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高学歴難民

Yahoo!ニュースの記事で高学歴難民に関するものがあり、その中である書籍が紹介されていたので購入して読んでみた。

読む前に僕が「高学歴難民」というワードに対して感じたことを書いておく。

「高学歴」は相対評価によるものだが、客観的事実であると思う。

一方、「難民」は本人がどう感じているかはわからないが、本人が自虐で言っているのならともかく、他人がとやかく言っているのであれば、本人の意に反するワードだと思う。高学歴に反して社会における役割を全うできていない居場所がない人、みたいな扱いを外野が押し付けているような感じがしている。まあ、それは本人が一番わかっていることだろう。

特にタイトルを批判したいわけではなく、ただ思ったことだったので最初に触れた。

「難民」は、人種、宗教、国籍、政治的意見または特定の社会集団に属するという理由で、自国にいると迫害を受けるおそれがあるために他国に逃れ、国際的保護を必要とする人々と定義されています(厳密な定義は難民条約の第1条A(2)を参照)。

https://www.unhcr.org/jp/what_is_refugee

では、本書を読んだ感想に入る。下記のような章立てとなっている。

序章
犯罪者になった高学歴難民

第一章
博士課程難民

第二章
法曹難民

第三章
海外留学帰国難民

第四章
難民生活を支える「家族の告白」  

第五章
高学歴難民が孤立する構造

おわりに
人を馬鹿にしてはいけない

本書目次より引用

まず、高学歴難民の事例として挙げられていた人物たちを数例載せる。

・文系の大学院の博士課程を修了し、講師の掛け持ちをしていたが定収入のために振り込め詐欺に手をそめた30代男性

・有名国立大学出身でネットのトラブルで脅迫行為をし逮捕され、その後自ら命を絶った30代男性

・官僚試験に合格できないまま、博士課程まで残り、塾講師をする中で将来性のある教え子に嫉妬し、強制わいせつ行為を行った40代男性

・国立大学大学院に進学し、研究職待ち(ポスドク)で、風俗のアルバイトをしており、現状の生活に不自由を感じていない30代女性

・学歴至上主義の家庭に生まれ、難関私立大学で修士号を2つ取得後、博士課程に進むも中退し、フリーターになり社会でのストレスやいじめに悩まされる40代男性

・CAから検察官に転身しようとするも試験に受からず、新興宗教に入信し信者からの勧めで男性と結婚し、後悔はない人生を送っている40代女性

・旧帝の法学部→法科大学院に進むが司法試験に受からずに、タクシー運転手になり、法曹関係の狭いコミュニティの中でつまらないコンプレックスに苛まれていたことに気付いた30代男性

・アメリカの大学で博士課程まで進み、3度の国際結婚をする中で借金・離婚・夫の自殺を経て、日本の地元のスーパーで正社員として働くようになり、人生の目標を見つけることができた50代女性

・幼稚園から大学院まで私立で、習い事を含め2000万を教育費としてかけられ、学ぶ意欲はあるが働く意欲がない30代男性

著者によると高学歴難民は、難民生活の長期化で疲弊し、追い詰められて犯行におよぶ「困窮型」と満たされない社会的欲求を他人を支配することで満たそうとする「支配型」に分類されるそうだ。

引用はこの辺にしておく。上の人物のもう少し詳細な説明や高学歴難民に対する著者の考えを知りたければ本書を読んでみて欲しい。

引用は面白くないし面倒なので、ここからは僕が思うことを書く。

最初に、何のために学歴を必要としているかということが思い浮かぶ。将来やりたいことへの近道だから、やりたいことはないが保険のため、正社員になって安定した給料が欲しいから、とりあえず大学に進学するという世の風潮があるから、何かに挑戦した経験が欲しいから、周囲の人を見返してやりたいから、人脈づくりのため、親に言われたから、働くまでのモラトリアムのため、などの理由があると思う。これは高学歴と言うより大卒の肩書を必要とする理由だ。消極的な理由もいくつかある。

で、大学受験をする際に自分の能力と家庭環境や金銭面を鑑みて進学先を決めることになるが、医学部などを目指すのであれば小学校から塾通いで、中学受験をしたり、早いうちからプランを立てる必要があると考えられる。結構な費用がかかったり、受験について色々と情報を入手する必要があるので子どもだけで受験を乗り越えるのは厳しいのではないかと思う。

