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追い剥ぐ文章

 「あ、見つけちゃった」まで辿りつけたらそれでいい。それだけでいい。

 先日、一日に二回日記をつけていることについて書いた。一本目は原稿用紙に書いて、二本目はnoteに書く。つまり、今この文章を書き進めているということは、手書きを終えたから、という意味でもある。

 前回情報に追記しておくと、原稿用紙とnoteの日記の内容は異なる。たしかに、今年の夏くらいまでは、「原稿用紙=下書き」「note=清書」としていた時期もあったけど、今はそれぞれで書き分けることした。

 その理由は、感覚的なものが強いけど、手書きの原稿用紙のほうが自分の感情や思考を吐き出せているものの量が多く、自分で書いてて自分に驚ける確率も高いからだ。

 おそらく、noteは日記と言えど、オープンに晒してる感覚は無意識的に持っていて、若干のロジックが働いて、細々としたところを修正しようというフィルターが掛かってる分、まだ完全には裸にはなり切れていない。天才バカボンのデカパンのように上裸でパンツ一丁な感じ。

 反対に、原稿用紙は、ごくごくクローズな文章の吐き捨て場であり、そののびのびとやれる環境のおかげで、自由気ままに思ったことを思ったままに心のディクテーションができる感じ。振り返って読み返すと、「早起きできなかった」「サボりたい」などの内省や本音がこぼれ出てばかりいる。文章としてもnote以上に稚拙だ。ただ、そういった取り繕っていない”生々しさ”こそ香ばしさを覚える。

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 日記というのは、そもそも自分のために書いているのだ。つまり、ターゲットは自分自身。現在の自分に対して送る手紙でもあるし、それ以上に、未来の自分に対して送るようなタイムカプセルとして色あいが強い。だからこそ、そこでカッコつけていてもしょうがないし、嘘をついてても何にも得をしない。

 noteというのは「公/私」が同居する場ということは再認識したので、それはそれとして日記をつける。そのうえで、もう一つ完全な「私」としての日記を手書きの原稿用紙でつける。そうやって、”自分研究”に近しいものを進めていく。その研究のために大事なことは、構成などせずとにかく”考えず”に書くことであり、”大量に書き出す”ことのように思う。

  詩人/小説家の最果タヒさんがつぶやいていた言葉がまさにそれを表しているような気がして、ついファブってしまった。

 むやみやたらに書き進めることで、目の前の一字一文をひねり出すことに精を出すことによってたどり着けるような感覚、さらには、「ああ、そういうふうに考えていたのね、わたし」というような「見つけちゃった」ポイントがこぼれ出てくる。

 最果タヒさんの言葉を借りれば、同じ「わからない」であったとしても、”どうわからないか”は人それぞれで固有のものを持っているのが当然なわけで、それをたった五文字でゾンザイに片付けてしまうから、どんどん自分がわからなくなるのであって、その抵抗としてあるのが、無計画で大放出の文章なのだ。その行為こそが、わからない自分をわかろうとする行為だと思う。

 服あるいは鎧着まくりの自分を追剥ぎするくらいの気持ちで、嘘のない真っ裸の自分に向き合うために、やや強行手段ではあるかもしれないが、ボクは今日も明日も明後日も手書きで日記をつけていく。

 そんなわけで「とにかく書こうぜ(←おれ)」という話をだらだらと書き進めてみたわけです。はい、言い訳でしたね。迷いながら、精進します。もっと自分わかりてぇーよ! 


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