変わらない、を選ぶとき。
オードリー春日という人間はずっと変わらない。
M-1 2008での準優勝をきっかけに脚光をあび、テレビに出はじめ、一発屋で終わることなく、今も衰えず売れ続けている芸人と言えるんじゃないだろうか。
根拠のない自信に溢れる男、というように表現される彼は、よそゆきのキャラではなく、売れる前から、遡れば、若林が春日に出会った学生時代から、そして売れた後もずっと変わらないという。
人間って変わるもので、いや変わらなくちゃいけないものと思っていた節があったけど、春日という人間を知ってからは、「人ってもしかしたら変わらなくても歩んでいける道があるのかも」と思うようになった。
とはいえ、当然ながら、自分という人間を変えようとしない輩が、何もせずに地位や名声を掴めるわけはない。虫が良すぎる話だ。
春日という男は、ずっと芸人として批評にさらされながらも舞台には出続けていたし、なにより彼をなんとかしよう、持ち味を生かそうと奮闘していた相方の若林がいた。
春日が春日であるのは変わらずとも、じっとして何もしてなかったわけではなく、表現を続けていた。で、もって大きな変化というのは、おそらくもともとツッコミをやっていた春日が、ボケになったときだったのではないかと思う。
それは、若林による舞台での配置換えであり、春日というキャラの見え方(見せ方)も移ろってきて、俗にいうズレ漫才という新しい型が生まれるに至ったわけで。つまり、芸人春日をとりまくものが少しずつ変化していった。
ここで一つ学びとろうとするなら、自分のライフステージをいくらか押しあげたいとき、自分という人間を変えることだけが方法でなく、自分をそのままに自分をとりまく環境を変えることが大事になってくるということ。
ぼく自身もその気があるのだけど、自己肯定感が低い人ほど、自分を変えようとして、だけど変えられない自分に苛立ったり、ふさぎこんだり、ノックダウンして、自己否定を加速させるようなスパイラルに入りがち。
だからこそ自分ではなく、環境を変えてみる(あるいは、若林のように環境をいじってくれる人をみつける)。変えようとする対象を変えてみる。
その環境に適応していくなかで、自分は変わったと思わなくても、まわりからすれば変わったよねと思うことが出てくるかも。変わらないんだけど、変わる。という状況が生まれる。
何者かを決めるのは自分じゃなく、他人ってこともふくめて。
結局は、どんな環境に居座るのか、という選択が大事なんだろうけど、春日が若林を相方にしたというのが、一番の決め手だったんじゃないかなぁ。
春日という男は、変わらない象徴として、ずっとそのままでいてくれと勝手気ままに願っておく。去年のオードリーANAで、バカリズムがゲストにきたときも「春日は変わっちゃダメ」と言ってたけど、いっちょ前に思いだけは同じく。
ただ、じっさいには40を超えてきた春日としてはたまには弱音も吐きそうになるとか。それはそれで人間っぽさがあってまた好感があがるのである。
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