難関大学を目指すということは、親が高学歴で子どもにも同等の学歴を求めたり、親が低学歴だから子どもはいい大学を出て欲しいといった親の影響も少なからずあると考えられる。親が子どもが小さい頃に冗談で言ったようなことでも、案外子どもはそれを間に受けて進学先をどこにするかを決めているかもしれない。

自分の意思で高学歴を求めて、難関大学に入学したのであればまだいい。特にやりたいことは無いが親に言われて難関大学を目指したのであれば、大学合格がゴールになり、その後抜け殻になるのではないかと思う。無気力人間の出来上がりだ。

また、大学はスムーズに卒業でき、やりたいことも明確だが、希望する会社に採用されない、試験に合格しない、うまく社会に馴染めないなどの理由で難民になる人もいるだろう。

たまたま受験勉強が得意で難関大学に受かったという人で、本書では触れられていないものの、卒業に苦労した人や中退した人も少なからずいると考えている。

こう言っては何だが、高学歴難民は理想とプライドが高く、コミュニケーション能力が低い傾向がある人が一定数いると思われる。僕の偏見である。

少し自分の話をすると、僕は特にやりたいことはなく流れに身を任せて生きてきたように思う。

スヌーピーのセリフに「配られたカードで勝負するしかないのさ…それがどういう意味であれ」というものがある。これは同じ作品に登場するルーシーが言った「時々、わたしはどうしてあなたが犬なんかでいられるのか不思議に思うわ」に対してのものである。

スヌーピーって犬だったのか。何かよくわからない生き物かと思っていた。

スヌーピー風に言うと、手札を増やして選択肢を増やし、将来の可能性を広げるためというのが僕が大学に進学した理由だ。

僕自身は、勉強自体が好きというより自分がわからないことがあるのがムカつく(他の人より評価が低いのが嫌)という理由で中高生の時は勉強していた。それが功を奏して中高の評定は4.5ぐらいだったと記憶している。何かの教科に特化している方が色々とわかりやすくていい側面もあると考えている。

高校の文理選択の時は、やりたいことはなかったが理系の方が将来の選択肢が多そうだという無難な理由で理系にした。この選択は間違っていなかったと思う。

その後、運良く大学に進学するもののやりたいことは無く、働きたくないので大学院に進み、とりあえず入った会社で働いている。

「高学歴難民」の中で、取り上げられていた人は何となくだが文系出身が多いのではないのかと思う。

文科省によると文理の比率は7:3らしい。やりたいことはないが、勉強することがそこまで苦ではなく、とりあえず大学には進学したいという人には理系をおすすめしておく。理系科目が苦手という人も今では様々な情報が溢れているので、適切な情報を取り入れる必要はあるが、学びやすい環境だと感じている。

医学部受験も関係するのだろうが、超進学校では文理の比率が逆転するという話も聞いたことがある。

僕が就活をしていた時に気になっていたことがあった。うろ覚えだが、採用職種に総合職、一般職、専門職がある場合に給料が総合職>専門職だったような気がしている。何かおかしい。

日本では、終身雇用制度に基づきメンバーシップ雇用で何でも屋のゼネラリストを欲する風潮があったが、最近ではジョブ型雇用でスペシャリストを欲している話もある。やりたいことや向不向きもあるので、どちらがいいという話ではないが、僕自身は性格的にスペシャリストの方向で考えた。

話を戻すと、日本の一般的な大学受験は、試験の点数のみで決まるので、ある種平等である。

一例だがアメリカのアイビーリーグだと、大学入学までに本人がやってきたことも評価の対象になるのだが、それに対応するために金を出して様々な社会活動をしたという経験を買うようだ。また、多額の寄付金をして入学する人もいるとどこかの動画でみた。入試だけに限ったことではないが、裕福な家庭の子どもが断然有利だ。

