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【図解】私的『人新世の資本論』~臣民から国民へ編~

マルクスが晩年に関心をもったという原始的な協同体における「生活様式」から「資本制生産様式」はどのように発展してきたのだろうか?現在では人類学や考古学の成果により、彼が生きていた頃よりもその変遷を素描することができるようになってきている。今回、自分なりに図解したことを整理してみた。今回は全5回のうちの3回目だ。

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メソポタミア、インダス、ナイル、黄河のような上流から運ばれる地味多い肥沃な土地は、穀物を大量に栽培することに適しており、人びとの集住や職業の分業を可能にした。その規模は遊動民の集団規模をはるかに凌駕するため、特定の人物や動物、観念などを象徴として神格化することで、宗教的糾合をはかる必要があった。

そのため、都市国家の成り立ちを物語る「神話」や「創世譚」が国家や地域ごとに生み出された。また、農耕がもたらす収穫物や富、人口、家族構成などを具体的に統御する技術として「文字」や「数」が行政手段に用いられるようになり、さらには、こうした統治を正当化するための「法」も次第に整えられていった。

そこでは、集住する人びとが暮らしていくには十分な量を超える、つまり一部の非農耕民(聖職者、軍事エリート、行政官、技術専門職)のための余剰生産物が必要であり、農耕民や奴隷、戦争による捕虜の確保は必須であった。こうして生み出された古代の農耕型国家の基盤は、規模の大小は違えど国家運営の根幹をなした。

中国や日本で律令制とともに行われた「口分田」のように、穀物の農地を人びとに与えて(出挙)その見返りとして税(利稲)を徴収し、労役や兵役に従事させる統治方式は、その強制力や程度は異なれど基本的にその後の「国家運営の原型」を形成していくことにもなった。

その後、「宗教的権威」と「軍事的権力」が統合された状態を維持した国家と、それらが分離して税などの"あがり"を取る権利が複数かつ階層的に分権化していく国家とに分かれていったが、この基本的な統治原理は長らく続くことになった。

例えば、中国では皇帝が儒教の体現者として君臨し、同時に集権化された官僚機構のトップとして巨大な帝国を統治する権限を有していた。中央政権による農地と臣民の一元的な管理が比較的可能であったのは、世襲貴族が廃止されたことにより、厳格な任用試験(科挙)による任期制の行政官僚が登用され、各地方に配置されたからだ。また、周辺遊牧民がたびたび軍事侵入を行うことで、ときに帝国の"乗っ取り"が生じたが、農耕型の統治原理は基本的にそのまま維持された。【1】

一方、西欧や日本では教皇や天皇が象徴的権威として存続したが、実質的な国家運営はときの軍事的権力者や土地を管理する領主に委任された。そのため、特権を付与された在地の有力者や聖職者が、土地と人民から"あがり"を取る権利を私有化していった。

ただし、どの国においても、あまりにも過酷な徴税や労働力の徴収は、特権的な支配者層への強い反発、さまざまな形での抵抗(農地からの逃散や耕作放棄、戸籍の虚偽申告など)をもたらし、強大な対抗勢力が形成されると、国家の衰退や滅亡、国王や領主の交代を招くこともしばしばであった。

「人民による徴税への反発をいかに抑制するか」という統治者の思惑と、「支配者による徴税をいかに緩和させるか」という被治者の願望との攻防が続いた結果、両者の間でどのような合意、調整、妥協、駆け引きがなされたかによって各々の国家で「統治形態」の変形がみられた。中世から近世を通して、人民への権限の移譲や自治の容認がある程度なされた場合もあれば、身分代表者の意見を議会で聴き取る場合もあった。

また、支配者は外敵による自領地への侵入に対しては注意をよく払ったが、人民の生活の質や困窮に救済の手を積極的に差し伸べることは基本的に稀で、人びとは血縁集団や地縁集団、宗教的または職業的結社を結成し、相互扶助の網を自らの手で構築しなければならなかった

そこでは、全員一致の話し合いによる協議や、掟の順守に基づく利権分配(⇔ 掟破りに対する社会的制裁)身分を超えた宗教的連帯入会地の共同使用など、序列的な支配・服従関係に基づかない自治のあり方が各々の社会で独自に形成された。

