意識でごまかしたくて、多忙を極めてきたのだと思います。
 一人で真理について、あれこれ考え事をする時間・本を読みあさる時間が、一番、私自身を取り戻し自由に過ごせる時間でした。真理を探究することが私の逃げ場だったのだと思います。

 そしてようやく、2018年夏。それまでの経験と学びを統合することができ、ひとつの答えにたどり着きました。
 私は、どの宗教団体にも学派にも属さない自由な立場におります。自由な立場だからこそ、書くことができたと言えます。

 本書では、昨今の日本で起こる悲惨な児童虐待、家庭内暴力、精神的な疾患の急増、社会や学校での支配、被支配関係など、すべての問題の根源的な原因とその根拠について理論的に説明しております。人類史を科学的に紐解き、「人類は何を目的にし、どう生きればいいのか?」という疑問に対して明確にお答えしております。
 この考えが︑過去のどのような考え方にも属さない人類の真理であり羅針盤になると自負しております。そしてそれは、決して「怪しい宗教」でも「教祖崇拝」でもない、あるひとつの考えです。それが「ONEルール」です。

最後まで、お読みいただけましたら幸いです。

第1章「見えない世界」は本当に存在するのか?

「見えない世界=怪しい」という思い込み

 「ONEルール」の核心を述べる上で、目に見えない精神世界が存在するという前提が重要になります。そのため、第1章では、目に見えない精神世界が存在するかどうかについて、考察を深めていきたいと思います。

 精神世界が存在すると既に考えておられる方は、第1章を飛ばして読み進めていただけたらと思います。
 もしも、目に見えない世界、精神世界や心・魂が存在しないと仮定したら、どうなるでしょう?
 昨今では、人生年時代と言われています。
 もしも、精神世界(心)がないとしたら、私たち人間も死んだら、ただ無くなるだけです。みんな死んで、無になるのなら、生きる意味はあるのでしょうか?また、人生の中で、成長し、幸せを目指す意味はあるのでしょうか?
 みんな死んで、等しく無になるなら、罪を犯しても見つからなければ良いという考えも出てくるでしょう。「死刑を希望して、無差別殺人をした犯人」を裁くことはできるでしょうか?
 肉体(脳)の中に記憶があり、脳で感情を作り出すことがわかってきました。では、脳が私たち人類の全てでしょうか?もし、人間に精神が存在しなくて、肉体しかないのなら、愛も、肉体(脳)にだけ存在するということになります。愛の関係は、肉体(脳)が存在している期間だけの関係だということになります。
 では、人間はなぜ、死んでしまった人を想い、慰霊するのでしょうか?なぜ、どの宗教にも共通して、精神世界(魂、霊)が存在するのでしょうか?

「見えない世界」は科学で証明できる

ここから、科学的な見地からの精神世界についてご紹介していきます。

 アメリカの物理学者リサ・ランドール博士は、著書の中で「我々の世界は3次元と時間(4次元)が存在している。さらに、そこに新しい空間の因子を追加したものが五次元である。」と述べています。

 0次元とは点の世界
 1次元とは点と点がつながった線の世界
 2次元とは平面の世界
 3次元とは空間の世界
 
では、4次元以上の世界は、どんな世界になるのでしょうか?

 アインシュタインは、空間と時間は同時に存在するため、今我々が生きている世界が4次元(3次元の空間+1次元の時間の軸)であると定義しました。ここでは、5次元以上の次元を余剰次元とし、書いていきます。
 物理の法則として、より高い次元からの低次元は理解できるが、低い次元からの高い次元は理解できない、というものがあります。つまり、私たち3次元の住人には、3次元以下の次元は、完璧に理解できます。しかし、より高い次元の余剰次元は、想像することはできても、理解することができない、ということです。余剰次元は、3次元からの物理的アプローチでは観測できません。

 わかりやすく説明すると、
 
3次元の物体を両断した時、断面は2次元の面 2次元の平面を両断した時、断面は1次元の線 1次元の線を両断した時、断面は0次元の点

 では、余剰次元を両断した時、断面は3次元であると言えます。
 しかし、私たちの頭では、その余剰次元を想像することでさえ、難しいのです。なぜなら、私たちの脳が3次元に存在し、高次元を認識することができないからです。とはいえ、高次元が存在するヒントは確かにあります。

 例えば、2次元の世界に、3次元の球体が通り過ぎたとします。2次元の住人(フラットランドの住人)から見たら、球体が通り過ぎる時、平面に点が現れ、点が膨らんで輪になり、輪が膨らんでピークに達したら、また輪が縮み、点になり、消えます。リサ・ランドール博士は、私たち人類もこのフラットランドの人間のように、触ることも感じることもできませんが、余剰次元がこの3次元世界を取り巻いていると考えています。

 もう一つ、例として、3次元の物体の影が2次元の平面に映ったとします。このように、3次元の住人から見れば、うさぎですが、2次元の住人にとっては手の形のように、認識されるわけです。これが、3次元世界(私たちの世界)にも、余剰次元の世界のヒントが隠されていることのイメージです。

