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主夫になりたかっただけなのに

「ワークライフバランスってどうなってますか?」

最近、10コ近く年の違う知人に不意にそんな質問をされて、思考が一瞬にごった。「ワークライフバランスかぁ…」。手触りのない言葉に対して、どう答えるのがベストなのか、ぼくからすれば言い淀むべきクエスチョン。

そもそもの話! 鳥取大山に来てから、近所付き合いの延長線上で、地域プロジェクトに関わりはじめ、できちゃった婚のように会社までできて、活動するようになってしまっていた。恥ずかしながら、志なんてものはさしてない。

自分の暮らしの周辺(近所)の居心地が良くなっていけば、所謂QOLはどんどん上がっていく。そんな連動性のある仕事をやっていると、つまりは、ワークとライフの境界線はつねにあいまいなのだ(そして、その間のあいまいさをが好ましく思っている)。

そんなこんなで「ワークライフバランス」という言葉をあまり意識せずに、34年目に入ってしまったわけだ。とはいえ、言葉への意識はなかったが、自分の暮らしに対する意識は20代からとてもつもなくあった。

ぼくは主夫になりたかったのだ。

ちょうど今朝、弊社TENGの求人記事をつくるためにライターの人に話を聞いてもらうなか、ふと思い出したこと。沖縄の離島でそだち、超田舎を体験してから、大学生から大都会東京で生活しはじめたわけだが、つねにまとわりついていた違和感があった。

「なぜ、仕事を起点にいろんなことが引っ張られなきゃいけないのか」

やってる仕事がこれで、会社はここにあるからじゃあ乗り換えしやすいこの駅周辺に住もう、あるいは、仕事時間はこんな感じだから、それに合わせて生活リズムをつくっていこう。みたいなことへの強い違和感。

ぼくらは仕事のために暮らしてるんだっけ? と。なぜそれを強いられないといけないのか? 「それが普通じゃん」の一言で思考停止してしまっていいのか? 抗わなくていいのか? と。少なくても、島にいたときに仕事なんてのは暮らしの一部でしかない、もはやてーげー(適当)でもいいやくらいの人が多かったような気さえする。

あくまで、暮らすことがベースなのだ。ぼくはそれがいいと思ったうちの一人であった。「仕事があって、働き方を制限され、暮らし方まで狭まる」という追い込み漁式選択よりも、「暮らしがあって、そこに合わせた働き方があり、仕事が決まってく」というピラミッド積上げ式選択のほうがいい。

少なくとも、20代に描いていた暮らしは、今、未だパーフェクトとは言えずとも形づいてきてるんじゃないかと思う。「スーツを着なくてもいい」「髭を毎日剃らなくていいい」「ラッシュアワーに電車に乗らなくていい」「昼寝ができる」「休みの調整を自分でできる」「移動そのものが仕事につながる」など、求めていた暮らしに合わせ、働き方を絞り、近所のことから仕事が広がっていっている。反省することは数多あれど、よくぞ20代下積みしたな、と自分をちょっとくらいは褒めたい。

そして、その下積みの一番最初の入口ともいえるフリーランスとしての活動がはじめったのが、24歳のときだったが、「なぜフリーランスになったのか?」その問いに対する答えが「主夫になりたいから」の一点であったのだ。

主夫といっても兼業のほうで、「家事や子育てができる」「パートナーがどこにいようと付き添える(どこでもできる)」「その地域にいる意味をつくれる(そこでしかできない)」働き方をつくりたいと思ったわたくし。

母子家庭でそだったからか、父親が家にいること、子どもと一緒にいられることの意味を考えしまう性質もあり、主夫へのパッションめいたものはかなりあった(いやでも当時パートナーはいなかったんすけどね…)。

そしてそしてですよ、10年近く経ち、今の暮らしを「主夫」という切り口で見つめてみると、おそらく働き方的にはだいぶ整ってきているわけです(といっても、今も変わらずパートナーができる気配すらねぇのですが…)。

まあ何が言いたいかと言えば、主夫をめざしてだけなのに、なぜか今鳥取にいて、会社まではじめてしまっていて、地域にわりとどっぷり関わっている、という事実は我ながらおもしろいよなぁということで。

10年後どころか、2~3年後は自分がどうなってるかわからない。”根っこ(ぼくの場合、主夫など)”さえブレなければ、生えてくる枝葉(仕事)は何でもよく、そこにこだわりすぎなくてもいい。むしろどんな枝葉がくるのか、決め打ちしすぎにおもしろがるくらいがいい。20代でつながるか謎だった広く散らばった点が、30代になって線となり、面を形成しつつあって予測不能でぞくぞくする。

自分で自分を規定しすぎることで遠ざけてしまうものは少なからずあるわけで、根っこ以外のものはわりと手放しちゃってもいいのかもしれない。以前書いたnoteにもリンクするような気がする。

そうやって歳を重ねることで、やることが変わり、他人から見た「自分が何者か」が変わっていくのがおもしろいんだ。何者かを決めずに、ずっと何者かを確かめ続ける、でいいじゃないの。つねに仮説で。

意味なんてのはあればベターかもしれないけど、案外なければないで、事が起こったときにうまくまわっていく。というか、うまくまわしていくように人は努めるものだ。

主夫の思想をきっかけに、主夫を実装するための働き方はなんとなく身に付き、そのおかげで広がった暮らしがあり、その中で出会えた人や地域や文化がある。何より5匹の猫たちと暮しせている。ぼくはただそれだけでもう満たされてはいるのだ。多くはねだらない(もはやパートナーですら…)。


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