見出し画像

【エヴァ考察】続・ナウシカの続きとしてのエヴァ〔完全版〕

引き続き後編です[末尾註1](前編はこちら).


4.『エヴァ』の場合

前回は漫画版『ナウシカ』について,その難解なラストシーンを中心に確認しました.ここからは『エヴァ』です.“ナウシカの続きとしてのエヴァ“は人類補完計画に色濃く表れています.

シンエヴァを経た現在,その補完計画の内容は2つに分けて理解できます.1つは魂の容れ物(=体)をエヴァに取り替えること(これをフィジカルの補完といいます).もう1つは魂=心の救済です(メンタルの補完といいます).

人類補完計画=フィジカルの補完+メンタルの補完

以下では,まず旧作と新劇とで計画の内容は同じだけれど,その背景が異なるといったことを確認していきます.


(1)フィジカルの補完

フィジカルの補完について新旧を概観しましょう.

1)旧作の場合

旧作の補完計画の背景には,人類存亡にとって切実な理由がありました(下記動画が参考になります).

この動画によると,エヴァの世界は飢餓や出生率低下等で人類の数が減る一方,人口はこれ以上増えない状況にあるようです.劇中に一瞬映る新聞等に垣間見えた飢餓や少子化問題は,単に私たちの現実世界を反映したというよりも劇中オリジナルな社会問題であり,我々が想像するより深刻なものだったと考えた方がいいかもしれません.

人口がこれ以上増えない中,寿命等で自然に減り続けるのですから,人類は滅びの道にあるといえます.補完計画によって種の存続を図る.具体的には生命の実を備えた(不死の)生命体へ強制進化することでこれを打開しよう.これが人類補完計画の背景の1つです.この強制進化については新劇でいうフィジカルの補完と同じです.

(Q・C-0804以下)
カヲル「だから、自らを人工的に進化させる為の儀式を起こした.古の生命体をニエとし、生命の実を与えた新たな生命体を造り出す為にね.全てが太古よりプログラムされていた絶滅行動だ.ネルフでは、人類補完計画と呼んでいたよ」


2)旧作のフィジカルの補完?
もっとも,フィジカルの補完という言葉はシンエヴァで初めて使われた用語であり,旧作には出てきません.しかも,旧作ラストは主にメンタルの補完が描かれたこともあって,フィジカルの補完の印象は残っていないと思います.

ですが,先ほどの人類の行き詰まりという背景に加えて,次の台詞と画像はフィジカルの補完に関連する描写として理解できるものです.

(25話‘C-43,44)ミサト「出来損ないの群体として既に行き詰まった人類を完全な単体としての生物へ人工進化させる補完計画.まさに理想の世界ね.そのために委員会はまだ使うつもりなんだわ.アダムやNERVではなく、あのEVAを」

大量の白いヒト形は新旧共通.旧劇のそれもエヴァ♾だったといえます

これらを総合すると,フィジカルの補完は旧作にも存在したとみていいでしょう.旧作本編では断片的にしか触れられませんでしたが,詳細に描写することができなかったというだけで実際はフィジカル面の補完もされていた,と考えたいと思います.

さて,シンジが最終的に計画を拒否した結果,旧作のフィジカル面どうなった問題というものがありますが,これは末尾註で扱うことにして先に進みます[註2].


3)新劇場版の場合
続いて,新劇補完計画の背景はどういったものだったか確認します.リリンの王の台詞から考えましょう.

ゲンドウ「知恵の実を食した人類に神が与えていた運命は2つ.生命の実を与えられた使徒に滅ぼされるか、使徒を殲滅し、その地位を奪い、知恵を失い、永遠に存在しつづける神の子と化すか.我々はどちらかを選ぶしかない」

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

新劇ではこのように使徒に滅ぼされるか,神の子になるかの2択に応えるための補完計画になります.どういうことか.

そもそも旧作のように人類滅亡を阻止したいならば,使徒殲滅によって避けられたように思えます.