 1900年代に活躍した脳神経外科医のワイルダー・ペンフィールドは、精神世界について、次のような結論をだしました。
 心的なものと物質的なものは、それぞれ独立した実体です。心的な現象を担う主体として「魂」のようなものの存在を前提とする「実体二元論」と呼ばれる説です。
 つまり、魂(心的な現象を担う主体)と脳(物質的な現象を担う主体)は別に存在するという考え方です。「脳以外の見えない世界は存在する」と結論付けています。

リサ・ランドール ワープする宇宙 ― 5次元時空の謎を解く ―
(NHK出版、2007年)より引用

「心」の正体がわかる実験

 量子力学的視点からの心(魂)についての実験と考え方をご紹介します。量子力学とは、アインシュタインの相対性理論と同じく、現代物理学の根幹をなす理論です。物質を構成する一番小さい単位である分子、原子、電子などの物理現象についての力学です。
 アインシュタインの相対性理論は、大きな世界(マクロの世界)では、「=」というシンプルな方程式が当てはまります。しかし、小さな世界(量子の世界)では、この数式が当てはまらないのです。アインシュタインはシンプルであること、シンプリニシティというものに非常に重きを置いていました。
 しかし、量子力学の数式はシンプルではなく、主観的な物理学の世界なので、シンプルであることを重視したアインシュタインは、生前とても悩んだようです。
 この物理世界には、4つの力があります。「重力」、「電磁力」、「強い相互作用」、「弱い相互作用」の4つです。アインシュタインは「この宇宙は、すべてシンプルな数式であらわせる」と信じ、彼はこの4つの力を統一できる理論を考えていましたが、完成前に亡くなってしまいました。今では、重力以外の3つの力が統一できた標準理論がありますが、4つの力全てを統一する理論(大統一理論)は、まだ完成していません。
 量子力学では、素粒子には二つの異なる性質があることが証明されています。粒子性と波動性です。量子力学の有名な実験の一つに、「二重スリットの実験」があります。
 この実験では、「人間(観測者)の意識が実験結果に干渉する」という一説があり、話題になりました。この「意識と量子力学との関連性」については、インターネット上でも様々な学説と解釈がありますので、本書では言及致しません。

出典 https://www.bttp.info/physics/mwi/

 さて、全体(世界)と一人との関係は、海と波に例えると分かりやすいと思います。海には、波があります。しかし、波を手ですくうことはできません。すくえるのは水だけです。
 しかし、海には確かに波があり、水もあります。

 世界は大きな海で、私たちはその波の一つに過ぎないという考え方です。一つ一つの波は、みんな違っていて個性的です。同じものは一つもないし、これからもひとつも生じません。しかし、全てつながっています。例えると、大海はこの世界全体であり、波は私たち一人ひとりの存在だということです。量子という全体の大海の中の、ひとつの現れ、それが私たちということです。素粒子は、別々の二つの性質があり、どちらの動きもします。そして、それは我々の認識通りの動きをするという考え方があります。
 この考え方で、現実をとらえ直してみると、人と人、人と物質、人と空間、人と出来事など、全てがつながっているということがよくわかると思います。
 分離しているもの、分かれているものなどは何もありません。全てがつながっています。私たちは肉体をもっており、脳は個別に存在しているので、自分は全体(海)とは、分離していると勘違いをしているのです。

 この全体とのつながりは、個別の脳の思い込みを超えた時に、初めて魂(心)で感じることができるのだと思います。
 私たちは量子という大海の波に過ぎない、ということに気づくと、なぜか安らかな気持ちになりませんか?

過去も未来も存在しない

 次に、量子力学的視点で身体について考えてみましょう。
 私たちの身体は、エネルギー空間と素粒子の集合体でできています。人間の思考や感情も、エネルギーです。思考や感情は、脳波計で電気信号として計測することもできます。
 身体もエネルギー、思考や感情もエネルギー、全てがエネルギーとして影響し合っています。思考や感情のエネルギーで、自分の身体を組織するエネルギーや素粒子に影響を与えることができます。そのようにして、細胞内のDNAのスイッチを入れたり、切ったりすることも可能です。
 量子力学では、未来はパラレルワールドであると言われています。過去も未来も実際はなく、「今、現在」に全てがあるという理論です。
 過去は、頭の中に記憶として残っているだけです。未来も頭の中に予想としてあるだけで、実際には時間というモノは「今ここ」にしかありません。「今」という現在が、永遠に続いているだけなのです。「現在、過去、未来は同じ空間に留まっていて、それが散在している状態」です。
 量子力学的視点でみると、私たちの未来は、いろいろな未来が無限に存在しています。どの未来も、実現可能であり、すでに存在しているに等しいのです。全ての未来が今ここに存在しています。

「心」とは一体、何なのか?

