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さようなら、私のエヴァンゲリオン:‎エヴァと私の話/そして、シン・エヴァンゲリオン感想

私とエヴァンゲリオンの出会いは、20年ほど前に遡ります。

当時私はレンタルビデオ屋に通っていて、気になったアニメを片っ端から手にとっていました。またVHSが全盛の時代、雑誌などの前情報も殆どなしに、ただ目についたものをとりあえず見るという荒っぽい楽しみ方です。
中でも「劇場版」とつくものは、ひとまず一巻で完結するので見やすいということもあり、標的になることが多かったように思います。

…カンのいい方は、既にこの後に起こる悲劇に予想がついたでしょう。

そうして手にとった内の一冊が、何を隠そう新世紀エヴァンゲリオン劇場版『DEATH&REBIRTH・Air/まごころを、君に』。
それが私にとっての最初のエヴァンゲリオンでした。

…上記の作品、いわゆる「旧劇場版」をご存じの方なら想像に容易いと思うのですが、何もかも全く意味がわからなかった

そもそもアニメ作品の劇場版を、TVシリーズを一切見ず前情報ゼロで(当時はWikipediaなども存在しない)視聴するという行為が愚の骨頂なのは言うに及ばずですが、それにしても展開するストーリーが1mmも分からない
それもそのはず、エヴァンゲリオンといえば背景設定の多さと説明の無さにかけては人後に落ちない作品。しかもこの旧劇場版は、最終的にはとんでもなく理不尽な全滅エンドでストーリーすら見えないまま終わる極めつけの一作です。
最後の「気持ち悪い」というワンシーンで終わったフィルムを前に、当時の私が何を思ったかは想像するに余りあるでしょう。

…おそらくエヴァンゲリオンという作品にここまで酷い出会い方をした方は、そうそういらっしゃらないと思います。
後で知ったのですが、エヴァンゲリオンという作品は当時社会現象になるほどのブームを起こした一作だったので(私が出会ったのはそのブームもやや熱が冷めつつあった頃だった)、あらすじどころか作品名すらしらない一切の前情報ゼロでエヴァを見るというのは間違いなくレアケース中のレアケースだったはずです。

「そんなことあるか」と思われるかもしれないけれど、これは残念ながら徹頭徹尾実話です。…私も正直嘘であってほしかった。


…そんなワースト・コンタクトから月日は流れ、2021年。
世にいう「新劇場版」の完結作たるシン・エヴァンゲリオンを、私は目にすることができました。

いまやネットに数多存在するシン・エヴァの感想や考察に、私があえて付け足すべきことはきっと何もないと思います。
ただ、私がエヴァンゲリオンという作品と出会い、積み重ねてきた歴史の果に「完結編」というに相応しい作品に見える機会を得て感じた、この私の思いだけは、他の誰とも似て非なるものであるとも思います。

だからこそ、蛇足と知りながらあえて筆を執る。
さらば、全てのエヴァンゲリオン」というこの万感の思いを込めて。

…こんなテキストに興味を持ってくれる奇特な方は、よろしければもう少し私の自分語りに付き合っていただければ、とても嬉しく思います。


◆ワースト・コンタクトから始まる物語

前情報ゼロで最初に説明ゼロで全滅エンドの「旧劇場版」を見るという、考えうる限り最悪の形でエヴァンゲリオンと出会った私は、さて当時どんな行動をとったのでしょうか?
これがまた一層不可思議なことに「TVシリーズを見始める」だった。

どう考えてもビデオを返却ポストに放り投げて二度と見ないのが常識的な行動で、当時の私が何を考えてそんな愚行に走ったのかはいまだに理解できません。
けれども事実として私はTVシリーズをせっせとレンタルし、全て見きった。そして「え、ここで終わるの?」という疑問符を浮かべたまま、レンタルビデオ屋のコーナーを何往復もし、どうやら続巻は劇場版しかないことをようやく理解して、再び劇場版に挑みました