つまり,旧作の理解を引っ張れば,滅亡の危機が去ったのに人類が神の子=使徒になる必要はあるのかという疑問が生じます.というのも,先ほどの通り旧作には人口減少問題という切実な事情がありましたが新劇にそのような事情はありません[註3].したがって,使徒殲滅で人類存続はほぼ確定します.新劇では人類に進化を強いる道理がよくわかりません.

ここに旧作からの変更があります.どういうことかといえば,神の視点からすると,人類が使徒に滅ぼされることで知恵の実の生命体はいなくなり,また人類が使徒に移行することによっても知恵の実の生命体はいなくなります.神はこうした2段構えで知恵の実殲滅を敢行しようとしています.

仮に,旧作同様に新劇でも人類が滅びの運命にあるという場合,このように神が知恵の実を持つ生命体の存在を許していないことが背景にあります.つまり,"知恵の実を得た存在としての人類"が滅びの道を強いられているということです.

聖書にはアダムとエバがエデンの園を追放される失楽園物語(英:Paradice Lost)というものがありますが,そこでは人間が神のように賢くなることを問題とする記述があります(創世記3:5-6, 22).新劇エヴァの神が知恵の実を持つ生命体の排除を目論むのはこの失楽園物語に由来していそうです.

知恵の実は聖書における禁断の実,楽園にある善悪の知識の木の実です[註4].聖書でアダムとイブが楽園を追放されたのは,神の掟に背きこれを食べたためでした.この失楽園物語は人類の堕罪物語として読まれ,原罪の教理がここから導き出されてきました.

なお,地上に降りた2人には罰として労苦死が神から与えられます.労働は贖罪と悔悛かいしゅんの行為として捉えられるのが聖書本来の考え方です.

新劇では「罰」について聖書をモチーフとしつつ手を加えています.具体的には,聖書では罰として労苦死を与えましたが,新劇では人類に上述運命を与えます.そのため人類補完計画は知恵の実を食した罪を浄化するための贖罪の儀式として位置付けられることになります.

以上から,旧作と新劇はともに人類滅亡の危機の発端を,知恵の実を食した点に求めることができますが,理由が少し異なることがわかったと思います.

旧作:知恵の実ゆえに存続危機←永遠の生命力に関わる生命の実との対比
新劇:知恵の実ゆえに存続危機←神の怒り(失楽園物語)

これが新旧補完計画の背景の違いです.


ちなみに,新劇を根っこで支える世界観が神,あるいは神の掟の存在です.『エヴァ』の世界はこの神の掟に支配されています(下記台詞).それゆえ神の与えた運命を人間は覆すことができない[註5].

リツコ「私たちは神に屈した補完計画による絶望のリセットではなく,希望のコンティニューを選びます」
ミサト「私は神の力をも克服する人間の知恵と意志を信じます」
ゲンドウ「真理の捉え方の違いだ.葛城大佐には世界が,赤木君には幸せの形が見えていない.ヒトの思いでは何も変わらんよ

シンエヴァ

これも聖書に由来するのでしょう.聖書には「摂理」(英:providence)という議論の蓄積が厚い概念があります.簡単にいえば「宇宙および歴史を一定の法則あるいは計画に従って支配すると考えられる神的原理」(後掲・大貫)のことで,神の世界支配にかかわるものです.

上記副長とゲンドウの台詞からヒトは神に敵わないことが分かります.ここから,ヒトのままではダメというわけでネブカドネザルの鍵を使ったのがゲンドウ.ヒトのままヒトの意志が生み出す奇跡によって神を越えようとしたのがミサトというお話になります.

ちなみにゲンドウの「赤木君には幸せの形が〜」は,おそらく後述するメンタルの補完のことを,あるいはアディショナルのことを言っています.ユイとの再会と神殺しという彼の目的をリツコは分かっていないと言いたいのでしょうか(この辺は空白の14年に関わりそう).

話を戻すと,結局のところ,フィジカルの補完については旧作の限りある命から永遠の命への移行というニュアンスは新劇では薄れます.その代わりに知恵の実を食した原罪に対するあがないの側面(知恵の実の生命体の殲滅)が計画の主たる理由となっています.

