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「わたしの幸せな結婚」に学ぶ、大衆の幸福と埋まらないギャップ。メシアの救済から解放されよう。

冬休みはまたたく間に去り、あっという間に仕事初めとなってしまった。幸せな時間は長くは続かないものだ。

今年は特に短い冬休みであった。
振り返ってみると、両実家に子供の成長を見せに行ったくらいで、特別なことは他に何もしなかった。忘年会もやらなかったし、積んであった本も、たまには遊ぶかと買ったゲームソフトもほぼ手つかずのままだ。

結婚してから10年以上が過ぎ家族も増えると、自分だけの時間は激減した。唯一、なににも縛られず時間を過ごせるのは、皆が寝静まった0時以降だけである。
そんな貴重な時間にやることといえば、暗がりの中、ノートパソコンにペチペチと駄文を綴る程度なのだから、特に自由な時間が無くても問題ないのかもしれないが。


結婚生活が長くなるにつれて、大きく気持ちが浮き沈みするということは無くなってきた。元々、盛大に喧嘩をするようなタイプではないので、嫌なイベントの発生率は極めて少ない。
かといって、池に浮かぶ蓮の葉のようにノンビリ過ごせている訳では全くなく、家では毎日のように怪獣大戦争兄妹喧嘩が繰り広げられている。クリスマスプレゼントのぬいぐるみが、二日で鼻が潰れてしまうくらいには過酷な環境だ。

なぜ平べったいのか:著者撮影


苦痛はないが退屈ともほど遠い嵐のように過ぎ去る生活が、『わたしの幸せな結婚』といったところか。



なろう・追放・もう遅い

今回の種本である『わたしの幸せな結婚』は、「小説家になろう」で連載された小説を原作とするコミカライズ作品だ。原作小説は400万部を突破、漫画も「全国書店員が選んだおすすめコミック2021」にて1位を獲得するなど、注目を集めている。
例のごとく「全国書店員が選んだおすすめコミック」という、乱立する独自ランキングの存在自体を知らなかったのだが、過去の受賞作を見てみると、『呪術廻戦』『進撃の巨人』『3月のライオン』『働きマン』など、錚々たる顔ぶれが並んでいた。今年の受賞が本作で大丈夫か心配になる。

異能者の家系である斎森家の長女として生まれた斎森美世さいもり みよは、異能を持たないがゆえに虐げられ、使用人同然の扱いを受けながら日々を過ごしてきた。あるとき異母妹の香耶が婚約したことを機に、美世は冷酷無慈悲と噂される久堂家の当主久堂清霞くどう きよかのもとへ嫁ぐことになる。

『わたしの幸せな結婚』Wikipediaより引用



原作が「小説家になろう」で連載されていることもあってか、本作もはいわゆる"なろう系"に分類される。

なろう系とは、ライトノベル・漫画・アニメなど、日本のサブカルチャー諸分野における物語の類型の一つである。(中略)「なろう小説」、「異世界転生系」、「異世界転生もの」とも呼ばれるが、投稿サイト以外の商業作品でも上記のような枠組みを利用した作品は多く、その言葉は「なろう系」よりも広い範囲を指すため「異世界転生もの」の中で大きな勢力を持ったのが「なろう系」ということになる。

『なろう系』Wikipediaより引用


"なろう系"というだけで、「あっ自分大丈夫っす」となってしまう人もいるかも知れないが、調べていくと意外と歴史があって面白い。異世界転生の際に特に苦労もなくチート能力を手にし、その世界で無双するというテンプレートが"なろう系"の主流だが、現在ではそのジャンルが細分化されている。

『わたしの幸せな結婚』は"なろう系"の中でも"追放系"に位置する作品だ。以下に"追放系"の特徴を示す。

・所属する組織から戦力外通告を受ける
・主人公は素直に受け入れ、組織から追放される
・新たな環境で再スタートをする
主人公の魅力に気づくキャラクターと出会う
・今までが嘘のように順風満帆な日常が始まる
・一方で過去に所属した組織は、主人公を失ったことで没落する