 私たちの「心」は目に見えはしませんが、たしかに、そこに存在するということです。そして、「この世界はそれぞれの人の認識通りの世界になる」ということです。
 また、私たちの「心」は波動性を帯びています。音叉で例えるとわかりやすいかもしれません。同じ固有振動数の音叉を用意して片方だけたたくと、もう片方も震えだします。これを「共鳴」といいます。人間の心(魂)も波動性を帯びているので、同じ波動を持つ人は共鳴します。逆に、波動が違いすぎる人には、思いが届かないのです。以心伝心と言われるように、同じ波動であれば、心を届けることも可能なのです。

出典 https://lifeisblue.net/blog/vibration-wave-make-world/

 余剰次元に、時間や空間の概念はないので、祈りはいつでも、どこでも波動が合うところへ届けることができます。つまり、人間は一番感覚(精神性)の近い人間に刺激を感じるので、「類は友を呼ぶ」という考え方や「引き寄せの法則」もあると言えます。
 18世紀の天才科学者スウェーデンボルグは、神学者で、霊界を科学した人として有名です。彼は当時、ヨーロッパ有数の学者として知られ、彼が精通した学問は、数学・物理学・天文学・宇宙科学・鉱物学・化学・冶金学・解剖学・生理学・地質学・自然史学・結晶学など多岐に渡ります。
 一通り学問の研究をした後、最後に霊界を研究した人物です。また、彼はイエス・キリストを研究した人としても有名です。

 精神世界を研究した科学者もいます。有名なアメリカの哲学、心理学者のウィリアム・ジェームズです。ジェームズは、精神世界に対して「それを信じたい人には信じるに足る材料を与えてくれるけれど、疑う人にまで信じるに足る証拠はない」という結論を出しました。これをウィリアム・ジェームズの法則と言います。

 多くの科学者が、実験や量子力学によって、精神世界(見えない世界)の存在を証明してきました。しかし、科学的な根拠やエビデンスが、不十分だと思われることもあります。正直なところ、確定的な証拠は無く、しっかりと説明できるだけのエビデンスは、未だ見つかっておりません。ただ、状況的な証拠は、至る所に存在していると私は考えます。見えない世界の存在を、見える世界で表現するのは、とても難しいのです。
 最後にご紹介したウィリアム・ジェームズの言葉通り、信じたい人には理解できるけど、疑う人にまで信じていただけるような証拠はないのだと、私も思います。

「精神世界・心・魂」の違い

私が考える「精神世界・心・魂」についてお伝えします。
「精神」「心」「魂」は3つとも見えない世界に存在します。その3つの関係について大まかにいえば、精神世界の中に心が存在し、その心の中に魂が存在しています。
 全ての生物は、目に見えない心と、目に見える身体との二重構造になっています。見えない精神(心)は全てがつながっています。それが精神世界です。心は身体からの影響も受けて存在しています。魂というのは、一言で説明するのは難しいのですが、「宇宙の根源的な愛のエネルギー」だと考えます。
 この考えの論拠について、本書全体を通して説明していますので、最後までお読みいただければ幸いです。

 ここからは、「目に見えない精神世界は存在する」という結論を前提に書いています。

第2章 宇宙の誕生と人類の歴史に隠された真実

「聖書」は、真理を紐解く歴史書

  思想、哲学、人類史を語る上で欠かせないのが聖書です。日本にはあまり、馴染みのない書物ですが、アメリカでは、大統領就任式の際に、この書物の上に手を置いて宣言します。それほど、聖書は重要な書物だとされています。
 聖書は、一体どのような書物なのでしょうか?
 果たして信憑性はあるのでしょうか?
 そして、思想、哲学を語る上で、必須だと言われる人物、イエス・キリストとは、どのような人物だったのでしょうか?
 聖書は西洋の3大宗、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教のすべてに共通した聖典です。本書では、まず大前提として、聖書という書物は歴史書であり、哲学書だと捉えています。考古学的にも、聖書に書かれている内容は歴史的事実であるということが、次々に解明されています。
 考古学によって、発見されたものが、すべて聖書に記載されているわけではありませんが、聖書にはたくさんの歴史的な詳細が記述されています。そして、考古学的な発見の中で、聖書の記録と合致しないものは一つもありません。聖書は驚くほどに正確な歴史書といえます。

宇宙が生まれた瞬間

 聖書の創世記には、この世界ができた順序が書かれていますので、その部分をご紹介していきます。

聖書:創世記《第1章》
1:1
はじめに神は天と地とを創造された。
1:2
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
1:3
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
1:4
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
1:5
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第1日である。
1:6
神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」
1:7
そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
1:8
神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。
1:9
神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」そのようになった。
1:10
神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。
1:11
神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」そのようになった。
1:12
地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。
1:13
夕となり、また朝となった。第三日である。
1:14
神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、
1:15
「天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」そのようになった。
1:16
神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。
1:17
神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、
1:18
昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。
1:19
夕となり、また朝となった。第四日である。
1:20
神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」
1:21
神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。
1:22
神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」
1:23
夕となり、また朝となった。第五日である。
1:24
神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」そのようになった。
1:25
神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。
1:26
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」
1:27
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
1:28
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」
1:29
神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。
1:30
また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」そのようになった。
1:31
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。
《第2章》
2:1
こうして天と地と、その万象とが完成した。
2:2
神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
2:3
神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
2:4
これが天地創造の由来である。

『神は「光あれ」と云った・(聖書・創世記)次に海を作り、草木を作り、海の生き物を作り、地上の動物を作り、そして最後に人をつくった。』と聖書にあります。
 事実に沿って書いたとしか説明ができないほど、正確に史実が書かれているといえます。まず、宇宙はビッグバンと呼ばれる爆発で始まりました。それは神が言った「光あれ」という言葉と一致しています。
 そして、地球ができ、海ができ、海でプランクトンが生まれ、それが苔となり、草木となりました。大気は動物が生きるのに必要な酸素で満たされ、動物が生まれ、人間が生まれました。聖書の記述と事実が一致しています。
 聖書(創世記)ができた4000年前は、科学が発展しておらず、酸素や、ましてやプランクトンも確認できない時代でした。どのようにして、ここまで正確に地球の歴史がわかったかは不明です。しかし、これだけでも、聖書は、他の神話とは全く違うレベルで驚異的に正確であることがわかります。聖書が日本古来の神話やギリシャ神話のような『神話』ではなく、歴史書だと言われる背景には、このような事実があるのです。