翻って,旧作の人類補完計画では知恵の実を失っていないと考えられます.ゲンドウ「そうだ.かつて誰もがなし得なかった神への道.人類補完計画だよ」(21話C-181)という台詞に表れているといえます.知恵の実+生命の実=神.



(2)メンタルの補完

次にメンタルの補完についてです.まずは旧作から.

(26話C-21~27)
ミサト「そうよ.私たちは皆同じなのよ」
リツコ「心がどこか欠けているの」
アスカ「それが怖いの」
レイ「不安なの」
ミサト「だから、今一つになろうとしている」
アスカ「お互いに埋め合おうとしている」
レイ「それが補完計画」

欠けた心を他者と補い合うため1つになるのが魂の補完です.これが基本です.

では新劇はどうか.

ゲンドウ「お前が選ばなかったA.T.フィールドの存在しない、全てが等しく単一な人類の心の世界.他人との差異がなく、貧富も差別も争いも虐待も苦痛も悲しみもない、浄化された魂だけの世界.そして、ユイと私が再び会える安らぎの世界だ」

シンエヴァ

旧作の内容に追加が認められるでしょう.補完によって貧富や差別などの問題もなくなるそうです.新劇ではこのような社会問題も個人の心のありようと同根の問題として把握されています.メンタルは個人の内面から社会問題までカバーする広い射程を持った問題群.こうした変遷の経緯は気になります(全集インタビューに期待).

いずれにせよ個人の内面から生じる問題を魂=心を1つにすることで克服しようとするのがメンタルの補完になります.



5.『ナウシカ』の続きとは

(1)物語の構造

こうしてみてみると『ナウシカ』と『エヴァ』それぞれの計画とその背景が同じ構造を持っていることに気づくでしょう.

『ナウシカ』では,人の持つ心の闇が人類という種の存続はおろか地球環境をも壊滅的状況にしたという認識に立ち,そうした認識を持った旧世界の一部の人間が例の計画を実行します.それは汚染された大地の浄化とともに現人類は滅び,おだやかな心を持った新人類へと移行するいわば人類浄化計画といえるものです.

旧作エヴァでは,人口問題で滅びの危機に瀕した人類が種の存続のために完全な生命体へ進化する人類補完計画を立ち上げます.

新劇の場合,滅びの危機の原因は知恵の身を食した原罪となります.人類から知恵の実を取り除き,生命の実を持つ使徒に新生する“贖罪としての補完計画“.

すなわち,『ナウシカ』も『エヴァ』も現人類が滅びの道を辿っていることを背景に,その打開策として新人類へ強制移行という構造になっています.しかも両作品とも心と身体という2つの側面を視野に入れている点も共通します.

ナウシカ:種の危機→人類浄化計画(おだやかな心&清浄に適応した身体)
エヴァ:種の危機→人類補完計画(フィジカル&メンタル)


(2)ナウシカ2

こうしてみると庵野さんは,滅びの近い人類が選択した打開策(計画)の是非という『ナウシカ』の物語構造(あるいは話の骨格と呼べそうなもの)を換骨奪胎し,『エヴァ』という新たな装いのもと世に送り出したといえます.

つまり「ナウシカの続き」とは映画ナウシカで描かれたかった漫画版(特に第7巻)を指します.映画版はそうした物語構造が明らかになる前の段階(漫画版でいえば第2巻)で話が終わっています.

おそらく庵野さんは,ナウシカについて,人類存亡の危機に際し新しい心と体という選択肢を与えられた人類は果たしてどうなるのか,というシュミレーション要素に注目し,映画版ナウシカで描きれなかった漫画版のこの部分を『エヴァ』に引き継いだ(翻案した),ということのが本記事の理解になります.

そういうわけで庵野さんが『ナウシカ』の続編(第7巻)を作りたいというのも理解できるかもしれません.最近,彼自身が多大な影響を受けたというウルトラマンや仮面ライダーを自ら手がけています.『ナウシカ』を作りたいというのもそれらと同じと考えることができます.オリジナルを手がけたいという思い.『ナウシカ』も庵野さんに多大な影響を与えた作品の1つです.