"追放系"は、"なろう系"の大きな特徴である転生があまり行われないので、開始数ページでトラックに轢かれる必要はない。
また、冒険ファンタジーを舞台とした物語に用いられることが多いのだが、追放された主人公が冒険をせずにスローライフを満喫するという展開も多々ある。なぜファンタジーの世界観でわざわざスローライフを選ぶのかは、私に聞かないで欲しい。

そして、この特徴を更に強くしたものが"もう遅い系"である。戦力外通告をした元組織に対して復讐したり、没落した元組織に対して「今さら戻ってこいと言われても、もう遅い」と突き放したりと、元いた環境への恨みが凄い。



清濁併せ呑む爽快感

このように、想定される読者層がなんとなく悲しい"追放系"の中では、『わたしの幸せな結婚』は割とマイルドに物語が進んでいく。もちろん、テンプレートはしっかり踏襲した上でだが。


主人公・美世みよは歴史ある名家に生まれるが、母の死と父の再婚をきっかけに、使用人以下の扱いを長らく受けてきた。賃金なしで炊事・洗濯・掃除・裁縫に従事し、お茶を淹れれば飲めないと罵倒される日々だ。

ステップ① 虐げられる:『わたしの幸せな結婚』1巻より引用 顎木あくみ作 高坂りと画



継母から疎まれていたこと、異母妹が器量も能力も秀でていることなどが原因で、美世は奴隷同様の扱いをされているのだが、この状況で実父が美世を全く庇わないので、めちゃくちゃイライラする。お前は冷たくする理由ないだろ。

しかし安心して欲しい。

"追放系"では、あっという間にあなただけの魅力に気づいてくれるキャラクターに出会えるのだから。美世もご多分に漏れず、冷酷無慈悲として有名な清霞きよかと出会い、あっという間に愛される。具体的には、2巻中盤くらいには相思相愛だ。

え? 冷酷無慈悲な設定はどうしたって? 君は論理療法で論駁された方がいいね!

ステップ② 新天地で再スタート:『わたしの幸せな結婚』2巻より引用 顎木あくみ作 高坂りと画



さあ、あとは最後の仕上げだ。
順風満帆な生活を送りだした美世とは対象的に、実父・継母・異母妹らには没落してもらわなければならない。

清霞というイケメンに愛される美世に嫉妬した異母妹が、「私のほうがイケメンに相応しいはず!ズルい!」と美世を誘拐し、婚約を破棄するように迫るのだが、颯爽と現れた清霞に美世は助けられ、事なきを得る。

異母妹には強めの嫌悪を示して完了だ。心はポキっと折っておかないとね。

ステップ③ 没落:『わたしの幸せな結婚』3巻より引用 顎木あくみ作 高坂りと画



これだけでは復讐心が満たされないと不満な読者は安心して欲しい。この後なんやかんやあって、実父の家は全焼し資産も全て失うという、追い没落も控えているから。


こうして読者は、美世のサクセスストーリーと、異母妹たちの没落ストーリーという、清濁両方の爽快感を味わうことが出来る

これまで私は"なろう系"を好んで読むことはなかったのだが、テンプレートに沿ってストーリーを改めてなぞると、読者の感情を上手に操り、一定の爽快感が得られるよう上手く構成が出来ているのだと気づいた。
売れているには理由があるものだ。



彼女は成功したのだろうか?

しかし、ここで気になる点がある。

異母妹らは、誰の目から見ても没落している。心を折られ、家を焼かれ、名家という地位も失い、地方で慎ましく暮らす様子が描かれている。

一方、美世はどうだろう。美世は成功したといえるのだろうか?


異母妹らと住んでいた頃の美世の労働環境は酷かった。炊事・洗濯・掃除・裁縫に至るまで、使用人同然に行いつつ、それでいて賃金の支払いはなかった。

本来、労働への賃金とは、労働者を維持するために必要な価格を支払われなければならない。労働者の維持をさらに噛み砕くと、生存費と繁殖費に帰着する。労働者が健やかに生活できる最低限の賃金を支払うことが、雇用主であるブルジョア階級には求められている。

労働の価格は、生産費によって、この商品、すなわち労働を生み出すのに必要とされる労働時間によって規定される。それでは、労働そのものの生産費とは何か?それは、労働者を労働者として維持するのに、そして、彼を労働者へと養成するのに必要とされる費用である。