それはある意味で、狩猟採集生活で人類が長らく実施してきたような一定集団規模の人間関係をベースにした「協同性」にもとづく生活世界が、部分的に再生されていたともいえるのかもしれない。日本の里山のように、自然との関係においても「社会の持続可能性」を考慮した生活の仕組みを構築していた場合もあった。

もっとも、中国や日本では17世紀に入っても新田開発による農業の生産拡大が見られた通り、(中央集権と地方分権の違いはあれ)依然として農耕型国家システムの基本原理は維持されていた。他方、西欧諸国は自地域による農地拡大が臨界点を迎えた段階で、富の収奪拠点を海外に求めることで打開を試みるようになった。

その成果は、南北アメリカ大陸の発見とアフリカ・アジア航路の確保につながり、現地では古代さながら「奴隷や原住民を利用した大規模農地開発」が展開されることになった。国内ではもはやさほど有効ではなくなっていた「農耕型統治の基本原理」が、異国の地のプランテーションや鉱山で大々的に行われたのだ。

しかしながら、このような遠隔貿易は巨大な富をもたらす一方で、航海上の危険や失敗をつねにともなうものだった。また、西欧諸国間で海外の貿易拠点をめぐる争いも激化し、軍事や航海にかける出費の大きさから国家財政をしばしば悪化させた。

国家による信用力(徴税権や植民地からの収奪)で貨幣や債券を大量に発行し、軍備の増強や自国産業への投資と育成に成功する場合もあったが、財政難を補うため人民に対する増税もたびたび実施された。また、その反発が大きかったために、対処に誤った支配層にとって致命的な結果(市民革命)をもたらした国家もあった。

ライバル国との植民地獲得競争や領土紛争を勝ち抜くためには、国家を集権化して徴兵制による強力な軍隊を創設する必要があり、また膨らむ財政支出に対して相応の税収を増やすには民衆や特権有力者からの合意を調達することが喫緊の課題であった。

そのためには、「王の臣民」としてよりも、自分たちが契約した(選挙で選んだ)政府つまり「国民国家の国民」として主体的(subject=もともとは臣下の意)にコミットしてもらう方がはるかに有効であった。自発的な政権選択(「自分たちが選んだのだから」)という形式的な同意は、課された動員に対する支持と同時に使命感を生じさせたのだ。【2】

その土壌となるのは、もはや束縛的な農地ではなく経済的自由が保障された「市場」であり、その収穫物は穀物ではなく「国民経済」を豊饒化させることだった。【3】


【1】
科挙に受かる官僚は全体の人口からみればごく少数しか存在しないため、統治といっても、業務の大半は徴税の管理と治安の維持だけの「小さな政府」だった。

そのため、国家から支給される薄給では小吏(部下)を養えず、税の超過徴収や賄賂などで私腹を肥やす官僚が横行し、中央政権にとっては常に悩みの種であった。

大飢饉や人口過剰により貧困層が拡大し、裕福な官僚との格差が拭いがたくなると、方々から反乱が生じ、王朝はたびたび転覆された。

【2】
「選挙」や「契約」による形式的同意の調達は、強制力やカリスマ的人格に依拠せずに、能動的受動性(自分から受け容れる)を生み出す、人類史上もっとも巧妙な手口のひとつなのかもしれない。

【3】
ミシェル・フーコーによれば、前近代国家の関心事は、財源である「収穫物」の数や特定の人間に対する「生殺与奪」であったが、近代国家の特徴は不特定多数の人間の「生そのもの」を管理・活用しようとすることにある(国勢調査による人口統計の把握、安全衛生環境への行政管理など)。

学校・工場・軍隊・監獄・病院など、「国益」を生み出す「国民(兵士・労働者)」を、養成・訓練・更生・再生するための社会的装置が国中で運用された。

そこでは「人間」こそが栽培すべき「種」であり、アダム・スミス的な経済的自由を保障する「市場」こそが無限の富を生み出す「土壌」なのだ。

(④へつづく)


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