ちなみにナウシカの続きを自分なりに作ったのが『エヴァ』だとすると、『エヴァ』には実質ナウシカ2の側面があります.仮に今後,庵野さんがナウシカをつくるとしても今回触れた原作の構造については変えてこないと予想できます.



6.『ナウシカ』の続き・その2

“ナウシカの続きとしてのエヴァ“の大部分は以上になりますが,両作品とも賢い人たちが考えた計画の是非が問われる物語の構造上,主人公がその計画に決断を下すことになります.その決断の理由を詳しく見ていけば,おそらくそこに庵野さんのいう"自分なり"の要素がみられると思うので少し見ていきます.

(1)シンジの場合

シンジが人類補完計画を拒否した理由を簡単にまとめます(主に新劇).
シンエヴァで彼は人類補完計画を半ばスルーしてネオンジェネシスを発動したので,補完計画を彼がどう考えたかは明示されませんでした.が,次のカヲル君の台詞からある程度読み取ることはできます.

相補性のある世界を望む.変わらないなシンジくんは」

シンエヴァ

「変わらない」というので,どうやらどの世界線でもシンジは相補性のある世界を望んでいたようです(旧作の解説は「現実,真実,そして夢」).

つまり,旧劇でシンジは他人の存在を願いましたが,それは相補性のある世界を望むことを意味していたということです.他人がいない自分1人だけの世界では,そもそも補い合うことはできないということでしょうか.

ここで相補性について見ていきます.この相補性はメンタル及びフィジカル双方の補完を拒む理由に結びついています.相補性は劇中で具体的に描かれています.まずはシンジが相補性に気づいていく流れを確認します.

「もう何もしたくない、話もしたくないんだ.もう誰も来ないでよ!僕なんて…放っておいて欲しいのに!」

最初は塞ぎ込んでいましたが,レイを筆頭に旧友たちの温かさに触れて彼のATフィールドは溶かされます.そして今度は,

カヲル「君は何を望むんだい?」
シンジ「僕はいいんだ.つらくても大丈夫だと思う.僕よりもアスカやみんなを助けたい」

助けられるばかりではなく今度はシンジが誰かを助ける側に.これが相補性.これが圧倒的成長!…というよりも,実は彼は元々困ったときはお互い助け合うといった,ごく普通の関係を望んでいた普通の少年だったとも理解できます(そこにたどり着くまでの障害がありすぎた.不器用な父とヤマアラシのジレンマ等).

第3村でシンジは相補性に気づいていくのですが,これに関連して,第3村が相補性を体現する場所,つまりシンジにとって理想の場所として描かれていた点は指摘しておきたい.

女性「いつもありがとう,ヒカリ」
ヒカリ「いいのよ.こういうのはお互いさま

このように助け合う描写が随所に見られました.相補性という観点から第3村が理想郷のように描かれた理由は次回予告に垣間見られます.

「生きる気力を失ったまま放浪を続ける碇シンジ.たどり着いた場所が彼に希望を教える

第3村はシンジに希望を与える場所という設定があった.劇中で壊れたシンジを立ち直らせたのは第1に仮称のレイさんだったのですが,その彼女も第3村の人々と触れ合い人間らしさを獲得した上でシンジにバトンをつなぐので,実質第3村がシンジを癒したと考えれば予告通りです(この点で偽予告ではなかった).とにかくも物語の設計上,彼が相補性に気づく場として用意されたのが第3村.

話を戻します.この相補性がフィジカル,メンタルの補完を拒否する理由にどう結びつくのでしょうか.

まずフィジカル面について.フィジカルの補完はエヴァインフィニティに移行することでした.それらはいわば使徒です.使徒は単独で完結した純完全生物体であり相補性を必要としない生命体.するとすでに見てきたように,人々が互いに支え合い生を紡いでいく世界を望むシンジとは相容れないことになります.

次にメンタル面について.メンタルの補完とは「A.T.フィールドの存在しない全てが等しく単一な人類の心の世界」.他人との差異がない上に,実質他人のいない世界でした.

