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推しマークの話。

どうも、おもちです。
最後まで読んで頂ければ幸いです。

ところで、皆さんは「推しマーク」なる物をご存じでしょうか?
語源は推薦する意味の推す。 転じて他者に勧めることができるほど好きである様を表している。という物です。
よくX(旧:Twitter)のお名前の後ろにつけてる方(主に絵文字)や
プロフィールに、私の推しマークは~なんて書かれてるのを
お見かけした事はございませんか?
そうです、それです。
語源もとい意味に関しては上記の通りになります。

さて今回はそんな「推しマーク」について
個人的な事を書いていきたいなと思い記事にしました。

推しマーク、おいては「推し」がいるという事。
平たく言えば、好きな物、事、人が居る在るというのは
とても素敵な事で、差はあれど生活や心に潤いをもたらしてくれる事かと
思います。

しかしながら、私はふとたまに思う事があるのです。
X(旧:Twitter)で、限界まで「推しマーク」をつけてる人を見かけると
それは・・・成立しているのかな・・・?と。

推す相手に迷惑をかけない、実害を被らないという前提で
誰がどの様な形でも推す事に口を出す事はないと思っている。
というのを、前提および前口上として置いておく。

しかし私は推しマークを限界までにつけてる人を見かけると
推しが沢山いる自分に酔ってないか・・・?」と疑問が浮かぶ。

先ほども書いた通り、推しがいる事は、とても素敵な事である。
それは間違いないが、正直大変じゃないか?と勝手に思ってしまう。

どの様な物、人、事を推しているかによるけれど
その実、同時に平行に平等に推すのは
個人的にとても難しいと思っている
推しへの推し方については、一旦置いておくとして。

何よりは時間的な問題が発生してくる。
これは私自身が複数人の推しがいる故に学んだ事である。
世の中には2窓3窓等と、複数のディスプレイを使用し
同時視聴を行っている強者がいるのは、知ってはいるが
それは誰しもが出来る訳ではないと思う。
そこまでする「推し方」なのであれば、私の推し方は
到底敵う物ではない。
もちろん、元より競い合う物ではないので、そこは心得ている。

少し話がズレてしまった。
推し方は、自由であれ。しかし推しを多く持つ事に酔う事なかれ
と、私は強く思っている。
そうなってしまうと、もう推しが好きなのではなく
推しを推している自分が好きだからである。

それが推しに対して失礼に当たるとは思わないし
好きにすればいいとは、思う。
しかしあっちもこっちもだと、時間も手も足りなくなってしまい
いずれ追いつけなくなる。
もしくは、何か大切な物を犠牲にしなければならない事になる。
それがどんな事かは、書かないでおく。

推しを絞り、選びなんて事は言わない。
「箱推し」という便利な言葉もある。
それでも選べないなら、それは仕方ないと思う。
何より最初に書いた通り「自由」なのだから。
そんな自分「」好きなのも良いと思う。

そして言うまでもなく私も「推しマーク」をつけている。
でも正直つけたくはない
それは私自身が、満足のいく推し方を
継続し続けれるか、分からないからだ


現状、お二方の推しマークをつけさせて頂いている
それは私が心の底から好きで推しているからである
もしそのマークを消す時がくるとすれば
私が、満足に推せなくなったか、推しが結婚した時だと思う
それを知るすべはないけれども、そんな所だろう。

推しに時間やお金を割けないのであれば
私個人としては「推してます!」とは言えない

とあるお店をずっと応援し続けているけれど
それは「言葉」だけである。
今はもう「時間」も「お金」も割けてない。
これは私の不甲斐なさに帰する物であり
そのお店で何かあったとかではない。
今も健在し続けている事に感謝しかない。
早い所、推し戻ししたいものである。

そして私は、今年とてつもない大怪我を負った。
幸い大きな障害が残る事は無かったけれど
ある程度の不便を背負う事には、なってしまった。
人生何が起こるか分からないと
産まれて数十年経って思い知らされた。
推し戻しするには、もう少し時間がかかりそうだ・・・。

そんな事も相まって、以前から疑問に思っていた事を
文章にしてみた。
相変わらず何が言いたいのか、よく分からない文章だなと思う。

それでも書きたいと思う気持ちを潰さずに
書いてみた。
怪我のせいではないが、久々に文章を書いてみて
楽しかったなって思いました。(小並感)

推し方を見直してみるのも
また新しい発見になるかもしれないね。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
それじゃ、また。

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