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「海が走るエンドロール」に学ぶ、年寄りに心惹かれる私達と正しい時間の過ごし方

今年で94歳となった祖父は多趣味だ。

電器店を経営していたという背景もあってか、昔は飛行機やヘリコプターのラジコンを自作し、よく公園で走らせていた。コーヒーを豆から挽いたり、ビリヤード(本人は玉突きと言っていたが)を楽しんだりと、若いなぁと思う趣味も多い。

過去には芸者遊びも嗜んでいたらしい。朝帰りが祖母にバレないよう、電柱に登って自宅の二階から帰宅した話は、近所でも語り草となっている。祖母には、あっさりバレたそうだが。


色々な趣味の中でも、特に写真を撮ることへの情熱は凄まじく、祖父=写真愛好家という印象が親族には根付いている。

高齢のため、他の趣味を楽しむことはすっかり出来なくなってしまったが、写真への熱意は変わらない。祖父が撮影する写真は確かに素晴らしく、そんな写真を家に飾る私たちもまた特別な気持ちになる。

なんだかヴェルタースオリジナルのCMみたいなことを言ってしまった。お菓子は食べたことないのに、ヴェルタースオリジナル構文は油断するとついつい口にしてしまう。

Tips!:ヴェルタースオリジナル構文は便利


(今では私もお爺さん:『ヴェルタースオリジナル』Youtubeより引用)



祖父に限らず、年を経た人が何かに没頭する姿に、なぜか私は心惹かれてしまう。その理由は正直分からない。残り少ない時間の中でチャレンジする姿が尊いのか、はたまた一つのことに集中する姿に憧れるのか。単純に言い表せられることではないのかもしれない。

今回の記事の種本である『海が走るエンドロール』もまた、年を経て新たに挑戦しようとする、心惹かれる物語であった。



モノづくりの現実と憧れ

『海が走るエンドロール』は秋田書店が発行するミステリーボニータという雑誌で連載している作品だ。正直わたしは、ミステリーボニータの存在自体を知らなかった。たぶん日本人の3%くらいしか知らない気がする。

本作はTwitterで公開された1話がバズリ倒したことをきっかけに、広く世に知られたこととなった。Twitterの宣伝効果は目を見張るものがある。

65歳を過ぎ夫と死別し、数十年ぶりに映画館を訪れたうみ子。そこには、人生を変える衝撃的な出来事が待っていた。海(カイ)という映像専攻の美大生に出会い、うみ子は気づく。自分は「映画が撮りたい側」の人間なのだと……。心を騒ぎ立てる波に誘われ、65歳、映画の海へとダイブする!!

『海が走るエンドロール』Amazonより引用



主人公のうみ子は65歳。高齢化社会の現代において、65歳を年寄りと呼んで良いものかどうかという問題はさておき、夫と死別した彼女が、新しい人生の主軸に映画作成を選ぶところがエモく、Twitterでバズったのかなと思う。


当たり前ではあるが、「モノを消費すること」と「モノを作ること」は、その性質が全く異なる。消費することに比べて、作り上げることは時間も労力もかかりすぎる割に、大体楽しくない。

私はエンジニアとして現在進行系で商品開発に携わっているが、充実感を感じられるのは、販売が決定した後のほんの僅かな瞬間だけである。開発期間を振り返れば、そのほとんどが辛く苦しく、ただひたすらに面倒くさい。


『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の作成工程を取材した『さようなら全てのエヴァンゲリオン 〜庵野秀明の1214日〜』を見た時も、同じようなことを感じてしまった。登場する全てのスタッフが、作品作りに藻掻き苦しんでいるのだ。

窓もない編集室でプリヴィズのアングルが決まらず、監督の鶴巻さんが「全然わかんねぇ」「もう嫌だ」「これ(庵野さんに)出さなくてよくない?」「いや、出さなくてよくない?(迫真の二度目)」と苦しむ姿をみて、これこそがモノづくりだと共感が止まらなかった。