『賃労働と資本 / 賃金・価格・利潤』より引用 カール・マルクス著



ところが美世には賃金の支払いがなかった。使用人から分け与えられた粗末な衣類に身を包み、狭い部屋で命が尽きることを期待して眠る彼女は、生活の維持すらままならない奴隷のような存在であったといえるだろう。

では清霞と出会ってからの美世はどうか?
賃金も払われず労働に従事していた頃からは雲泥の差だ。新しい衣類に身を包み、豊かな環境の中で清霞との明るい未来へ邁進する彼女は、充分に生活の維持がなされているだろう。


しかし忘れてはならない。彼女は奴隷から労働者へとなったわけだが、ブルジョア階級になったわけではない。清霞の家は名家中の名家だが、気難しい彼の家には使用人がひとりいるだけなので、美世は今までと変わらず働いている。

新天地でもめっちゃ働く美世:『わたしの幸せな結婚』3巻より引用 顎木あくみ作 高坂りと画



こうして美世は労働者となった訳だが、私達の多くもまた労働者だ。広い意味では、美世と私達は同列な存在な筈なのだから、羨むような成功を成し遂げたわけではないのではないか。
もっと言えば、美世の世界にはAmazonもUber eatsもNetflixもTwitterもない。利便性も娯楽も未発達な世界で労働し続けなければならないことを想像すると、現代に生きる私はゾッとする。……いやTwitterは無くていいかもしれないが。


兎にも角にも、美世と私達は対等な労働者であり、細かなことに言及すれば、私達の暮らす世界のほうがずっと便利で恵まれている筈だ。にもかかわらず、読者は美世の物語をサクセスストーリーとして捉え、爽快感を味わっている。
その理由はひとつしかない、イケメンだ。



イケメンは救済者メシアであり外的な幸福

少女漫画におけるヒロインのパートナーは、パーフェクトな存在であることが一般的だ。立ち振舞は麗しく、発する言葉は愛溢れ、終いにはヒロインを脅かす外敵からさり気なく護ってくれる始末、である。

ヒロインたちにとって、現世という地獄から救ってくれるイケメンパートナーは、もはや救済者メシアと言っても過言ではない。

本作のメシアこと清霞も、名家の生まれでありながら驕らず、容姿端麗でありながらも鼻にかけず、己が責務を全うするために精進し続けるといった、"追放系"メシアの名に相応しいキャラクターだ。

え? 冷酷無慈悲な設定はどうしたって? あまりしつこいと、地獄の火に投げ込まれますよ?

裏庭で汗を流すメシア:『わたしの幸せな結婚』3巻より引用 顎木あくみ作 高坂りと画



私達の側に清霞のようなメシアがいることは稀だ。
SNSやネット広告にはマッチングアプリの広告で溢れているし、ニュースを見ても名前も知らない誰かの不貞に関するニュースが流れている。現世ではパートナーから救済を求める人が、あまりにも多い。

この視点から考えれば、美世は圧倒的に成功した存在と言える。
メシアからの寵愛を一身に受け、傷ついた精神を楽園でゆっくりと癒す彼女を、成功者と呼ばずにいられようか。

メシアを所有することに比べれば、AmazonやUber eatsやNetflixがあるといったささやかなアドバンテージは水泡に帰すこととなる。大衆にとって、これら現代の有用なツールは退屈は埋めてくれるが救済が得られることは稀である。


以上のように、メシアと暮らすことは何よりも幸福に近い事柄のように思える。"追放系"の漫画に限らず、多くの少女漫画において、メシアと結ばれる事こそがハッピーエンドに繋がる唯一の道として描かれる。

しかし繰り返すが、私達がパーフェクトなメシアに出会える確率は限りなく少ない。また付き合いたての頃はメシアであっても、「私のメシア、出身がイスカリオテでは??」と化けの皮が剥がれることもあるだろう。

この事実は私達にとってあまりにも悲しい。なにかメシアから与えられる以外の救済はないのだろうか?