現実,真実,そして夢」でも述べたことですが,第3村でシンジは空白の14年間のトウジ,ケンスケ,ミサトについて知らされます.こうした経験も他人の存在や差異を前提にしてはじめて成り立つものといえます.

彼らの生,彼らが選んだそれぞれの生き方を知り,つまり他人から影響を受けてシンジはゲンドウとの対峙に臨んだわけで,良くも悪くも人々が影響し合っていくことを含めての「相補性」なのでしょう.このように自分とは異なる他人の存在を前提とするため,シンジとしては単一な心の世界を導くメンタルの補完は拒否しなければならない.

ちなみに,こうした発想は意外と身近な経験からきているのかも知れません.

清水「〔貞本義行氏について〕追い込みのときの取材でも,実に楽しげでした」
庵野「追い込みの二ヶ月間,ずっといましたね.ちょっと,ひやかしにカラーをのぞいてみたらみんな面白そうだったので,自分も参加したいというか,混ざらないともったいないと思ったんじゃないですかね」「集団作業の面白さというか,あの「お祭り」な感じは一度味わうとなかなか忘れられない快感だと思いますから」

序全集インタビュー465頁〔〕内引用者補足


(2)ミサトの場合

続いて葛城ミサトさんです.旧作の当初は第2の主人公だった彼女は,新劇になってその主人公属性を遺憾なく発揮していましたが(下記ツイート),ナウシカ,シンジと並べると見えてくるものがあるためここで触れたいと思います.

具体的には彼女が人類補完計画を反対する理由を見ていきます.

「私は神の力をも克服する人間の知恵と意志を信じます」[註6]

神の意向により人類は知恵を失うことになるので,人間の知恵と意志にこだわるミサトにとって補完計画は阻止すべきものとなります.

この「人間の知恵と意志」はおそらく庵野用語なので説明が必要です.次の台詞と庵野さん自身の言葉でなんとなく理解できます.

ミサト「ヴンダーに人の意志が宿ればさらなる奇跡もあり得るわ.リツコの知恵とヴィレとヴンダーの言霊を私は信じる」

シンエヴァ

「アニメーションを観るのは、面白い」
「アニメーションを作るのは、さらに面白い」
「特に『エヴァ』は面白いと思う」
「効率論を駆使した方法と、無視した方法が混在している、ハイブリッドな作り方をしているからだ」
「『新劇場版』も同じような作り方になった.つまり、奇跡の詰め合わせみたいな作り方で作品になったのだ」
「その奇跡をカタチにするのが、ヒトの意志だと思っている」
「スタッフ、キャストのリスクと責任を負う覚悟が、その意志を生み出していると思っている」

序全集1頁

これらを総合すると,人の「覚悟」が生み出す「意志」と「知恵」によって「奇跡」は起こされる,といった発想が読み取れます.

〈知恵+意志(←覚悟)〉→奇跡!!

この覚悟と意志もリリンだけに備わるものなのでしょう.したがって,エヴァの世界で知恵と意志を持つのは神を除いて人間だけ.人間だけが奇跡を起こせる.翻って,神は自身を脅かす存在となりうる人類から知恵の実要素を消そうとしたのでしょう.

劇中では人類が聖なる槍に匹敵するガイウスの槍を生み出す奇跡を起こし,神の運命に打ち勝ちました.これは先ほどの「摂理」を人の手で打ち破ったことを意味します.

「〔神の槍を失っても〕世界をありのままに戻したいという意志の力で作り上げた槍,ガイウス,いえヴィレの槍.知恵と意志を持つ人類は神の手助けなしにここまできてるよ,ユイさん」

そういうわけで,シンエヴァでもちゃっかりミサトは人間とは何かという補完計画を拒む理由を劇中で示す役割を担った重要人物,すなわち第2の主人公をしていた.しっかり見せ場が用意されていたわけです.


(3)ナウシカとの比較

1)ありのまま
さて,ここで今一度ナウシカが拒絶した理由を確認すると,それは生命への侮辱でした.「清浄と汚濁こそ生命」であることを見抜いた彼女は,心からその汚濁要素である“闇“を除こうとした旧世界の人たちを受け入れることができなかった.

