グリッチ (22)

 深雪は俺のベッドに乗り、俺のすぐ横に座っているらしい。柔らかい手が俺の頭を抱き寄せ、額の汗を拭い、首や肩を何度も撫でさすった。

「深雪、どうして、ここに居る?」

「わたしは、行きたいとこに、いつでも行けるから」

俺に会いに、夜中に跳んで来たということだった。それなのに、みっともないところを見せてしまった。俺は、大声で母を呼んだのだろうか。

 俺の息が落ち着くまで、深雪は、俺の額に何度も唇を押し当てた。稲光がして、深雪の顔かたちが見えた。俺の目を覗き込む深雪の目に、涙が光った。どこか遠くで雷が鳴った。深雪は、俺のこめかみや首の汗を手で拭い、俺の肩をさすった。

「夢だよ、たっちゃん、大丈夫だよ」

「雨は嫌いなんだ」

うなされたことを弁解するように、俺は言った。

「わたしも雨は嫌い。だから来たの」

深雪は俺の額や頬を撫で付け、大丈夫だよ、と囁き続けた。深雪はなぜ俺に、こんなに愛情深い仕草をするのだろう。俺を憐れんでいるのか。俺は泣き出しそうになった。

 いきなり深雪の身体を抱き締めて口を吸った。驚いた深雪が俺の胸に突いた手を、握り締めた。薄いパジャマに包まれた深雪の身体が、俺の腕の中で苦しげにもがいた。俺は自分がとんでもないことをしていることに気付き、慌てて深雪を放し、ベッドを飛び降りた。

「深雪、すまなかった、頼むから消えないでくれ。もうしばらく、ここに居てくれ。頼む」

深雪は、何度か息をつき、やがて、

「どこにも行かないよ、たっちゃん」

と言った。

 俺は、下着一枚だった。服を着ようと思い、一、二歩動いたところで、何かに足を取られ転んだ。いってぇ、くそ、と悪態をついたが、これで身体が一気に冷めたから、丁度良かった。俺が躓いたのは、寝る前に脱ぎ捨てた作務衣だった。

「灯り点けようか。マッチある?」

と深雪が言った。

「服着るから、ちょっと待ってくれ」

俺は暗闇の中で、手探りで作務衣の上下を見極めて身に着け、ベッドの端に座った。

「すまなかった、深雪。こんな真似は二度としないから、許してくれ」

深雪は、意外なことに、

「たっちゃん、ごめんね。我慢させて」

と言った。

「お前が謝ることじゃないだろ。何言ってるんだ」

 深雪は、手探りでベッドサイドテーブルに載っているマッチを見つけたらしく、一本擦り、蝋燭に火を灯した。そして、俺の隣にすり寄って来て座り、俺の手を取ると、いきなり掌に口づけした。俺は驚いて深雪の顔を見た。

「たっちゃんのね、手が好きなの」

深雪は俺の掌に頬を押し付けた。

 深雪は俺のことを、一体いつから、これほど好いていたのか。しばらく、俺の手を愛撫する深雪の横顔に見とれていた。何をどこまで期待していいのだろうか。また腹の中が熱くなり、困り果て、窓の外に目を向けた。深雪に片手を預けたまま、

「凄い雨だな」

と言った。窓を叩く雨音が凄まじかった。

「そうなの。うるさくて眠れなくて考え事しているうちに、のんぺいに手引きしてもらわなくても、いつでも夜中に逢えるんだって気が付いたの。今まで思いつかなかったわたしって、ばかだよね」