 キリスト教では、イエス・キリストは十字架にかかり、人類の罪を背負うために生まれてきたとされています。
 しかし、本書ではイエス・キリストは完成された精神文明を伝えるために活動した人物だと捉えています。私たちはイエス・キリストが罪を背負ってくれたからと安心するのではなく、その精神を見習い、生きていくべきだと思います。その精神こそが愛他精神、さらに愛敵精神であると私は考えています。愛敵精神については第5章に詳しく述べています。

人類が誕生した本当の理由

 宇宙を創造したエネルギーに意志がなく、目的もなく、自然発生的に人類が誕生する確率は、科学的に算出すると、の4万乗分の1の確率です。この確率は、廃材置き場の上を竜巻が通過した後で、ボーイング747ジェット機が出来上がっているのと同じ確率です。
 つまり、自然発生的に人類が生まれることはあり得ないことなのです。宇宙を創造したエネルギーには、意志があり、目的を持って、この世界を創造したといえます。
 「意志があり目的をもって宇宙を創造したエネルギー」のことを、本書では、「大いなる意志」と定義します。そして、この大いなる意志は、聖書での「神」と同じ意味だと本書では定義します。

 では、なぜ、大いなる意志は人類を創ったのでしょうか?
 人類創造の目的は何なのでしょうか?

 この章では、科学的な事実と聖書を照らし合わせて、人類創造の目的について考察を深め、史実を解明していきます。
 科学的には、地球は約億年前に誕生し、その後様々な生命体が誕生していき、現代人ホモ・サピエンスは約万年前~万年前に誕生したと解明されています。現代人ホモ・サピエンスが最後に誕生した生命体であり、ホモ・サピエンスの後には新しい生命体は誕生していません。(人工的に遺伝子配合したもの等は含みません)
 聖書によると、「神はご自身に似せて人間を創造された」とあります。
 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記第1章節)
 また、人間が心の健康を保つためには、適度な刺激を受け、刺激に反応して外界と関わる必要があります。それは、1950~60年代に多く行われた感覚遮断実験で実証されています。その実験を簡単に説明しますと、五感を制限するように適度な空調と色味のない空間で、トイレと食事以外は、ただじっとしているという実験です。この実験から、五感に刺激がない状態で過ごすと、2、3日で精神に異常をきたすことが明らかになったのです。(ウッドバーンヘロンの感覚遮断実験)

 この実験から、人間は無刺激な状態が続くと精神的に辛いことがわかります。そして、大いなる意志は人間と似ている。この2点を考え合わせせると、大いなる意志も、宇宙を創造する以前は「無刺激の状態」が退屈すぎて、とても辛かったと考えられます。
 そのため、大いなる意志は、人間が刺激を十分に感じ探求できるように、宇宙をつくり、世界を広く創ったのだと考えられます。
以上の事柄から、宇宙創造の目的は、最後に創造した現代人ホモ・サピエンスにあったのではないかと考えます。

 また、聖書には次のように書かれています。

聖書:創世記第1章26~28節
26節
 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配(主管)するようにしよう。」
27節
 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
28節
 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支
せよ。」

 以上を考え合わせますと、大いなる意志は、自身の思い通りに操縦できるロボットのような存在として人間を創造したのではなく、大いなる意志自身と同じように人間にも「自由意志」と「想像し、創造する力(イメージを実現する能力)」を与えたということです。
 そして、人間が退屈しないように、広大な空間で自由に探究できるように、面白いアトラクション満載の宇宙を先に創っておきました。その最後にホモ・サピエンスである人間を創造したのです。

27節
 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

 この節から考えるに、あえて「魂と肉体」「男と女」という分離(二元性)を作り、そこで様々な体験を経て、「愛」を実感できる仕組みを創造されたのです。
 その中で、大いなる意志は私たちの「愛し合う姿」を見たかったのではないでしょうか?
 宇宙創造の目的を一言で述べるとしたら、「愛し合う人間を観て、大いなる意志自身が愛を体験したかった」のだと考えます。
 そのために、大いなる意志は私たちに「自由意志」を与え、その意志力で自ら世界を創造できる力を与えたのだと推察します。

「人類は猿から進化した説」は古い

 生命の誕生から、私たち「ホモ・サピエンス」が誕生するまでには、様々な進化の過程がありました。
 昔、私たちが教科書で習ったような「人間は猿から進化した」という非科学的な説は、もう古い説となっております。
 進化論は、突然変異が前提となっております。突然変異とは、劇的な環境の変化に合わせて、生物が自らのDNAを変化させることによって、進化したという考えです。
 進化論は既に非科学的な説だとされています。現在は、科学的にID理論(インテリジェント・デザイン理論「知性ある何か」によって生命や宇宙の精妙なシステムが設計された)が主流となっています。
 自然が自発的に、DNAのような高度な情報を生み出した前例は存在しないのです。誰かが手を加えないとDNAが勝手に進化することはない(違う種類に変異することはない)ことが科学的に解っているため、進化論は否定されました。

