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その意味を探しても窮屈なだけ

「ご利用は計画的に」

 この文言を聞いてふと思い出す。大学で教育学のゼミに紛れていたとき、ある授業で、次のようなトピックに触れることがあった。

 一流大学と言われるような大学の出身で、年収が高い人たちほど、子どもはあまりつくらない。ざっくりいえば、エリート街道に乗っかってる子ほど一人っ子が多いというもの。

 それは、一人の子どもにつき、幼少から塾や習い事に通わせて、大学まで行かせようとすると、○○○○万ほどお金がかかる計算になるので、我が子の最大限の教育環境を考えたら、一人の子どもにしっかりとお金をかけたほうがいい、という判断の家族計画だったと思う(うろ覚えのところ多いけど)。

 ふーん、そんなものなのか、と思いつつ、一応は国立大学に在学していたのでふと周りを見渡してみて初めて、その情報にリアリティを感じた。

 基本的に、みんないいところ育ちで、高校までやっぱり秀才・神童としてやってきて、びったり塾漬けの高校ライフを送ってました的な、早稲田・慶応などの知れた大学受験もしたけどいろいろあってこっちに入学した、とヘラヘラ口にするような奴もいて、確か在学中の留学率は7割を越えてたし、卒業後はドがつく田舎者でも知ってるような大企業に勤めたり、官僚になるような人の割合が多かった。

 なるほどなぁ、と生きる見本がすぐ隣に座っている事実を確認した。こういうのって「教育格差」とか「再生産」とかのワードとつながるような話でもあるのだけど、母子家庭の四人兄弟で塾も通うことなく(通えるわけもなく)どうにか国立大学に紛れ込んだ雑草人が、お花畑の中で一緒に教育問題について学んでいたことは、今思えば、かなり皮肉的ことだったのかもしれない。

 同時に、お花畑が当たり前の学生からすればボクの存在はかなり異物感があっただろうし、ボク自身も大学にうまく馴染めないなあと感じていたのには、そういう“畑”違いがゆえの常識/世界が違う、同級生たちとのコミュニケーションにあったのだと、今になってやっと分かる。

 行動の一つひとつの意味を精査して、十分な計画を練ることは大丈夫なのはわかるし、そうやって生まれ育ってきた人たちを疎む気はないので(青かった当時は疎んでた気もするけど)(見方によっては彼らも被害者だろうし)、そうしたい/できる人たちが綿密な計画をもとに、無駄なく、効率よく、家族というコミュニティを育んでいけばいいとは思う。

 ただ、ボクのように“そうじゃない”人たちも多くいるなか、その存在が透明人間のようにいないものとして当たり前に扱われてしまうコミュニティにただ″いる″というのは、まあつらい。

 心がいくらかタフになり、見聞もいくぶんか広がった今では、モーマンタイ、つらくないよ、へっちゃらだよ、と言えるのだけど、当時18才のボクにはモヤモヤが覆いかぶさり過ぎて耐えられなかったのは事実だし、同じような異物として社会混入している人はいくらでもいると考えると、まあまあつらい。

 何事も計画が全てで、それができない人たちは野蛮人みたく扱われているようで。哀しいかな、世の中、うまく噛み合う歯車だけでつくられているわけじゃない。

 きっとこれは家族計画だけにかぎらない話で、「何事もやるからには目的や戦略をもち、その意味を定めて、滞りなく遂行できるよう、準備ができてない人たちはダメ」というレッテルを自分や他人でつけてしまうような雰囲気は、日本の隙間隙間にあると思うのだ。
 
 と、話が飛躍しすぎた気もするが、ここから一気にゆるい話をできればと。

 今、猫を5匹と一緒に暮らしている。偶然一緒に暮らすことになった。

 猫を飼う意味など一つもなく、捨て猫の投稿を同居人が見つけ、これは・・・・・・と思うところあり現場に行ったら、生後2週間ほどの子猫が6匹もいた。想定では1~3匹だったけど蓋を開けてみれば6匹。

 兄弟を引き離すのはねぇえええ、という話になり、6匹全部を引き取ることに。悔しくも残念なことに、その内の1匹は弱りきってわずか数日で亡くなってしまったのだけど、残り5匹はうるさいほどに元気で家のなかを毎日荒らしまくっている。

 そう、よくよく考えてみると、もず、みそ、よね、たら、とび、こいつら5匹は、たいした目的も計画もなく、たまたま出会ってしまったがために、これも何かの縁だよね、と一緒に暮らしているにすぎない。

 恥を忍んでいえば、完全なる家族無計画だった。だから、避妊や虚勢、餌やトイレ代でこんなにかかるのか、とやや慌てた(笑)。

 少し話を戻すと、大学時代にお花畑の匂いを覚えてしまった部分は恥ずかしながらあって、頭でっかちな「行動に意味をつけたがる野郎」がひょいと顔を出すときがあるし、年々、加齢とともにその頻度も増えてる自覚がある。

 というのもあって、前もって「猫を飼う意味」なんてものを考えてしまっていたら、″野郎″が条件付けしすぎて、飼うなんていう選択には至らず、今の生活はなかったのではないかと思う。ムカつくけど愛くるしくてしょうがない、成長を楽しむような日々は、きっとなかったし、気づきもなかっただろう。

 意味なんてのはあればベターかもしれないけど、案外なければないで、事が起こったときにうまくまわっていく。というか、うまくまわしていくように人は努めるものだ。本当の意味での、なんくるないさぁ(何もしないでどうにかなる、じゃなくて、努力してどうにかする)、なのである。きっとうちの母がそうだったように。

 そして思うのだ。どんなに時間はかかったとしても、最初は意味なんてよくわからなく、唐突に始まってしまったものに、自分で意味を見い出せたときが一番尊い、と。猫を観察しながら、幾度となく心揺らされてきた。

 冒頭の″教育的な″大きすぎる話からかなりスケールダウンしたような、そもそも関係のないような話に行き着いた気もするのだけど、そろそろまとめをば。

 すべてを猫のように、とか、ボクのように、と一般化するつもりはないうえで書くとするなら、「計画するのはダメ」とまでは言わないけど、たまには、「計画しすぎず余白部分が何割かある」とか「無計画でもGO!」という瞬間があってもいいとは思う。

 それがいたしかたがない状況ってのはあるだろうし、意図を持ちすぎると重たくて動けないときもあるし。あと、限られた手札の中でどうするか考える楽しみも奪われちゃうわけだし。

 ガチガチに固めすぎず、自分を、他人を縛りすぎず、尻軽にふわっとスタートを切りやすい空気が身の回りに溢れれば、もっと気楽にやれるし、おそらく、いくらかは生きやすくなる。

  そう信じながら、内P番組内で生まれた「NO PLAN」の一曲『前略、露天風呂の上より』を聴いてみるのはどうでしょか。

  という提案のために、無計画の、出たとこ勝負で書き始めたnoteでした。

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ケケケ(という屋号) / 編集思考で地域にたゆたう / 百姓2.0 / ローカルプランナー × バーテンダー / 元ライター / 芸能と民俗と風俗 / ことばと思想とコミュニケーション / "そうじゃない"選択肢を / なで肩

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