結果は惨敗。

TVシリーズを全部見たあとでさえ、当時の私には劇場版を理解することは叶いませんでした
そうとも、当時の私にとって「アニメ」とは、ポケモンやデジモンよろしく、少年少女たちの単純明快な喜怒哀楽と成長の物語の果て、最後にはハッピーエンドを迎えるものでしかありませんでした。
エヴァも中盤まではそうした文脈から大きく外れずに展開するものの、参号機暴走辺りからの鬱々とした救いのないストーリー私の知らない世界でした。

そもそもエヴァは伏線の描写、裏設定や独自の用語も数知れずあり、どだいチラリと映るベッドシーンに恥ずかしさを感じる程度の年頃では、到底理解できるものではありません。また仮に理解できても、ハッピーエンドのかけらもない旧劇場版の結末が受け入れられるかは別問題です。

と、このように当時の私にとって、エヴァとは理解し得ぬ作品であり、理不尽な作品でした。しかし一方でそれでもなお執着を捨てきれないほど魅力的な作品でもありました。

それが次の地獄の門を開くことになります。


◆泥沼の入り口

さて、ほうほうの体でともかくエヴァ全編を見終えて世界の中心で理不尽さを叫んだ私でしたが、それでエヴァに愛想を尽かしたかといえばさにあらず。
ちょうどその頃、黎明期のインターネットに触れていた私の目の前に、とてつもなく深い泥沼が口を開けていました。

その泥沼の名を『二次創作』という。

ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、エヴァンゲリオンというのは、実はかつてネットでの二次創作小説で非常にメジャーな作品でした。
折りしも時はWindows98とISDNがインターネットを庶民のものにしつつあった頃。エヴァンゲリオンを見終えた後の「どうして!!!」という荒ぶる思いと「もしこうであったなら」という煩悩をテキストに叩きつけ、当時全盛期を迎えていた個人HPに掲載するという創作的愚行が誰にでもできるようになりつつあった時代でした。

検索エンジンをきっかけに私の目の前に広がった二次創作という新たな世界は、エヴァという作品に対して抱いていた満たされぬ思いを火種としてあっという間に私を魅了したのです

特殊な能力や経験によって自身の運命をねじ伏せた碇シンジがいた。
ちょっとした神様のいたずらで幸せな時間を手にした綾波レイがいた。
満たされぬ思いについに答えを得た惣流・アスカ・ラングレーがいた。

そこには私が求めていたストーリーがあった。


エヴァという作品は、真に奥深く、魅力的であり、また未知な部分も多いからこそ、「時間逆行」や「超能力」のような突飛な後付設定を受け入れられる素地がありました。
また「使徒と戦い世界を救うエヴァンゲリオン」という物語の骨子があるがため、どれだけキャラクターが原作から乖離しても「エヴァ」と言い張れる余地がありました。
結果として、ネットの海には千変万化・百花繚乱の無数の二次創作小説(当時はFF:ファンフィクションと呼ばれることも多かった)が生み出されました。そこに私と同じエヴァに対する満たされぬ「念」をたんまりと湛えて

こういってはなんですが、思いつきだけで書いて連載が3話で途絶える愚にもつかない駄文から、今でもこっそり手元のアーカイブを読み返さずにはいられない不朽の名作まで、あらゆる作品を読みました。最初は原作に対する満たされぬ思いを補完するために、しかしいつからか作品そのものを純粋に楽しむために。
時間だけはある学生の身分は、無料でアクセスできる二次創作小説ととてつもなく相性が良く、私はズブズブと沼に頭まで沈んでいきました


このように、実のところ私にとっての「エヴァンゲリオン」とは、このような二次創作小説と不可分な作品でした。
あまりに理不尽で不満足だがとてつもなく魅力的な原作と、それをありとあらゆる形で補完する二次創作小説。前者なくして後者は存在し得ないが、費やした時間は圧倒的に後者のほうが多い
なんなら私自身、初めて筆を執ったのは、何を隠そうエヴァの二次創作小説を書こうとした時でしたし、そこに膨大な時間を費やした挙げ句、産廃のような駄文を積み上げたものです。