 人類は私たちホモ・サピエンスを含め、種類ほど存在し、数種類は同時期に生きていたことがわかったのです。
 現存している人に近い哺乳類である、ゴリラはボスゴリラを中心とする一雄多雌型であり、チンパンジーは多雄多雌型です。
 まずもって、ゴリラやチンパンジーのような霊長類が進化したのが私たち人類ではありません。最初の人類アルディピテクス・ラミダスという種類の人類が出現し、そこから様々な種が登場しました。そのアルディピテクス・ラミダスから、人類は一夫一婦制であったことがわかっています。

出典 NHK 人類誕生 https://www.nhk.or.jp/special/jinrui/

現代人はホモ・サピエンスとネアンデルタール人の

 その中に、およそ40年前から4万年前までに生きていた「ネアンデルタール人」がいました。これまでは私たちの先祖は、「クロマニョン人」や「原人」だけだと言われていました。ご存知の方もおられると思いますが、最新の研究では、私たちのDNAには、ネアンデルタール人のDNAもあることが解明されました。私たちは、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の交雑種だったのです。
 現代人である私たちの中には、平均で2~3%ほどネアンデルタール人のDNAが含まれています。このような事実は、NHKでも取り上げられたくらいですから、徐々に一般的に知られるようになってくると思われます。
ネアンデルタール人と私たちホモ・サピエンスがそれぞれどのような特徴を持って生きてきたかを簡単に次のページで表に示します。

 NHKスペシャル人類誕生3回シ リーズで放送された番組では、このように語られています。ネアンデルタール人は、私たちホモ・サピエンスに最も近い人類の仲間です。およそ万年前頃に、ユーラシア大陸で独自の進化を遂げました。最大の特徴は、大きな脳容量と強じんな体です。レスラーのように筋骨隆々で、マンモスやバイソンなど大型動物を狩る屈強なハンターでした。さらに、近年、新発見が相次ぎ、言語を操り、高度な文化を持っていた可能性が高いことも明らかになりました。

参考文献:NHK スペシャル 人類誕生 単行本 ‒ 2018/8/7
NHK スペシャル「人類誕生」制作班 ( 編集 ), 馬場 悠男 ( 監修 )

 しかし、体力と知性を兼ね備えながら、およそ4万年~3万年前に絶滅したのです。
 ネアンデルタール人に比べると、私たちホモ・サピエンスは華奢(きゃしゃ)で、力もひ弱でした。にもかかわらず、ホモ・サピエンスが生き残ることができた秘密は、実はその弱さにこそあったと考えられています。弱いからこそ、仲間同士で力を合わせる「協力」を高めたのです。そうして、人口を増やしていったことで、共同体で知恵を共有し、ホモ・サピエンスは、さらに「想像力」を使って発展していきました。
 このホモ・サピエンスとネアンデルタール人の交雑と聖書の失楽園の物語を、科学的に解明されている史実と組み合わせて読み解いていきます。

参考リンク:https://www.nhk.or.jp/special/jinrui/

ネアンデルタール人との禁断の交雑に隠された「失楽園の裏物語」

 西洋の3大宗教、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の聖典、旧約聖書の「失楽園の物語」は人間の始祖アダムとイヴが善悪を知る木の実を取って食べたことが諸悪の根源(原罪)となっているのは、ご存知の方も多いと思います。
 多くの方はこの物語をおとぎ話のように感じておられると思うのですが、実はこの話の比喩を読み解いていき、考古学的に解明していくと、一つの結論が導きだされます。

 「失楽園の物語」の簡略なあらすじは、大いなる意志がエデンの園に人間の始祖アダムと女(イヴ)を住まわせられたところから始まります。
 女(イヴ)は、ヘビ(後に堕天使ルシファー)に誘惑され、大いなる意思との約束を破り「善悪を知る木の実」を取って食べました。女(イヴ)はそれを夫アダム)にも与えました。最後は、大いなる意志が、約束を破った彼らをエデンの園から追放されたという物語です。

 実際の聖書を読み解いていきます。

聖書:創世記2章15節~17節
 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」

聖書:創世記2章18節~20節
 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。

聖書:創世記2章22節~23節
 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」 

聖書:創世記第3章1節~24節
3:1
さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」
3:2
 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
3:3
ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」
3:4
 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
3:5
 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」
3:6
 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
3:7
 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
3:8
 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
3:9
 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」
3:10
 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」
3:11
 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」
3:12
 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」
3:13
 そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」
3:14
 主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。
3:15
 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」
3:16
 つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」
3:17
 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
3:18
 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。
3:19
 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」
3:20
 さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。
3:21
 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
3:22
 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」
3:22
 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。

 聖書では、人間の始祖アダムとイヴが善悪を知る木の実を取って食べ、堕落し、それが罪の根となったということが記載されています。しかし、それは比喩的な表現で、それが具体的に何を意味しているかは、はっきりとわからないままです。