うみ子が消費者から制作へと歩みを始めたのは、夫との死別や学校で映画作成に取り組む少年との出会いがきかっけではあるが、その源流は自分自身の中にある強い映画への憧れに他ならない。

苦しい道へと、敢えてチャレンジする彼女を応援したくなるのは、自然のことのように思える。

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(流れ出したら止まらない:『海が走るエンドロール』1巻より引用 たらちねジョン著)



境界線の先に

また、うみ子が映画作成へと境界線を超えた後に訪れる苦悩も趣深く、本作の魅力をより底上げしている。

65歳の彼女が映像作成を学ぶために大学に通う。必然的に大学で浮きまくる彼女は、気恥ずかしさからか、映像を学ぶことは老後の趣味だからと予防線を張ってしまう。

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(言い訳が自分を苦しめる:『海が走るエンドロール』1巻より引用 たらちねジョン著)


この予防線が自分自身を傷つけることを知っているのに、うみ子は「老後の趣味だから」と予防線を張らずにはいられなかった。年をとってから新しいチャレンジをすることへの気恥ずかしさが、彼女の心にあるからだと思われる。

良い映画を作ることは途方もなく難しいし、スタートが遅くなることで不利な点も多いと思う。今更頑張ってもと、卑屈になる気持ちも分からないでもない。それでも私は、彼女が映画製作に時間を費やすことを無駄とは思いたくない。

年寄りだけではなく私達に与えられた時間は限られている。私達は一体どのように時間を使うことが最良なのだろうか。



多動力と人生の短さについて

Kindle unlimitedに加入すると、普段は読まないような本でも、少し読んでみようかと思うきっかけが得られる。普段はビジネス書など手に取りもしないが、とりあえず抑えておくかと先日読んだのが、ホリエモンこと堀江貴文の著書『多動力』だ。


著者同様にクセが強い本で、途中から読むのもウンザリしたのだが、Kindleの読み上げ機能を使って通勤中に聞くスタイルに変更したところ、割とすんなり読み(聞き)終えることができた。頭を使わない分かりやすい本は、読み上げ機能で充分なのだなと、新しい知見を得ることが出来た。

Tips!:Kindleの読み上げ機能とビジネス書は親和性が高い



本書の主張を要約すると、無駄なことや興味がないことに費やす時間はない、様々なワクワクすることに躊躇なく飛び込んで活躍しよう、である。

主張自体は「ハイ、ソウデスネー」といった感じなのだが、著者のクセが強すぎて逆に共感したくないという、ややこしい自体に陥ってしまった。下記にクセが強めの主張を抜粋する。

・色々なことにチャレンジしないやつはチャンスを失うバカ
・電話をかけてくるやつは他人の時間を奪う自覚がないからバカ
・長文のメールを送ってくるやつも同様にバカ
・事前準備を要求してくるやつも同様にバカ
・仕事のリズムを崩してくるやつも同様にバカ
・経費精算なんてツマラナイことに時間を使うやつはバカ


読み始めの頃は、ストレスなさそうだなぁ……という感想だったのだが、ここまで色々なことに憤っていると、逆に生きづらそうだなと、読み終わりの頃には少しホリエモンを心配する自分がいた。彼にこんな気持ちを持つことになろうとは、夢にも思わなかった。



時間は有限なのだから、他人に振り回されず、自分の時間を生きなければならないという主張は、多忙ゆえに己を見失っている読者には刺さるのかもしれない。しかし、このような主張はおおよそ2000年前から既に議論されており、目新しさはない。


ルキウス・アンナエウス・セネカは、皇帝ネロを支えたローマ帝国の政治家であり、哲学者だ。

彼は、人生が短いと感じるのは、我々が貴重な時間を無駄遣いしているからであり、多忙な生活から離れて時間を有効活用するべきだと主張している。ほとんど『多動力』と同じ主張だ。

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(ルキウス・アンナエウス・セネカ(紀元前1年〜65年没):Wikipediaより引用)