哀しき宿痾から逃れるために

アルトゥール・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer,1788~1860年没)は、ドイツの哲学者である。
高校で倫理を履修していた人にはおなじみだろう。私は「覚えやすい名前で最高だな」と思った記憶がある。テストに優しい人物。

『Portrait of Arthur Schopenhauer』Ludwig Sigismund Ruhl, 1794-1887, Public domain, via Wikimedia Commons



彼の著書、『幸福について』は1851年に書かれたものであるが、バチクソ面白かった。学びが多いこともさることながら、全方向へのディスりが止まらず、読んでいて何度か吹き出しそうになってしまった。
そして、笑った後に「これオレのことじゃん…」と落ち込むまでが一連の流れである。

ともかくここで、知力がかろうじてぎりぎり標準程度であるために「精神的要求をもたない」人間に言及せずにはおられない。かれらは「俗物」と呼ばれる。

『幸福について』より引用 アルトゥール・ショーペンハウアー著


ちなみに上記ショーペンハウアーの肖像画は、彼が27歳の頃を描いた作品であるが、晩年の肖像画は迫力が凄くて引用を止めた。晩年のイメージでディスられたら無惨に睨まれた下弦の鬼のように、頭を垂れて蹲うしかない。

喋っても動いても死ぬ:『鬼滅の刃』6巻より引用 吾峠呼世晴著



ショーペンハウアーは著書の中で、人間の運命における個人の差異は、「その人が何者であるか」「その人は何を持っているか」「その人はいかなるイメージを与えるか」の3つに帰着するとし、幸福になるためには「その人が何者であるか」が最も重要と説いている。

「その人が何者であるか」は人間性という言葉に換言できる。人間性とは健康・力・美・知性から成り、またこれらを磨くことも含まれている。


また、人間の幸福にとって、苦痛と退屈は二大敵手であり、これらは一方から上手く遠ざかっても、もう一方に近づいてしまう性質があると説かれていた。

私たちの実利的な現実生活は、激情につき動かされなければ、退屈で味気ないものだが、激情につき動かされると、たちまち苦痛が生じる。それゆえ、自分の意志に奉仕するのに必要な量を超えた、有り余る知性を与えられた人々だけが、幸福ということになる。

『幸福について』より引用 アルトゥール・ショーペンハウアー著


(私も含め)大衆は人生の楽しみを自己の外部に頼る。財産や妻子、友人に幸福が支えられて生きているのだ。メシアはその際たる例だろう。他人と比較することでしか価値を定義できない、哀しき人間の宿痾だ。

しかしながら、これらは自分で制御可能な事象でないため、失ったり幻滅したりすると、大衆の幸せは容易に空中分解する。
ショーペンハウアーはこの様な状態にある人を「彼の重心は彼の外部にある」と表現した。


対して、「重心が彼自身の内部にある」状態とは、優れた知性を含む人間性のある人が、自身の興味のもとに知的生活を営むことだとされていた。このような活動こそが、退屈や退屈から生じる苦痛から身を防いでくれる。


めちゃくちゃ難しいことを要求されているようだが、要は幸福を自己の外部に頼り過ぎるのではなく、自己の価値観や興味から幸福を見出す活動を行うことが推奨されていると私は理解した。
制御できない客観的な外部要因を嘆くより、主観である自分の人間性を軸に生きるほうが救いがあるのではないか。



まとめ

ツラい現実であるが、私達のもとにメシアが舞い降りることは稀だ。成功者である美世とは異なる私達は、メシアからの救済を待つのではなく、自分たちの価値観を軸に、幸せに向けて歩き出さなければならない。

ショーペンハウアーの教えは厳しい。人間性を磨くことは一朝一夕では身につかない。しかしそれがメシアに頼らず生きていく唯一の道ならば、私達は愚直に進むしかない。

幸運なことに、ショーペンハウアーはその道筋も示してくれている。

したがって私たちは、なによりもまず完璧な健康を高度に保ち、そこから陽気さが花のごとく咲きこぼれるようにつとめよう。その方策はよく知られているように、不摂生や放埒、激しく不快な感情の揺れ、極端な、もしくはあまりにも長引く精神の緊張などをいっさい避け、毎日二時間ずつ戸外で活発な運動をし、おおいに冷水浴をし、その他類似の養生法をおこなうことである。

『幸福について』より引用 アルトゥール・ショーペンハウアー著


仕事休んで運動してサウナ行ったら幸せだって。


そうだね!!!そら幸せだよね!!!!!


それでは!

(今までの記事はコチラ:マガジン『大衆象を評す』

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