と、深雪は笑った。

「会いにきてもよかった?」

「よかったに決まってるだろ」

俺が今、飛び上がるほど嬉しいのが、わからないのだろうか。

「ねえ、たっちゃん、わたしがたっちゃんのこと好きって、いつから知ってたの?」

俺は面食らった。

「今の今まで知らなかったよ」

深雪は、きょとんとした。

「なんだ、そうなんだ。最初からばれてたから、あんなこと言い出したのかと思った」

「最初っていつだよ」

「わたしが寒がってたら、たっちゃんがあっためてくれたでしょ」

「それってほんとに最初じゃないか。お前、あん時から俺のこと好きなのか」

「うん」

「早過ぎだろ」

「わたし、馬鹿みたいに惚れっぽいんだよ」

「自分で言ってどうすんだよ」

俺たちは大笑いした。ひとしきり笑ってから、深雪は何やら寂しげな顔になった。

「ていうか、たっちゃんの手のあったかさが忘れられなくなっちゃったの。あれは、致命的ミスだったよねえ」

深雪の言っていることは支離滅裂だった。

「なんでミスなんだよ。俺もお前を好きになったんだから、もう良いだろ」

「たっちゃんには、他の人と幸せになってもらう方が良かったの。なのに、わたしがぽっとなっちゃったから、こんなことになっちゃったんだよ」

 深雪は、俺を命がけで救い出した上に、幸せにしようなどと考えていたのか。ありがたいと言うべきか、呆れたと言うべきか、俺には深雪の考えが益々わからなくなったが、深雪が俺を好いているなら、今までのことはもうどうでもいい。俺は、至福の気分になった。

「こんなことって、俺たち、相思相愛なんだから、もういいだろ。ごちゃごちゃ文句言うな。運命だと思って諦めろ」

上機嫌で深雪の肩を抱き寄せたが、深雪は真顔のまま、

「運命じゃないの。たっちゃんに来てもらったのは、わたしとこういうことになるためじゃないの」

と言った。深雪の真剣さが、俺の肝を冷やした。のんぺいが同じようなことを言ったのを思い出した。二人とも、俺が知らない何かを知っているのか。

「深雪、お前には未来が見えるのか」

深雪は、俺の手を弄びながら、

「断片的にしか見えないんだよ。筋が通るようには見えないの。自分のことは見えないし」

と言い、突然、怒り出した。

「結局、何もわからないんだよ。わからないって意味では、他の人と同じ。ただ、人より少し早く刀を振り回すことができて、人より先に絶望することができるだけだよ。こんな能力には、なんの意味もないんだよ!」

深雪は俺の手を丸めて拳にし、唇を押し当てた。そうすると気持ちが落ち着くとでも言うように。

「深雪、お前は絶望してるのか?」

「たっちゃんは絶望してないの?」

 俺には答えられなかった。毎日、何かしら、やることはあり、やることをやれば、やっただけの充実感がある。俺たちは、一日のうちに、村の人達と数限りない挨拶を交わし、冗談を言い合い、笑い、食卓を囲み、労働し、海で泳ぎ、そういう時には、今は戦争中だという事も、ふと忘れてしまう。しかし、未来に希望を持っているかと聞かれれば、希望というほどのものは、もう持っていないのではないかと思う。今の状態が一生続くとしたら、それを良い人生だと思うことはできないからだ。俺は今の状態を脱したくてあがいている。この状態は仮の姿のはずだ。仮の姿がそのまま一生続いてしまうことを、ひどく恐れている。

「わたしたちがこの島で細々と生き延びている意味は、何だと思う?」

「そのことを、俺もずっと考えていたんだ。お前に聞いたら、教えてくれるかと思ったんだけどなあ。お前も知らないのか」

深雪は膨れっ面をした。

「悪かったわね、知らなくて」

「そんな言い方するなよ」

 俺は、深雪の手を取った。深雪がやったと同じように、深雪の掌や指に口づけしてみた。恋人の手を愛撫するとどんな気持ちになるものか、やってみたかったのだ。

「何それ、お返し?」

「猿真似」

深雪はくすくす笑った。深雪の手は俺より二回り小さく、数倍柔らかかった。俺は深雪の指一本一本の小ささと柔らかさを、視覚と触覚でじっくり味わった。なるほど、恋人の手に恋するということが、できるものなんだ。

 こんな風に夜中のデートをしながら、俺たちは心の奥底で絶望しているのか。そういうことがあり得るのか。一体なぜ、俺たちは、幸せと絶望を同時に感じることができるように、できているのだろう。

「戦争中は自殺率が減るって知ってる?」

唐突に深雪が言った。

「いや、知らなかった」

「人が周り中で死ぬから、生存本能が強くなって、自殺者はあまり出ないんだってさ。どこかで読んだんだ。戦争が終わると、自殺率がまた上がり始めるんだって。人間は、本能的には生き延びたいのに、生き延びるだけでは、足りないんだね」