過去を忘れ、現在をおろそかにし、未来を恐れる人たちの生涯は、きわめて短く、不安に満ちている。この哀れな人たちは、死が間近に迫ってから、自分が長い間ただ多忙なばかりで、なにも意味のあることをしてこなかったことに気がつく。しかし、そのときにはもう手遅れなのだ。

『人生の短さについて』より引用 セネカ著


上記より察した方もいると思うが、セネカ、めちゃくちゃ煽ってくる。なんならホリエモンより広範囲に煽っててすごい。例えば、下記は老人に対してひとこと言ってやりたいとした内容なのだが、ほとんどサイコパスである。

どれほどたくさんの人たちが、あなたの人生を略奪していったことでしょう。しかもそのとき、あなたは、自分が何を失っているかに気づいていなかったのです。いわれのない悲しみや、愚にもつかない喜びや、飽くことのない欲望や、甘い社交の誘惑が、どれだけの時間を奪っていったでしょうか。あなたに残された時間は、どれほどわずかでしょうか。もうおわかりでしょう。あなたは、人生を十分に生きることなく、死んでいくのです。

『人生の短さについて』より引用 セネカ著


こんなことを言われた日には、いかに老人といえどブチギレて、地獄の底まで相手を追い回してしまいそうだ。相手の行動変容を促す、イノベーティブな煽りといえる。

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(イノベーティブな煽り:『逃げ上手の若君』2巻より引用 松井優征著)



そんなセネカが推奨する時間の使い方は、先人の教えから学び、自己との対話を続けることで、神の本質と意志と性質がいかなるものかを理解することに時間を費やそう、ということであった。急にスピリチュアル。

このような行為を、セネカは英知を手にするために時間を使うと表現しており、特に過去の哲人の書籍を通じて彼らの教えを学べ、彼らはいつでもあなたのため時間を空け、迎い入れてくれると主張していた。いよいよ、サイコパスみが強まってきた。

彼らは、あなたに永遠への道を開いてくれることだろう。決して引きずり降ろされることのないあの高みにまで、あなたを引き上げてくれることだろう。これこそ、死すべき性を引き伸ばす唯一の方法、いやそれどころか、それを節なるせいに転換する唯一の方法といえるのだ。

『人生の短さについて』より引用 セネカ著



ホリエモンとセネカは、「時間は有限であり有効に過ごさなければならない」という共通した考えを持っているが、推奨する過ごし方は各々異なる。

ホリエモンは「たくさんの興味があることにどんどん手を出して、ワクワクすることだけで人生を埋めよう」という。つまらない仕事に忙殺される大衆はバカという認識だ。一方セネカは、「英知を学ぶために時間を費やせ」という。自己対話もせずに娯楽や仕事にしか夢中になれないやつはバカだと認識だ。図にするとこんな感じ。

最早、何が正しいのかよく分からなくなる。

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(お前が大衆をバカにするならば、お前もまた等しくバカにされているのだ)



老人と海

話をうみ子に戻したい。映画への強い憧れを持つ彼女は、65歳からチャレンジをしようと決断した。周囲の目を気にせず興味がある分野に踏み出したというところは、『多動力』の教えに近しい。

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(65歳から始める多動力:『海が走るエンドロール』1巻より引用 たらちねジョン著)


一方でどうしても引っかかるのが、『多動力』に書かれているような「おもしろいから」「楽しいから」という時間の過ごし方だけで、うみ子が満足する映画が撮影出来るとは到底思えない点だ。

もし庵野さんや鶴巻さんが、ワクワクする楽しいことだけを追求していたら、『シン・エヴァンゲリオン』は生まれただろうか?私はそうは思わない。モノづくりは、人の苦悩なくして良いモノが生まれることはない。


うみ子が望む、観客を引き込むような映画を作成するには、むしろ自己対話から己を見つめ直す、セネカの教えが適切だと思う。しかし、仕事も娯楽もなく、ひたすらに英知を学ぶという彼の教えは、現代ではストイック過ぎる。

そうなると、チャレンジをしつつも己を見つめるような、ホリエモンとセネカの折衷案が望ましいのではないかと考えるようになった。なにか例示がほしいなと本作を読み返すと、うみ子の好きな物語が、まさにドンピシャであった。ヘミングウェイの『老人と海』である。