そんな具合に、私とエヴァンゲリオンの蜜月の時間は数年ほども続きました。


◆「新劇場版」の逆襲

このように、私にとってエヴァンゲリオンとは人生でおそらく初めて、そして最も深くハマった作品であり、私を活字中毒にし、文筆の端緒となり、またインターネット、アニメ、小説、マンガなどその他のありとあらゆる娯楽の入り口となった作品でした。

もっとも入り口、というからには、いつかは門扉を通り過ぎます
私は徐々にエヴァ以外の作品にも(小説、アニメ、マンガ、そしてその二次創作を含めて)広く手を出すようになり、それにつれてエヴァが私に占める割合も右肩下がりになっていきました。
おそらく私は、二次創作を通して初めてエヴァという作品に「満たされた」のでしょう。あるいは「飽きることができた」と言うべきかもしれません。

そこで終わっていたなら、エヴァは「忘れられない昔の名作」として心の奥底にしまわれていたはずです。


その結末を覆したのが、何を隠そう2007年に公開された『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』でした。
私にとって「満足して」「終わっていた」はずのエヴァンゲリオンは、こともあろうに庵野監督という本家本元によって強制的に「未完成の作品」に逆戻りさせられてしまったのです。

もっとも、正直期待はしていませんでした。凄まじいクオリティの作画と、相変わらず秀逸な前半の胸躍るストーリーに眦を下げつつも、心のなかでは「どうせ全滅エンド」「未完のまま完結する」という思いが当然のようにあったからです。
それは長年培った諦観の念であり、おそらくは多くのファンに共通する思いだったのではないかと思います。
ただそれでも見たいと思うだけの作品だったのが私にとってのエヴァンゲリオンでしたから、当然「」「」と欠かさず見ました。何度も見ました。

だが「Q」で躓いたこれは、ダメだ

ネットでも盛んに言われていた「公式が二次創作やってどうするんだ」というのが率直な感想でした。最後もあいかわらずの説明ゼロのブン投げで終わってしまったことで、10年越しの私の無念はさらなる無念によって上書きされる悲劇的な結末となりました。

あまりに旧作から乖離したストーリー展開は、もはや二次創作に救いを求める気力すら起こらない有様。
その上、2012年の「Q」公開から待てど暮らせど続編は出ず、年号も令和と代わり、西暦も2020年の大台に乗ることになりました。


エヴァンゲリオンは死んだんだ。
いくら呼んでも帰っては来ないんだ。
もうあの時間は終わって、君も人生と向き合う時なんだ。


無数の二次創作により補完され、抽象的なイメージとして心の奥底に沈んでいた旧作を革新すること叶わぬまま、私にとっての新劇場版はそこで終わっていたのです


◆そして帰ってきた「シン・エヴァンゲリオン」

だから、2021年になってついに新劇場版の完結編である「シン・エヴァンゲリオン」が公開されると聞いても、私の心は波立つことはありませんでした
例えるなら親戚の七回忌の知らせを聞いたような気分というか、ああ、もうそんなになるのか、という、それはいわば過去へのいざないでした。

気にならなかったといえば嘘になるし、公開されるやいなや多方面で絶賛されているのを聞くと否が応にも気持ちは高まったのですが、それはそれとして私の中では「済んだもの」であったこと、そしておそらくは三度裏切られることへの恐れから、どうにもわざわざ劇場へ足を運ぶ気になれなかったのです。


そんなある日、丸一日を用事に開けていたのが、思いがけず数時間で済んでしまい、半日時間が空いた。しかも出不精の私には珍しく、車で遠出しての帰途。
天気が良かったせいか、はたまた思い立ったが吉日の性分からか。Twitterでたまたま目にした「シン・エヴァンゲリオン」の文字に、私はなんとなく「いい加減、見に行こうか」という気持ちになったのです。

道中、そしてスクリーンの向かうまでは、正直どうにも落ち着きませんでした。考えてみれば、エヴァンゲリオンという作品とはかれこれ20年の付き合いになります。友人でもここまで付き合いが長いのは片手で足りるほどで、これで変な終わり方でもされようものなら後悔はもうあと20年続く