 聖書には、天使(大天使長・堕天使・ルシファー・蛇)について数多く記載されています。キリスト教の伝統においては、ルシファーは堕天使の長であり、サタン、悪魔と同一視されています。また、神学で定式化された観念においては、悪魔はサタンともルシファーとも呼ばれる単一の人格でした。
 聖書のイザヤ書第6章を読むと、天使は翼が生えた獣に近いような形で描かれています。熾天使(セラフィム)と呼ばれる階級の天使は、全員6枚の翼をもっているとされ、ルシファーもその中の一人でした。西洋美術でも、天使は翼をもっている姿として、描かれていることが多く見受けられます。
 「天使=獣に近い人類=類人猿」と解釈して考えていくと、聖書で描かれている天使とは、「類人猿」のことだと推察できます。
  聖書での「天使」の記述は、「類人猿」を指しており、その類人猿とは人間(現代人)を含まない人類であるということです。
 失楽園では、現代人(ホモ・サピエンス)を人と記述されているのに対し、天使(類人猿)は生き物として記されています。さらには、新約聖書では現代人(ホモ・サピエンス)は神の子とされているのに対し、天使は神の僕と記載されています。

 本書では、失楽園の物語は、私たち人類とネアンデルタール人の交雑を意味していると考えています。ここから、その根拠について書いていきます。

「性欲」に罪悪感を覚えてしまう人類の秘密

 聖書の創世記2章25節に、「罪を犯す前、アダムとイヴは裸でいても恥ずかしいと思わなかった。しかし、彼らが堕落した後には、裸でいることを恥ずかしく思い、無ちじ花果くの葉をもって下部を覆ったのである。(創世記3章7節)」とあります。

 人間は恥ずかしいところを隠すのが本性です。堕落した後、手や口を隠したのではなく、下部を隠したのです。それは下部を恥ずかしく思ったことを表しています。
 イヴを誘惑して、罪を犯させたのは蛇であったと聖書に記載されています。(創世記3章4節5節)、ペテロ2章4節には、「神は罪を犯したみ使いたちを赦し給わず、地獄に投げ入れられた」と記載されています。
 ユダ書6節~7節に「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去ったみ使いたちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗闇の中に閉じ込めておかれた。ソドム、ゴモラ(聖書の中で神に滅ぼされた街。現在チグリス・ユーフラテス流域の街である説が有力)も、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている」と記録されています。

 聖書から「性欲」について読み解くと、人類の始祖が性的な何かで堕落し、それが原罪と呼ばれるようになったと考えられます。
 一般的に三大欲求と言われているのは、「食欲」「睡眠欲」「性欲」です。その中で「食欲」「睡眠欲」については、人前で行われます。
 「お腹が減った」「眠い」という言葉は人前でも言えるのに、どうして「セックスがしたい」という言葉は、なかなか人前で言いにくいのでしょうか?性欲の話題になると、何か罪深いことをしているように感じてしまう性質が、私たちの中にあるのではないでしょうか?三大欲求の中で、なぜか唯一「後ろめたい」と感じてしまうのが性欲です。

 「性欲」については、世界中の人々が何故か持っていることを隠そうとし、夫婦間の性交でさえ、一般的には隠れた場所で行われていることからも、人類共通の罪悪感であることがわかります。
 聖書の失楽園(アダムとイヴがエデンの園を追放される話)の物語は、エデンの園で起きたとされていて、その場所は中東であることが解明されています。同時期のネアンデルタール人の遺跡とホモ・サピエンスの遺跡が中東でそう遠く離れていないところから発見されているため、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは中東で出会ったとされています。このことからも、聖書に書かれている物語は、我々人類とネアンデルタール人との交雑を意味していると考えます。
 「禁断の果実」だとわかっていたのに、性欲に負けて大いなる意志との約束を破ってしまった性欲に弱い性質が、人間にはあるということです。

第3章 人類の「嫉妬」はここから始まった

ネアンデルタール人に芽生えた「ある感情」

 失楽園の最初の堕落を引き起こす動機に「嫉妬」という感情があったのではないかと推察します。新約聖書に次のような記載があります。

聖書:マタイによる福音書 20章1〜16節
20:1
 天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2
 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20:3
 また、9時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4
  「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言った。
20:5
 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、時ごろと3時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6
 5時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねると、
20:7
 彼らは、「だれも雇ってくれないのです」と言った。主人は彼らに、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言った。
20:8
  夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言った。
20:9
 そこで、5時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10
 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11
 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12
 「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中を同じ扱いにするとは。」
20:13
 主人はその一人に答えた。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14
 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15
 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」
20:16
 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。

 ネアンデルタール人はホモ・サピエンスが誕生する何万年も前から地球で繁栄していました。ホモ・サピエンスが誕生するまでは、ネアンデルタール人が万物の霊長の立場だったのです。
 大いなる意志に愛されていると感じていたネアンデルタール人ですが、彼らは賢さゆえに、自分たちよりも愛され、栄えている存在が誕生したことに気がついてしまったのだと推察します。その存在がホモ・サピエンスです。
 「自分たちが一番上である」「自分たちが世界を制している」と思っていたネアンデルタール人は、「自分たちが一番上ではない」「大いなる意志に愛されていない」と徐々に感じ始め、「大いなる意志からの愛情が減少した感覚」を覚えるようになりました。
 そして、ネアンデルタール人の中で、ホモ・サピエンスに対して「嫉妬」という感情が芽生えたのです。