深雪は、その先を続けることをためらったのか、一度黙った。俺は何も言わずに待った。

「この島でも、二人ね」

「自殺したのか」

「そう。最初の一ヶ月に立て続けに。絶望って、命の危険が無くなると忍び寄るものなんだよ。二人とも、家族を全員亡くした人達だったから、後追いね。でも三人目は、望月先輩が見つけて助かったの」

「望月が?」

「正子さんのことだよ」

あの明るく優しい正子さんが、自殺未遂をし、それを助けた望月と結ばれたのか。望月が、二人とも家族の中で一人残されたと言っていたのを、思い出した。

「あっという間に祝言を挙げたよ、あの二人。やっぱり人間は、一人では生きられないのかもしれないね」

 今度は深雪が俺の手を引っ張り、顔の前に持って行き、また口づけし始めた。そんなに俺の手が好きなのか、と思うとまた身体が熱くなってきて困った。

「たっちゃんのこと、初め心配だったんだよ。戦場からいきなりこの島に連れて来て、大丈夫かなって。でも、わたしが世話するわけにはいかなかったし」

それで納得した。

「だから万里亜を送り込んだのか」

「送り込んだわけじゃないよ。でも万里亜ちゃんが興味あるみたいだったから、丁度良いと思ったの。万里亜ちゃんは本当に良い子なんだよ。あの子とくっついた男の人は、幸せになれるの」

 その後、深雪はしばらく黙っていた。蝋燭の灯りに浮かぶ横顔は、とても悲しそうだった。

「深雪、お前も死にたいのか?」

「積極的に死にたいわけではないけど、先に死んだ人達が羨ましい時はある。悲しいことをもっと沢山見る前に、死ぬ順番が来ればいいなって」

深雪からこういう言葉を聞くとは思わなかった。今日花を守るという使命があったのではなかったか。

「深雪、お前、何を知っているんだ? どんな未来を見てしまったんだ?」

俺の問いかけに、深雪は答えるつもりはないらしかった。ただ辛そうな顔をして、床の一点を見つめているだけだ。俺は、深雪の身体を引っ張りあげ、俺の膝の上に横抱きにし、肩を抱き締めた。深雪が俺の事を好いていることがわかったから、こういう真似ができるようになった。そのこと自体は、とても嬉しかった。だが、深雪が感じている絶望の理由が俺にはわからない以上、俺が深雪を恋する事が何かの足しになるのかどうかは、俺にはわからない。

「心配しないで。ちょっと疲れてるだけ。三年、我慢の連続だから」

深雪は俺の肩に頭をもたせかけ、そうつぶやいた。

「疲れたら寄っかかれって言ったろ」

 

 深雪は眠ってしまったのかと思う程、長い間、俺の腕の中でじっとしていた。あの松の大木の枝に座った時と同じだ。深雪は俺の懐に収まると大人しくなる。

 ふと、子どもの頃、飼っていたインコのミドリを思い出した。掃除のために鳥かごから出すと、部屋の中を飛んで散々逃げ回った挙げ句、やっと捕まえると、俺の手の中で心臓をぱたぱたぱたぱたさせながら、じっと動かなくなった。動かなくなってから手を開いても、ミドリは逃げなかった。俺の手に乗っているのが好きらしく、ずっとそこでじっとしていた。指先で小さな頭を撫でてやると、気持ち良さそうに目をつぶったり開いたりした。それなら初めから素直に俺の手に乗ればいいのに、かごを開けると必ず逃げ回る、あまのじゃくなインコだった。

 

 外は雨足が幾分緩んだようで、少し静かになってきた。深雪が俺の顔を見上げ、

「明日、たっちゃん、また土木工事でしょ。きっとあちこち壊れてるから、大仕事だよ。寝とかなきゃね」

と言った。

「帰るのか」

「うん」

深雪は俺の膝から下りて立ち上がり、伸びをして、突然、

「わたしも男だったら良かったのになあ」

と言った。

「なんでだよ」

「だって荷物も倍くらい運べるだろうし、剣道もきっと倍くらい強くなれるだろうし、わたしが男だったら鬼に金棒じゃない。土木工事だって一緒にできるし、たっちゃんの部屋に、堂々とお泊まりもできるよ」