そんな心配をよそに、フィルムが回り始めました。


私は泣いた。
恥ずかしげもなくボロ泣きでした。


エヴァ自体は本来そこまで「泣かせる」作品ではありません。「序」「破」「Q」いずれも心を揺り動かされても、涙することはまではなかったです。けれども「シン・エヴァンゲリオン」上映の3時間の間、心動かされ落涙したシーンの数は片手では足りないほどでした。
ハンカチを忙しく動かしながら、「ああ、私はこんなにエヴァが好きだったんだなぁ」と今更ながらに気付かされました。多分、私は傍から見て相当変な人でした。正直、今もこうして書いているだけで涙が溢れてくる。そのくらいボロボロでした。


なぜ、私はそこまで感極まったのでしょう。

そも「シン・エヴァンゲリオン」自体が、感動を呼び起こす優れた作品だったのは事実だと思う。ここまでの「序」「破」「Q」では何一つ説明されていなかった登場人物の内心が、ここに来て別の作品かと思うほど丁寧に描かれています。
都合3作、6時間に渡った膨大な描写をパレットに、大人たちの苦悩を、そして子供であった「チルドレン」たちの成長をこうも色鮮やかに見せられては、ぐっとくるのも致し方ないところではあります。ここまで溜めに溜めてのの一撃は、正直ずるいと思う。
しかしそれだけで、特段涙もろい方でもない私があれほどボロ泣きするでしょうか。


そう考えて気づいたのが、20年という歳月そのものの重みでした。

私にとって、「彼ら」はいわば20年来の友人です。それも多感な時期から共に過ごし、無数のテキストを通してその心情を知り、そして幸せを願ってきた極めつけの友人です。
碇シンジ綾波レイ惣流(式波)アスカ葛城ミサト加持リョウジ鈴原トウジ渚カヲル、そして碇ゲンドウ…。

かつて報われず、しかし二次創作という補完で希釈することで「めでたし、めでたし」という曖昧なイメージとともに心の中にしまっていた彼ら。断片的な描写からの想像でしかなかったその心。
けれども「シン・エヴァンゲリオン」は徹底した「地に足のついた」生活の営みを描写し、スクリーンの中で彼らの苦悩をありありと映し出し、現実の感情として具象化させた

その上で、彼らは前へと進みました。私の心の中で止まっていた彼らは、20年の時を超えて真に前へと歩き出した。それこそまさに私が望んでいた「救い」であり、そんな20年来の親友たちの晴れ姿を目の当たりにして心動かされずになどいられるでしょうか。


加えて、私はきっと誰よりも彼らの思いを理解していた。

かつてエヴァンゲリオンと出会った頃、私は「チルドレン」でした。多感な年頃に、碇シンジ綾波レイ惣流(式波)アスカ彼らと同じ視点で、大人たちや世界の理不尽に憤り、それに抗おうとしていました。
今やシン・エヴァを見る私は「大人」であり、加持リョウジ、所帯を持った鈴原トウジ、母親となった葛城ミサト、そして父親であった碇ゲンドウ同じ視座に立ち、その苦悩と矜持をいよいよ理解しようとしています。

私は「チルドレン」と「大人」という彼らのいずれの視点をも共有し、心を同じくする機会に恵まれた、けだし稀有な存在だと思います。ましてやこの上「チルドレン」が「大人」になる姿を見せつけられては、20年の時を超えた自己投影も相まって、涙腺の制御が我が手を離れるのは致し方ないことだと思うのです。


だから、私は自分がこの「シン・エヴァンゲリオン」に世界で一番共感して涙した人間ではないか、などということを臆面もなくここに記したいと思います。

そして今はただ、20年越しの思いを遂げ、「親友たちを未来に送り出せたこと。
そしてこれは私の妄想かもしれないけれど、私が長い時を共に過ごした二次創作を、旧作とともにまた一つの世界として肯定し、そこにピリオドを打ってくれた、庵野監督を始めとする全ての制作スタッフに心からの感謝を送りたいと思います。


さらば、全てのエヴァンゲリオン。
さようなら、私のエヴァンゲリオン。


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