ドラマティックだった「危険な恋」

 考古学の度重なる発掘調査では、ネアンデルタール人は主にヨーロッパ大陸を中心に生活をしていたとわかっています。聖書での記載と照らし合わせると、大いなる意思は、まず、神の僕であるネアンデルタール人を寒冷地であるヨーロッパに生息させ、地球で生きる知恵や技術を探究させ、それを子どもである人間(ホモ・サピエンス)に教えさせる計画だったと推察します。

 そして、年代には幅がありますが、約万年~5万年前に、暖かいアフリカの地に誕生させたホモ・サピエンスが北へと旅立ち、現在の中東(聖書で記載されているエデンの園があった場所)でネアンデルタール人と出会いました。考古学的にも、同時期に同じ地域で彼らが生活していたことが解明されています。

 それと同時に、前述しました聖書:創世記第3章1節~24節にありますように、彼らは神のルールを破ってしまいます。ネアンデルタール人は「神の僕」としての役割から逸脱して、「神の子」であるホモ・サピエンスと交雑するにいたったのです。

 現代を生きる私たちからすれば、この交雑は黒人と白人が結婚するというような「国際結婚」程度の距離感に捉えられてしまうかもしれません。しかし、生物学的に考えると、この交雑はそのような肌の色が違う人同士の結婚とは違うものです。同じヒト科であっても、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は別の生物なのです。例えるなら、同じネコ科のライオンとトラが交雑するようなものです。自然界では通常起こらない行為をしてしまったのです。

 彼らが初めて出会った時は、どんな出会いだったのでしょう?
 お互いに見たこともない生物だったのですから、さぞかし刺激的でドラマチックだったと思います。
 サルでもなく、オラウータンでもなく、自分たちと似ているけど異なる人種、私たちが想像する宇宙人のような感覚だったのかもしれません。
 果たして大いなる意志の計画通りに、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は、「大いなる意志の子ども」「大いなる意志の天使」になったのでしょうか。

 この交雑がどのように行われたのかはわかりません。もしかすると、純粋にネアンデルタール人とホモ・サピエンスが恋愛したのかもしれません。しかし、私たちよりも賢い頭脳を持っていたネアンデルタール人は、それは「不自然なこと」つまりは、「やってはいけないこと」と理解していたことは容易に想像できます。

 生物の垣根を超えた2人は純粋に愛し合っていたのかもしれません。もしかすると、賢く強いネアンデルタール人男性から見ると、華奢で小さく、純真なホモ・サピエンス女性はどうしようもなく可愛かったのかもしれません。ネアンデルタール人男性は、彼女らがホモ・サピエンスの男性(アダム)の相対であることに嫉妬したのかもしれません。
 真相はわかりませんが、科学的なデータが示しているように、私たちホモ・サピエンスの先祖は、どこかで他の生物であるネアンデルタール人と交わったのです。
 1組のネアンデルタール人とホモ・サピエンスが違う生物と交わるという「禁断の果実」を食したのです。南アフリカの一部の地域を除いたほとんどの人類にネアンデルタール人のDNAが含まれている事実からも分かる通り、最初に誰かがそのルールを破り、次々と交雑が行われたことがわかります。

 しかし、聖書の記載から推察すると、宇宙の大いなる意志としては、それは望ましいことではなかったということです。聖書の中では「イヴが蛇(サタン=堕天使ルシファー)に誘惑されて禁断の果実を食した話」として描かれています。

 もちろん、それを断りきれなかったホモ・サピエンスにも責任があるといえます。それを聖書では「原罪」として描かれているのです。

結論(本書の核心)

 聖書に出てくる堕天使ルシファーは、ネアンデルタール人を指しているということです。そして「禁断の果実」とは、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の性行為を指していると考えます。聖書の中のイヴとアダムをどう読み解くかについては、諸説あると思います。例えば、イヴとアダムは一人ずつではなく、堕落当初、複数で堕落し、その象徴であるとも考えることができます。

現代人がネアンデルタール人から受け継いでしまった原罪

 私たちの身近な先祖をさかのぼれば、科学的に間違いなくネアンデルタール人にたどりつきます。私たちが生きる上で、そのネアンデルタール人の精神性とホモ・サピエンスとの関係について知識として知っておく必要があると思います。

 ネアンデルタール人との交雑は、私たちにどのような影響を与えているのでしょうか?前章でもお伝えした通り、ネアンデルタール人のDNAは、まだ私たちの中に残っています。これは科学的なデータとして、最先端の遺伝子研究所が発表している事実です。是非一度インターネットなどで調べてみてください。およそ2%(前後2~3%)の割合で私たちの中にネアンデルタール人が生きているのです。
 ネアンデルタール人とホモ・サピエンスが交雑した時代は、交雑種が数多く存在し、交雑種同士がまた交雑を繰り返していきましたので、DNAにおける交雑率は現在よりも高く、50%程度あったのではないかと推測します。
 現在は、DNA交雑率が約2~3%です。何らかの理由によってネアンデルタール人のDNAが淘汰されていったので、ホモ・サピエンスの純血種に戻りつつあるといえます。

 今だにはっきりした原因はわかっていませんが、その後、ネアンデルタール人はおよそ4万年~3万年前に突如絶滅してしまいました。

 「ネアンデルタール人は何を思い絶滅していったのか」を考える上で参考となる壁画が残っています。
ヨーロッパ大陸の端に、海の向こう側にアフリカ大陸を臨むジブラルタル海峡があります。そこの洞窟に、生き残ったネアンデルタール人が最期の時を過ごしたと考えられる遺跡があります。その最後の1人が残した壁画はこのようなものでした。
 この壁画は何を意味しているのでしょうか?それ以前の壁画は、動物等芸術的な絵を描いたものが見つかっていますが、ネアンデルタール人の最後の壁画とされる絵はこのように×印が残っています。

出典 https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/9672/

 ネアンデルタール人は、一体どんな思いで最期を迎えたのでしょうか?