僕は人生は運だと考えているので、格差があるのは必然だと思っているが、高学歴難民だとしても、経緯はどうあれ難関大学に入学したのは事実なのでまずはそのことをポジティブに考えればいいと思う。ここで厄介になってくるのが、自身のプライドとか世間体、周囲との比較といった問題だ。自らを難民であると認識しているのであれば、その問題にどう向き合い対応するかで、今後の人生が大きく変わってしまうことだろう。

一度、転落してしまうと這い上がるのが難しいのが、社会の実状である。

これは、別の記事でも書いたが、人間の成長度合いと寿命と肉体の耐用年数とライフステージの歪さに問題があると考えている。

平均寿命を80歳だとして、日本の一般的な教育課程を想定すると、義務教育を終えるまで15年、その後高校に3年通ったとする。人生の1/4近くが経過した。

日本の大学進学率は6割弱だが、早い人は10代で働いており、大学で長くいればアラサーぐらいになる。ここまでで長いモラトリアムだとしても人生の4割弱程が過ぎている。30歳ぐらいの職歴がない人で、選り好みをすると職にありつけない。ただ、どんな仕事でもいいというのは高学歴難民のプライドが許さない。社会に出始めるまでの時間が人生の体感だとかなり遅いのではないかと思う。

本来、大学は専門知識を学ぶ場なので、制約はあるにしろ社会人になってから自分が学びたい分野があるので入学するという人がもっといてもいいのではないかと考えている。

大学受験は受験のためだけの知識がかなりあると思われる。その中で、興味がある分野を見つけられると有利なのだが、詰め込み型の教育のなかでそのようなゆとりがあるのかはわからない。

将来、成功すると確定しているなら、受験勉強を頑張るのではなく、その期間に好きなことをする方がよっぽどいい。好きなことをやって失敗しても、無駄にはなりにくいのではないかと思う。本当は後者を選びたいが、人生どうなるかわからないので保険をかける人も数多くいるだろう。僕もそうだ。

義務教育の目的は文科省によると「義務教育は、国民が共通に身に付けるべき公教育の基礎的部分を、だれもが等しく享受し得るように制度的に保障するものである。」とのことだ。

僕が考える義務教育の意味は以下のようなものだ。

・社会で生きていくうえで最低限の教養を身につける
・学校というコミュニティの中で、社会に出る前にその縮図であることを身をもって経験する(対人関係、対話・行動の仕方や自分と周囲の認識のずれや考え方の違いなどを学び、自分は何が好きで何が嫌いかを理解する。)

僕は公立小中の出身だが、色々なタイプの人間がいる環境で思春期に揉まれておくのは一種の勉強だと思っている。トラブルに巻き込まれないに越したことはないが、純粋培養の温室育ちより、刺激がある
環境を生き抜いた人の方が精神的に強くなると思う。もちろん、そういった環境は無理という人もいるので万人にはおすすめできない。

また、義務教育期間の中で、何事も自分で考えるという癖をつけた方が良いと考えている。誰かの言いなりでいると碌なことにならないと思う。中々、難しいとは思うが自分はどういう人間で何が得意(好き)で、将来何をしたいかが明確になっていると漫然と生きることは少なくなるんじゃないかと過去の自分に言ってやりたい。目標に凝り固まって、変更を余儀なくされた場合に柔軟に対応するか目標達成に向けてゴリ押しできるぐらいの精神力がないと難民になりやすいのかもしれない。

人によっては時間が経ちビハインド状態で、将来に向けて行動するというのは、大いに考えられる。

何かを始めるのに遅すぎることはないとは言うが、時間の優位性というのは代わりがないと感じている。

義務教育の中で大学に行く意味などは率先して教えないと思うし、聞かれてもなかなか回答に困ると思う。親に聞いてくれと言いたい。

我慢しないで好きなことをして生きていける人は一握りだと思うので、多数の人は何かを我慢して生きていることを勉強を通して学ぶ必要があり、将来の可能性を広げることにつながるからなどが無難な理由としてはある。

子どもの将来の可能性を広げるために、色々習い事をさせたり経験を積ませたとしてもやりたいことが無いと言う子どももいるので、僕は子育てをしたことはないが、子どもの育て方というのは本当に難しいことだと思う。親も子どものためを思って、何かを行っても結果論でしかないが、どういう人間に育つかはわからない。