「お前が男だったら、そもそもお泊まりしたい仲にならないじゃないかよ」

深雪はくすりと笑い、

「なるでしょ。たっちゃん、両刀遣いだから」

と言った。意味が分からず俺が目をぱちくりさせていると、

「のんぺいと恋仲なんでしょ」

と言って大笑いした。

「この…」

俺は深雪の頭を叩く振りをし、深雪がそれを交わし、揉み合って、結局、ベッドの上に組敷いてしまった。深雪は俺にどうされることを望んでいるのか、俺にはもうわからなくなっていた。深雪としばらく睨み合い、また口を吸った。深雪はしばらくされるままになっていたが、苦しくなったのか、もがいて唇を放し、俺の口に手を当てて止めさせた。深雪の頬が紅潮し、息が乱れている。このまま行く所まで行く自由が俺たちにあったら、どんなにいいだろう。

「たっちゃん、親衛隊やめたら?」

と深雪が言った。深雪の指の隙間から、

「どうして?」

と聞いた。

「逢いたかったらいつでも逢えるから、仕事まで一緒にすることないよ。苦しくなるだけでしょ」

俺は深雪の手をどけて、顔を近づけた。もう一度、口づけしたい。他のことは、考えられなくなっていた。深雪は顔を背け、

「もう行くよ。またね」

と言い、俺の身体の下から消えた。俺は枕を拳で三発殴り、ごろりと仰向けになった。

 こんな我慢をし続けるのは無理だ、と俺の身体が叫んでいた。突然に、深雪に想われていることを知り、身体に火が点いた。深雪が今夜のように、気ままに会いに来たら、俺はいつか乱暴狼藉を働くだろう。(但し、そうなる前に、深雪は跳んで逃げるだろうが。)まったく、どうしろというのか。最初に、友達として傍に居るだの、兄貴の約束だの、支離滅裂なことを言ったからには、その誓いを守れということなのか。自信がなくなってきた。こんな風に深雪の身体を欲することを称して、恋とか愛とかいうのか。それとも、俺は格別に意志の弱い人間なのか。助平なのか。

 この時、俺は、池田先生が言ったことを突然思い出した。男と女が好き合って愛し合うと、医療の無いところでは、一割の確率で女が死ぬという。出産に伴う死亡率が一割というのは、そういうことではないか。

 人類という種は、やはり設計段階で何かを間違ったとしか思えない。生き延びたいのに生き延びるだけでは足りない。愛し合いたいのに、愛し合うことによって、死人を出す。それでも、種の保存はできているから、いいと言うのか。一人一人は、種の保存のための捨て駒か。もしかしたら、人類だけではなく、すべての生物がそうなのか。それではなぜ、人類だけが、そこに悲しみを見出す感性を持ったのか。

 この島の生活は、一見、平和だ。しかし、平和と呼ばれる状態の中に、死の不安や別れの苦悩や悲しみが、常に組み込まれている。六郎さんの言う神というものが居るならば、一体どういう考えで、人間をこんな不良品に創造したのだろう。余程、意地の悪い神なのか。

 俺と深雪以外の夫婦や恋人達は、こんなことを考えずに楽しくやっているのだろうか。望月は、正子さんの身辺を心配するあまり、眠れなくなったりしないのだろうか。それより何より、正子さんを愛することの結末が、一割の確率で死であることを、知っているのだろうか。知っているはずだ。この島に二年以上暮らしていて、知らないはずがない。それでも望月と正子さんは、命がけで子どもを作るだろうか。望月は一体何をどう考え、未来への希望を見出すのだろう。あるいは、希望というものは、近代医療が手に入るまで、人類には無縁のものだったのか。原始の生活に戻りつつある俺たちは、希望という荒唐無稽な期待を捨てた生き方を、思い出すべきなのか。

 俺は望月と話したいと思った。

(一章、おわり)


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