 仏教では、輪廻転生という考え方があります。死んだら、その精神(魂)だけが残り、また新しい別の肉体の精神(魂)として生まれ変わるという考え方です。
 精神(魂)は、肉体を持っている時と、肉体を持っていない時があるという考えです。また、精神(魂)が、肉体を持っている精神(魂)に影響を及ぼす「憑依」という考え方があります。「守護霊」と呼ばれる霊が肉体を持っている人間を共助するという考え方もあります。

 ネアンデルタール人の絶滅について、この考えに基づいて解釈すると、彼らの最後の無念な想いは精神世界に残ったと考えられます。ネアンデルタール人たちの最初の交雑が行われた前後の精神は、嫉妬心、大いなる意志に対する反抗心などであり、その心がネガティヴな魂として残ったということです。現在も、ネアンデルタール人の魂は、精神世界に存在していることでしょう。
 先祖の霊が私たちの思考や行動に影響を与えているのと同じように、ネアンデルタール人の霊も私たちの思考と行動に影響を与えています。言い換えますと、私たちの祖先はホモ・サピエンスだけではなくネアンデルタール人も祖先なのです。

全人類は一度「死んだ」

 最初に堕落した女性(イヴ)も、ネアンデルタール人と交雑した後になって、間違った相手と交雑したことの重大性を深く感じたのではないでしょうか?
 大いなる意志の言いつけを守らなかった罪悪感、性に対する好奇心、後悔。そして、何か天罰を下されるような恐怖感を覚えたのではないかと推察します。
 その上、ネアンデルタール人の子どもを妊娠したことが分かった時は、どれほどショックで恐ろしい想いをしたのかしれません。
 大いなる意志が望まない交雑とその出産を、イヴは、どのように受け止めたのでしょうか?その最初の交雑を経験したイヴの感情や感覚も、イヴの魂(精神・心)に深く刻まれたことは確実だと言えます。
 そのイヴの気持ちも魂として、精神世界に存在しているということです。堕落した当時のネアンデルタール人とイヴの双方の精神性が、現代人である我々にも残っています。
 ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の双方の魂(精神・心)に、堕落による深い爪痕は残りました。その後も、私たちホモ・サピエンスは交雑種同士で交雑を繰り返し、今も肉体のある状態で生き続けているのです。

 聖書には以下のように記述されています。

 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2章~節)

 「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです」(コリントへの手紙第1章~節)
 聖書では、アダムを「生命の木」、イブを「善悪の知識の木」と表現しています。そして、コリント人への手紙から考えますと、全ての人類は死んでしまっているということになります。これは、堕落によって、全ての人類が堕落した気質になってしまったことを「死んだ」と表現しているのだと思います。

 「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。
 愛は自慢せず、高慢になりません。
 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(コリントへの手紙第13章4~7節)

 大いなる意志は元々、人類全てを等しく愛されていました。それぞれ個性的で、愛他精神に富んだ精神性をもっていたのです。
 堕落する前のホモ・サピエンスは、貢献感と愛他精神に満ち、他者のために誠心誠意、行動できる人類でした。か弱く能力も比較的貧弱だったホモ・サピエンスは、集団力、助け合う力で様々な文化文明を築いて、協力することによって繁栄して、生きてきたのです。また、ホモ・サピエンス同士だけでなく、動植物を愛し、助け合う優しい気持ちを持って、自然と共存していたと思われます。

輪廻転生を繰り返す「堕落因子」

 堕落時とその結果に生じた気質と欲心を、本書では「堕落因子」と定義します。堕落因子とは、「他人との比較」「嫉妬心」「承認欲求」「愛情欲求」「独占欲」「支配欲」「反抗心」「憤り」「破壊欲」「攻撃性」「残虐性」「罪悪感」「恐怖(不安心配)」「絶望感」「恨み」「後悔」「被害妄想」「背信」「呪い」「責任転嫁」「猜疑心」「自己中心的な思考」そして「異常な性欲」です。堕落因子についての詳細と克服方法について、本書全体を通して詳しく書いていきます。
 現代人は、肉体は純血種に戻って行きつつあります。精神(堕落因子)はどうなのでしょうか?私の考えでは、その精神(堕落因子)も輪廻転生を繰り返しながら、研鑽され復帰されてきていると思います。

 大昔、人類の始祖が残した傷跡は、私たち現代人には、ほとんど関係ない話だと思われるかもしれません。ところが、現在の世界の問題のほとんどは、この時に犯した原罪による堕落因子に起因しているのです。なぜ、堕落因子がそれほど現在、社会に影響していると言えるのかを説明していきます。

第4章 現代人を振り回す「堕落因子」の真実

犯罪は「堕落因子」から始まる

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