月並みではあるが、子どもをポジティブ(屈折しにくい)な人間に育てるには、半ば押し付けのような一方通行ではない適切な愛情とコミュニケーションだと考えている。物質的な豊かさよりも精神的な豊かさの方が大切だと社会人になってつくづく感じるこの頃である。

一方で僕は、学校は資本主義の奴隷を育てているのではないかとも思っている。ある種の洗脳のように右に倣えで、多くの人の生き方が決まってしまっているのではないかと考えている。

やりたいことがあって、努力した結果、自分の選んだ道で十分な資産を築くことができたというなら素晴らしいことだと思う。

金を稼ぐためにいい大学に入るというのは間違ってはいないだろう。ただ、その結果自分がしたくもないことをしている場合は、精神的な豊かさを得づらいので難民とは行かないまでも何かしらの問題を抱えるかもしれない。そうなると、家族や周囲の人間にも悪影響を及ぼすことになりかねない。

もっと多様な生き方があってもいいのではないか。

世の中には大学に進学はしていないが、世間的には成功していると言われる人もいる。

そういった人は、大学に行くかわりに若いうちから様々なことを経験していて、人生の前半に経験値をかなりためている印象がある。小さいことから好きなこと一本に興味を向け続けたり、失敗してもまだ若いので取り返せるという気持ちで挑戦している。

上のような面もあるので、僕はすぐに行動に移せる人を羨ましいと感じている。人生は運だと言ったが、若いうちから試行回数を稼いで経験を稼いでいる人は単純に強い。

高学歴難民になる人は、本当に自分がやりたいことを確信している人は意外と少ないのではないかと思う。何となく先入観や周囲の期待・環境に触れて自分の軸がぶれているのではないか。僕自身にも当てはまる部分も少しある。

また、新卒や20代でないと異業種で採用されにくいなど、年齢や職歴が理由によるものについて、会社は慈善事業ではないとは思いつつも何とかならないものかと感じている。

周囲と比較することは良くないとは言うが、高学歴であれば競争に勝ち、優越感に浸ってきた人もいると思うので、いざ自分が難民の立場になった時、素直にその状況を受け入れられないのが問題だと思う。

結局、世の中は他者との比較で成り立っているので自分自身でなんとか折り合いをつけるほかないのかと物悲しい気持ちになる。

ポジティブなことに対しては敏感に、ネガティブなことに対しては鈍感になるように生きていけると多少は楽になるのかと考えており、鈍感力を磨くのは社会を生きていくうえで結構大事なことではないかと思っている。

当たり前だが高学歴だからといってその後の人生の幸福につながるわけではない。

老子の言葉に「知足者富、強行者有志。」(足るを知る者は富み、強(つと)めて行なう者は志有り。)というものがある。「満足することを知っている者は精神的に豊かであり、それでいて努力する者にこそ志は宿っている。」という意味だ。

高学歴難民の中には精神的にまいっている人もいるとは思うが、現状に満足しない気持ちを持つこと自体は大切だと思う。ただ、現状からの打破は周囲のサポートを受けても最後は自分自身で解決する必要があると考えている。自分が現状使える手札を理解し、なりふり構わず行動しなければならないこともあるかと思う。

「高学歴難民」の中で著者は、高学歴難民の苦しみの根源は、社会的な役割がなく社会的な身分の獲得は、犯行の歯止めになりうると痛感しており、幸せを手に入れた高学歴難民に共通することは、人との出会いを大切にし、行動し続けたことだと述べている。

また、本書の中で紹介されている高学歴難民のひとりが、これまでの経験はすべて自分にとって必要なことだったと考えており、いつか困っている人、人生に迷っている人の役に立つ情報になればいいと述べている。

僕も幸福を探している最中なので、考えさせられることもある。利他的というと語弊があるが、他人のために行動することは巡り巡って、自分の幸福につながるのだろうか。人のためからスタートする行動でないと幸福になりづらいとするのであれば、そのことに何かむなしさを感じる自分がいる。自分が足るを知ったうえで他人のために行動するのは利己的な人間なのだろうか。

いつも以上に雑多な内容になってしまったが、僕が「高学歴難民」を読んで思ったことを書いた。

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