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(老人と海:『海が走るエンドロール』1巻より引用 たらちねジョン著)



『老人と海』のあらすじはシンプルだ。漁師の老人がバカでかいカジキマグロを2日間かけて釣るも、帰り道に釣果をサメに喰われてしまい、港に戻る頃にはカジキマグロの骨しか残らなかったという話だ。

中学生くらいの頃に読んだ時は、つまらないものが名作扱いされているのだなと思ったのだが、大人になってから読み返すと、全く違う感情を覚えることとなった。


老人はカジキマグロを釣りながら、ひたすら自己対話を続けていたのだ。身体の調子を把握するだけではなく、過去の様々な出来事を思い出し、カジキマグロとの戦いに躍起になり、彼を慕う少年に自分の誇りを示す未来を思い描いている。

セネカが批判した、「過去を忘れ、現在をおろそかにし、未来を恐れる人たち」とは真逆の立派な時間の使い方である。

特にカジキマグロとの戦いの終盤、少年に自分自身の価値を証明しようと疲れた身体を奮い立たせるシーンは熱い。

「いずれにせよ殺すことにはなる。堂々たる大物として死んでもらう」ひどい話にはちがいないだろうが、と老人は思った。(中略)「あの子には、おれは変わった老人だと言った。そうと証明するのはいまだ」そんな証明は、もう千度もしただろうが、だからといって意味はない。今一度、その証明をしようとしている。毎回が新しい回なのだ。

『老人と海』より引用 ヘミングウェイ著


老人は最初から最後まで、漁師としての仕事をしただけである。しかし彼は、日々ひとりで大物を釣り上げるというチャレンジをしながらも、その最中には自己対話を行い、自分がどのような価値観を持った人間であるかを思考し続けるという時間の過ごし方をしていた。老人は正しい時間の過ごし方を知っていたのだ。

だからこそ、骨太な価値観に支えられた老人の生き様に少年は心奪われ、そしてその生き様は次の世代に伝わっていくのだろう。

「また二人で漁に出られるよね」
「いや、おれには運がない。もう見放されたよ」
「そんなのどうでもいい」少年は言った。「僕の運を持っていく」

『老人と海』より引用 ヘミングウェイ著



うみ子もきっと老人のような時間の過ごし方をするようになる。境界線を超える、超え続けてるためには。

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(A. 自分自身を真摯に振り返る意志が有るか無いか:『海が走るエンドロール』1巻より引用 たらちねジョン著)



写真を撮るということ

先月、冒頭に述べた祖父が亡くなった。

寡黙で豪胆な祖父であったが、私には優しい人という印象しかなかったし、葬儀に来てくださった人を見れば、私に限らず皆に慕われていたのだと感じることができた。

生前、祖父は余暇の多くを写真撮影に費やしていた。半島から1年に数日しか見れない明け方の富士山を撮影するために、煙もなく綺麗に夜空に咲く花火を撮影するために、道路を横切る車の光だけを使って街の姿を表現するために、何時間何日と、その瞬間を待ち続けていた。

祖父は『老人と海』の老人と同様に、待ち続ける時間の最中、自己対話を行っていたのだと私は思っている。

骨太な価値観に裏付けられた祖父の存在に、私は『老人と海』の少年のように心奪われ、そしてこの先もずっと祖父を尊敬し続けるとのだと思う。



まとめ

正しい時間の過ごし方について、私達が学ぶべきことは多い。偉人や著名人の教えに傾倒しても良いが、私は『老人と海』の老人や祖父のように、仕事や趣味の最中に自分を振り返って、価値観を明瞭にする過ごし方に心惹かれた。

ホリエモンからは、古い価値観からアップデートされていないバカとこき下ろされそうだが、上面の心地よい言葉に傾倒するよりは、心に残るモノが出来るのではないかと思う。


それでは。

(今までの記事はコチラ:マガジン『大衆象を評す』

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