生命に操作を加えることへの違和感.命そのものを見つめ直したのが『ナウシカ』.

『エヴァ』でも人間という器を捨てる進化への違和感があります.この違和感は補完計画を主導するゼーレが醸し出す怪しさによって演出されます.そして人類は「出来損ないの群体」や「人は群れてなければ、生きられない」反面,相補性を発揮し,知恵と意志で奇跡を起こすことのできる存在として描き出されました.

また,欠けた心を補完するため魂を統合することについても同様です.人の心は弱くて脆くてもそうした自分を受け入れて前に進むことのできる存在ですし(TVシリーズシンジ,シンエヴァゲンドウ),他人の存在を必要としながらその他人を支えて生きていく(相補性).そうした人間の営み,人間そのものを見つめ直したのが『エヴァ』といえるでしょう.

このようにありのままを見つめ直す『ナウシカ』の視点を『エヴァ』は引き継いでいます[註7].

2)奇跡について
続いて,そのありのままが奇跡を起こすことも両作品で共通する特徴です.

前編記事の確認ですが,『ナウシカ』では生命それ自体が奇蹟であり,予定された滅びの運命を超える力はもとよりこの生命自体に内包されていました.そして無駄とも思える生死のくり返しの中でいのちが変わっていくことでおそらく滅びの運命を打ち破るだろうという希望で物語は閉じられていました(私個人の解釈ですが).

『エヴァ』では上述の通り,奇跡は自らの意志で起こすものでした.このことを意識した台詞があります.

(破C-446・447)
リツコ「奇跡を待つより地道な努力よ」
ミサト「待つ気はないわ.奇跡を起こすのよ.ヒトの意志で」

『ふしぎの海のナディア』
サンソン「奇跡ってのは,自分の力で起こすもんです」

リツコの台詞にある「奇跡」はナウシカのそれでしょう.生死の繰り返しから生まれる,長い目で待つしかない「奇跡」.それは人類自らの意思で起こすものではないのです.「いのち」の力が起こすものですから.

しかし『エヴァ』の使徒は待ってくれません.だから人が自ら起こす奇跡もありますと庵野さんは主張します.この辺りは明らかに『ナウシカ』を意識していると思うのですが,どうでしょう.

なお誤解ないように付け加えるとリツコは「奇跡」に頼らずこれまで通り努力を続けようと言っています.ミサトとの違いは奇跡への期待に関してです.

これまでをまとめると,

『ナウシカ』
核心:清浄と汚濁こそ生命の本質.
奇跡:この星ではいのちそれ自体が奇蹟.いのちの生きる力で運命は超えられる(生きることは変わること).

『エヴァ』
核心:相補性こそ人の本質.
奇跡:起こるのを待つのではなく知恵と意志で自ら起こすもの.

また,群体としての人類がその知恵と意志で何かを遂げるお話というのは,ここ最近の庵野作品に一貫して登場します.『シン・ゴジラ』(2016),『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021),『シン・ウルトラマン』(2022).汎用性高すぎ問題.

もしもこの人類の知恵と意志というテーマが『ナウシカ』との格闘で得られたものだとしたら,『ナウシカ』の影響は『エヴァ』にとどまらないということになります.

両作品の関連性を扱った本記事が,彼が宮崎駿氏を師と仰ぐことの理解の足掛かりにもなったら望外のよろこびです.

最後にこのおじいさん2人の仲良し具合が垣間見られるツイートを.

『風立ちぬ』で宮崎駿作品に出演した庵野氏ですが,今度は自分の作品に師匠を出演させたのがこれらのシーンだったりして.



今回は以上になります.最後までお読みいただきありがとうございました.


1:以前の記事の増補修正版です(2022/10/19).修正前の部分は跡形もなくなりました.

2:旧作のフィジカルの補完どこいった問題.旧作ではこのフィジカルの側面は厄介な問題を抱えていました.それはシンジが計画を拒否したことで人口減少問題が息を吹き返すはずなので,滅びの運命が再浮上するというものです.これについて次の台詞で回答しています.

(26話‘C-443~446)
ユイ「心配ないわよ.全ての生命には復元しようとする力がある.生きていこうとする心がある.生きていこうとさえ思えば、どこだって天国になるわ.だって生きているんですもの.幸せになるチャンスはどこにでもあるわ.太陽と月と地球があるかぎり…大丈夫…

と言われてもどうして大丈夫なのかよく分かりません.元ネタがあるにしてもこの間に合わなかった感は残念.『ナウシカ』の方は説得力を持たせられているので,ここは庵野さんがコケているといえます.
 この点,新劇では補完計画の背景を変更することでこの辺りの問題をバッサリなかったことにしている,というのが私の予想です(次註3も).

3:神の子への進化の理由について.先ほどの旧作の人口問題の設定が実は新劇でも活きているという解釈はあり得ます.しかし,旧作ですらささやかに滑り込ませた情報を新劇では一切排除しているし(つまり差し込むことは容易だからできたはずなのにそうしなかった意味),上記註2の事情からこの設定は変更になったと考えています.

4:新劇ネルフマークにも採用されていますが,知恵の実がりんごで表現されるのは,りんごのラテン語(mālum)と“悪“のラテン語(mǎlum)の類似から.発音記号から分かる通り2つは発音が少し異なります(前者が長音,後者が上昇調).
 また中世の図像ではりんごの実のかわりに髑髏どくろが書かれました.Q以降,大量の髑髏と首無しエヴァが知恵の実を失っていくことの象徴として描かれたのは聖書に基づくものだったのです.
 さらに翻って旧劇におけるエヴァインフィニティといえる無数のヒト型には首があったことが思い出されます.こちらは知恵を失っていないのでしょうか.

5:新劇の物語の大枠は神への人類の叛逆です(旧作は原初の人間への回帰,神との合一といったユダヤ神秘主義のカバラーに依った構成).これについて『エヴァ』は旧作のときからリリスはルシファーを取り込んだ存在でした(「神のシンボル/白い鳩」の1).聖書の一説によればルシファーは神への反乱に敗れ地上に堕ちた存在.そしてリリス(ルシファー)が率いる人類が,神の摂理に挑む.旧来の設定を新劇では物語の根幹に据えたお話になっています(『デビルマン』の影響が指摘されるところです).

6:この台詞は画像の通り意志(独:WILLE)のバンダナを掴みながら言うのですが,このバンダナを彼女に渡した加持リョウジが最終的に人間の力だけで補完計画を阻止することは不可能と考えていたことは興味深いです.もっとも彼女の前では超矛盾マンだったことは頭に入れておくべきでしょうが.

7:もっともこれは話をつくる際のテクニック,あるいはレトリックの1つともいえます.現実と少し異なる設定を持ち出して,それとの対比を際立たせて現実のある側面に注目させるというものです.
 例えばこれまた宮崎駿氏と仲の良い押井守氏も多様しています.攻殻機動隊シリーズ『イノセンス』では人形を持ち出して電脳化・義体化した人間との異同を問い直しましたし,『スカイクロラ』では大人にならないキルドレを無気力に覆われた現代の若者に対比させることで生きることはどういうことかを考えさせるお話でもありました.
 また,宮崎・庵野両氏を対比することで,宮崎さんが人間をすっ飛ばして「いのち」にさかのぼっていること,つまり人間に対して期待がないことに彼の思想がよく表れているのが分かります.これは庵野さんが聞いた飲み会での宮崎さんの発言「人間なんて滅んでしまえばいいんだよ!」(大意.『風の谷のナウシカ』Blu-ray特典「対談鈴木敏夫×庵野秀明」より)で有名なところでもあります.


・参考文献
大貫隆ほか編著『岩波キリスト教辞典』(岩波書店,2002年)

画像:©khara/Project Eva.


※追記(2023/7/15)
「5.ナウシカの続きとは」について,映画版の続きという意味に修正

この記事が参加している募集

#アニメ感想文

12,351件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?